第5話 Natsumi (後篇)
コウイチはものすごく不機嫌そうな顔で私をにらんだ。
「言っててくれれば、探しといたのに」
「……え、と。別の所で先に落としたのかもしれないから、これと同じ場所に落ちてるとは限らないと、思って……」
「そんなに調べたいなら、来れば」
コウイチはエレベーターのドアを開けるとさっさと乗り込んでいった。私もあわてて後を追う。
どうしちゃったんだろう? 私。さっきから彼の顔色をうかがうばかりで、言いたいことがきちんと言えない。前は、二人きりでももっと、なんて言うか、その場の空気が軽かったというか、思ってることを自由に口にできた気がするのに。重苦しい空気に押しつぶされそう。
「ゴメン。やっぱり、いい。……帰る」
ドアノブに手を掛けた彼の背中に声をかけ、エレベーターホールに足を向けた。不意に二の腕をつかまれてバランスを崩す。そんな私を抱きとめた彼が耳元でささやいた。
「やりたかったんじゃないの?」
膝の力がカクンと抜けた。
結論から言うと、二度目は有った。
だけど、なんて言うか、彼がわたしのことを好きになってくれたとは全然思えなかった。断るのが面倒だから。成り行きで。そんな感じがしっくりくるようなやる気のなさだった。
正直なところ、もう、すっぱりあきらめた方がいいのかなって気がしなくもなかった。だけど、やっぱりあきらめきれずにまた連絡を取った。
何度かミドリに途中経過を聞かれたけれど、本当のことが言えなくて、適当に嘘を混ぜつつ、いかにも順調ですって風を装っていた。
止めた方がいいって分かってるのに、全く抑えが効かない。ああ、バカなコトやってるなって思いつつも、私は彼の部屋に通う。だって、部屋の合鍵、貰っちゃったんだもの。それに、いつもは私が作ったご飯を黙って食べるだけの彼が、カレーが食べたい、ってリクエストしてくれたんだよ。初めてのリクエスト。張り切った私はスパイスの小瓶を大量に買い込み、みじん切りにした玉ねぎと一緒に炒めて、丁寧に煮込んだ。
「頑張ってみたんだけど、どうかな? おいしい?」
「うん。おいしいよ」
そういう彼の顔には期待外れだとはっきり書いてあったし、スプーンを口に運ぶペースもノロノロとしていた。
「辛さとかは、どう?」
「……こんなものなんじゃない?」
「スパイスの量でいくらでも調節できるんだよ。コウイチの好みの味、教えて欲しいな」
コウイチはスプーンを置くと不思議なものを見る顔で私を見つめた。こんな風にじっと見つめられるのは私がここに通うようになってから初めてのような気がした。
「僕は、普通のが良かったのに」
普通? 普通って何?
私は自分の気持ちをなだめつつ、会話を繋げることに意識を向ける。だって今まで、仕事の悩みとか愚痴はいっぱい聞いたけど、コウイチの個人的なことは何も教えてもらってないんだもの。
「いつもは、どんなカレー食べてるの?」
テレビでも良くCMが流れているカレールーの、レトルトだと答えが返ってきて、また静かになる。だったら始めから、カレールーの名前と辛さを指定してくれれば良かったのに。そう言ったら、だって、聞かれなかったから、って。ナツは、始めから僕の言うこと聞く気なんかないでしょう? いつだって、自分の思い通りにしちゃうじゃない、って。
「それは……」
違うと言いかけて言葉をのみ込んだ。ケンカになるのは嫌だった。お通夜みたいな食事を終えて、それでもやっぱり一緒に寝た。
そんなことがずっと続いても私は彼から離れられなかったし、彼は私を拒否しなかった。ただ、彼のことを思っても胸が痛むだけだったし、何をしても楽しいとは思えなくなった。それでもやっぱり、私は彼と結婚するのだと思っていた。彼にもそのつもりが有るから、少しずつ通う間隔を縮めて同棲状態に持ち込んでも何も言わないのだと思っていた。
そんなある日、昔の同僚――コウイチと出会った学校で仲良くしていた子から結婚式の招待状が届いた。彼と、私の両方に。私宛ての郵便物の大半は一度前の住所に振り分けられた後転送されてくるけれど、これはそうではなかった。出席を打診されたときに、コウイチの住むマンションに直接送ってくれるように頼んでいたから、二人分の招待状が同じ日に届いた。二つ並んだ同じ封筒を見て、コウイチはまた顔をしかめた。
「私、二十代のうちに結婚したいな」
それはささやかな願望だった。派手な結婚式なんて挙げなくてもいいし、新婚旅行だって無理にとは言わない。婚姻届けにサインして、提出するだけで構わない。三十歳になる前にあなたの奥さんになりたい。私はもうすぐ二十九になる。コウイチは私の誕生日を聞いたことがないけど、名前を漢字で書くと「夏」の文字が入るから、夏生まれだってことぐらい分かってくれてるよね?
