プロローグ(5)

  五


 高橋店員が女性客の挙手に気付き、一歩を踏み出した。


「おいっ、まずいぞ! 通路通過まであと?」


「八秒」


 その時、先ほど顔だけ振り向いて斎藤に頷いた、右奥のテーブルの男女ペアのうち、女性の方が大きな声で叫んだ。


「店員さん! はいっ、それ私よ」


 斎藤とターゲットの間の通路に侵入しかかっていた高橋が一瞬足を止める。


 ――でかした、ダイヤ!


 高橋店員は目を凝らして、ダイヤのテーブルを見る。札は立っていない。高橋は愛想笑いをして、ダイヤに声をかける。


「お客様、すぐに参ります」


 そう言って通路の突き当たりで挙手している女性に視線を向け直して歩き始めようとしたその途端、男の方の大声が響いた。


「おいっ、高橋! ベテルギウスって赤いラズベリーの乗ったチーズケーキだろ? 俺の彼女が先に頼んでんだよ! おかしいだろ、高橋!」


 声の主は、クラブだ。高橋はぎょっとして再び足を止める。多くのテーブルで人々は会話を止め、高橋を巡って次に何が起こるのか見守り始めた。斎藤が反対側を振り返ると、ハートが、手を挙げていた七番札の女性の肩を、後ろから叩いていた。


「アイミ! アイミちゃんでしょ? 私よ、アリサ」


 右耳からはイヤホン越しに、また、店内が静まったおかげで左耳からはじかに、ハートの声が斎藤に飛び込んでくる。


 ほぼ確実にアイミではないであろう女性は、手を挙げたまま、きょとんとした顔でハートを振り返っている。


 その時、斎藤のイヤホンにスペードの声が入った。


「あと二秒……一秒……渡りきり……ました! ターゲットのボディゾーンに……入ります」


 斎藤は小さく舌打ちをした。ダイヤとハートの機転のおかげで乱気流の発生は危ういところで免れた。だが明らかに摘美鈴は眠気から覚めたようだ。予定通りにあくびが出るとは考えられない。


 斎藤は気が気ではなかった。


「現在地!」


 ダイヤが即答する。


「座標、五、十一、マイナス十七、速度一・三センチメートル毎秒! ターゲットに接触します」


「まずい! ターゲットの服にくっついたら静電気で繊維が絡まって取れなくなる!」


 斎藤はパニックになった。

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