プロローグ(4)

  四


――三、四、五……。


 斎藤は頭の中でカウントしながら軽く頷くと、上着の内ポケットから、薄型のゴム手袋を取り出した。目立たぬ仕草で左手に手袋をはめる。次に取り出したのは、仁丹型の口中清涼剤のプラスチックケースのようだ。ケースをいったんテーブルに置いて、斎藤は右手にも手袋をはめた。一連の動作は流れるように早く、手慣れたものだ。


 薄い名刺入れほどの大きさのケースには、開閉式の小さなふたがついている。斎藤はつまみになっている部分に親指をかけてふたを押し開けると、右手のひらをわずかにくぼませて、注意深くケースを傾ける。マスクの上辺とひたいとの間から、厳しい視線が手のひらに注がれた。


 斎藤が目を凝らす中、仁丹粒の代わりに出てきたのは、仁丹粒よりかなり小さく、注意して見なければ気付かないほどの大きさの、たった一つの、毛玉のような塊だ。それは斎藤の右手のひらにこぼれおちた、というより、手のひらの上一ミリのところに、一本か二本の毛の繊維によって、やっと立っている、という方が正しい。マスクの下でごくりとつばを飲み込む斎藤。喉仏が顎と襟元の間を一往復する。


――十五、十六、十七……。


 一瞬、タブレットに目をやる。


「計算結果――次回予測――前回から八十三秒後」


 前回から予測は変わっていない。


――ようし、慌てるな。慌てるなよ、斎藤……。


 自分を落ち着かせるため、「毛玉」を乗せた右手を硬直させたまま、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。呼気はマスクで遮られ、毛玉を吹き飛ばすことはないが、それでも毛玉はゆらゆら揺れている。


 斎藤は、そっと左右をうかがう。


――誰も歩いて来ない……。


 それを確認し終えると、息を殺して左手で風を立てないようにゆっくりマスクを外した。そしてストローをつまんでグラスから取り出す。次に、ほとんど透明に見えるゴム手袋をはめた右手のひらをわずかに開き、そこに定置している毛玉を確認した。そして、ごくゆっくりと手のひらを顎の高さまで持ち上げておいて、そこからまたゆっくりと、手のひらを下に下げた。


 慣性の法則で毛玉がふわりと空中に放り出された。今、斎藤の五十センチメートルほど前方に滞空し、顎の高さ辺りをゆらゆらと上昇している。


 斎藤は風を起こさないように呼吸を止め、左手に持っていたストローを注意深く口に咥えて、蛇腹の角度を両手で調整する。心臓が高鳴り、呼吸を抑えるのが辛くなる。頭に血が上り、顔は苦痛にゆがむ。


――三十一、三十二……目を離しちゃいかん。集中! 集中するんだ。三十六、三十七、三十八……。


 毛玉が目の辺りまで浮き上がってきた。


――行けッ!


 逆「への字」型に曲げたストローの先端を毛玉に向けて、斎藤は「プッ」と強く、短く息を吐き出す。次の瞬間、もう、ストローの先に毛玉の姿はなかった。


 斎藤がマスクの耳紐をかけ直すと、即座にそのイヤホン越しに女性の声が入った。

「ダイヤです。フラッフィーからの信号確認。感度良好、現在地計測開始。方角十二時〇三分、初速五十四センチメートル毎秒、一・五メートル地点通過、一・八メートル……通過! 順調です」


「クラブです。GPS経由でも同じ現在地を確認。斎藤さん、すごい技術ですね、絶妙です!」


 斎藤は厳しいまなざしのままで、部下たちと共有している現在地情報をタブレット画面で追いながら答える。


「四十七、四十八……まだだ。まだ行程の六割しか飛んでいない。何が起こるか分からん。まるでアポロを月に送り込むNASAの指令室の気分だよ」


「ダイヤです。画面見ておられますか。方角変わらず。速度十八センチメートル毎秒、空気抵抗による減速ペースも予想通り。ターゲットまで七十一センチメートル。到達予想、直前スタンプから八十三秒後。ピッタリです」


 ところがその時、斎藤の右後方から男の店員が近づいて来た。


「番号札七番、ベテルギウス・チーズケーキをお待ちのお客様、いらっしゃいますかぁ……」


 その声を聞いて、斎藤の左、向こうの方に座っている一人の女性が手を上げるのが見えた。雑誌を読むふりをして待機しているハートのすぐ前のテーブルの女性だ。


 斎藤がサッと青ざめ、イヤホンマイク越しに訊く。


「ハート! 女性の番号札は?」


「七番です」


「ダイヤ! 邪魔が入るぞ! 現在地は?」


「通路通過完了まであと十六秒……」


「乱気流予測は?」


「ジョーカー、店員名は誰ですか?」


 斎藤は振り返って名札を見る。


「高橋!」


「たかはし……ありました。入社二年十一か月、フロアチーフ、今日はAシフト……身長……うっ、背が高い! 足速い! まずいです。かなりの乱気流タービュランスを発生させます」

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