そんな期待は、彼の一言でバッキバキに砕かれた。
「そう、それなら、早くいい人探さないとね」
どういうこと? あなたは、私のことが好きなんじゃないの? 好きでもないのに一緒に暮らして、一緒に寝るっていうの? ねえ。
そりゃ、あなたは私よりも二つ年下で、男だし、まだ結婚なんて早いって思ってるのかもしれないけれど、早すぎるなんてことはないでしょう?
それとも……本当に私のことなんてどうでもよかったの?
それからの一か月は、毎日がグダグダだった。コウイチの関心を引きたくてきつい言葉を投げつけ、無視されるともっとひどいことを言った。ケンカでもいいから私に向き合って欲しかったし、嫌ってないんていないって証拠に抱いて欲しかった。
思い返してみれば、私はただ、意地になっていただけなのだと分かる。初めて本気で好きになった男に女として認められたかっただけ。
そして、やっと気づいた。初めて会った時に私が彼をいいなと思った理由は、彼が性的な目で私を見なかったこと。つまり、女としての私に全く関心を示していなかったからなのだと。
明日から学校が夏休みに入るあの日、私は何かに憑りつかれたかのように自分の荷物をかき集めてゴミ袋に次々と放り込んでいった。後腐れなく、きれいサッパリ持ち出せれば良かったのだろうけれど、学生時代から十年も住んだ狭いアパートは解約してしまっていたし、転がり込む予定のミドリの部屋にこんなに大量の荷物を持ち込むわけにもいかなかった。
ホント、いつの間にこんなことになってたんだろうと思うほど、私の物が彼の部屋のあちこちに収まっていて、自分でも不思議になった。
ついでに探してみたピアスのキャッチは見つからなかった。多分、私が二度目にここに来た時には何かに紛れてすでに捨てられてしまっていたか、もしかしたら、最初からここにはなかったのかもしれない。だって一度も、彼は私を捕まえておこうとはしなかったもの。
合いカギと一緒に書置きを残して私はひっそりと部屋を出た。期待するだけ無駄だとは分かっていたけどそれでも、もしかしたら彼が迎えに来てくれるかもしれないと夢みたいなことを考える自分を冷めた目であざ笑いながら。
「ねえ、ミドリ。私、なんかカッコ悪いね」
今までのこと。ウソの途中経過を報告していたことをぽつぽつと語りながらジュースを冷やすために買ったロックアイスをタオルにくるんで目に当てる。タオルが徐々に湿ってくるけど、これは涙じゃないよ。氷が解けた水なんだからね。
「そうだね。……だけどさ、本気になったら、カッコ悪くて当然じゃない? 本気になったら、なりふり構ってる余裕なんてないんだよ。そしてね、恋は、先に本気になったって悟られた方が負けなの」
「そっか……。じゃあ、始めから負けてたんじゃない」
「そうよ。だけどナツ、そんなこと言われて『はいそうですか』って聞けなかったでしょう?」
そうだね。私はタオルをグリグリと顔に押し当てる。ミドリが賛成しようが反対しようが、あの時私はコウイチに会いたかった。
「で、どうするの? これから」
「どうしたらいいと思う?」
「そんなの自分で考えなさいよって言いたいところだけど……。とりあえず、住むとこさがさなきゃ。今度はもっと広いところにしなさいよ」
「えっと……そうだね。……引っ越しはするけど、狭いとこでいいよ。その方が一人でも寂しくないもん」
「えー。前よりは広いとこにしようよ。できれば私の会社の近くで、残業で遅くなった日は泊めてくれると嬉しいんだけど」
「何よ。それ。私はミドリのために引っ越すんじゃないよ」
泣き笑いの顔でふくれっ面になる私の額を軽く小突きながら、弱気になってるとこうやって付け込まれるよ、って彼女は笑った。
職場に通える範囲でコウイチの住むマンションからできるだけ遠く離れたエリアにターゲットを絞ってネットで部屋を探した。いくつか候補を絞ってから不動産屋に電話する。ミドリに追い立てられるように身支度を整えた。メイクをする気力もなかったので日焼け止めだけばっちり塗って、粉を軽くはたいた後に薄く口紅を引いた。ブラシもペンシルも使わずに適当に。髪も適当に手櫛でまとめてシュシュで縛る。
日差しが眩しかったのでサングラスを掛けたかったけれど、生憎と持ち出した荷物の中には入れていなかった。歩くのも面倒なのでタクシーを呼び、二人で不動産屋に乗り付けた。
数年前に新しい道路が通り、区画整理が行われて一気に住人が増えた町の、古くから残っている方の家に取り囲まれた小ぢんまりしたビルの一階のお店はガランとしていた。
「いらっしゃいませ」
「先ほど電話したキノシタです」
ああ、お待ちしていました、と事務員の女の子が数枚の紙を片手にカウンターまで出てきた。間取りや家賃についてはすでにネットで見ているから、後は具体的な場所と中を見せてもらえれば良かった。地図を確認しながらミドリとも相談していたらお昼休みが終わったのか何人かの男の人が事務所に入ってきた。その中の一人がなぜかカウンターの私の所まで真っ直ぐに歩いてきた。
「こんにちは。お久しぶりですね」
久しぶりって、どういうことだろう? 私はその人の顔をまじまじと見つめた。
「え、と。……オキタ先生?」
「もう先生じゃありませんよ。退職しましたからね」
彼はまだ三十代なのに今年の春に家庭の事情とかで早期退職していた。一年間は同じ職場だったわけだけど、挨拶とか、どうしても必要なこと以外に会話した記憶はなかった。街でばったり出会っても自分からは声を掛けないし、もしかしたら誰だか分からないかもしれないぐらいの関係だった。
差し出された名刺を見ると、肩書は社長だった。学校では安物のよれっとしたスーツを着ている小太りの人って印象しかなかったけれど、今は仕立ての良いスーツを着て、有名ブランドの腕時計をはめていた。冴えないと思っていた太めのお腹回りも広くなりつつある額も、今こうして見ると貫禄があると言えなくもない。あ、髪型と、メガネを変えたんだ。
「家業を継がれたんですか?」
「ええ。本当はもう少し教師を続けたかったんですけどね」
いつの間にか事務員の女の子はカウンターから遠ざかっていて、私はオキタ社長の個人的なお客さんだと認識されてしまったらしかった。
「引っ越しは、お急ぎですか?」
「ええ。まあ。……夏休みの間に済ませたいので」
「今月末に空く予定の物件をおススメしたいんですけどね。色々と条件がうるさいんですけど、その分家賃はお安くなっていますよ」
確かにその物件はお得だったし、仲介する不動産屋としてもある程度身元のしっかりした人に住んでもらいたいと言う理由も分かった。ただ問題は、借りられるのがたったの一年間だと言うこと。分譲マンションを転勤で不在にする一年間だけ貸したいと話を持ち込まれたものの、都合よく一年間だけ借りてくれる人なんてそうそういないと困っていたと言うのだ。
「ナツ。ここにしちゃいなよ。それでさ、一年婚活頑張って、寿退居すればいいじゃない」
コトブキタイキョって、何それ。言葉の意味を捉えるのにちょっと時間がかかった。
「おや。キノシタ先生は今フリーなんですか?」
オキタ社長がミドリの言葉に反応した。ミドリが大きくうなずく。
やめてよね。そんな風に個人情報ばらすの。私はミドリのTシャツの端を軽く引っ張る。
「それじゃ、今度お食事にお誘いしてもいいですか? お二人ご一緒に」
冗談で流せそうな茶目っ気のある言い方だったのに、もちろん、とミドリが答えた。
私がぼんやりしている間に、あっという間に日にちと時間が決まってしまった。
まあ、いいか。断るのも面倒くさいし。どうせヒマだし。
私はファミリー向けのマンションの間取り図を眺めながら、最低限買いそろえなくてはならない電化製品に思いを馳せた。
KLMNOPP 佐谷望 @--saya--
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