少年と僕

新淵ノ鯱

第1話 少年と僕

時刻は二十時を回ったころ。酒に酔った大人たちの機嫌良さ気な笑い声が室内に響き渡る中、少年は畳敷きの床に寝そべって、一人、ゲームをしていた。当然、大人たちの会話の渦中に身を突っ込むつもりは毛頭ない。むしろ、騒ぎ声を遮断したいと思って、イヤホンを耳に差し込み、自分の世界に籠ろうとしていたところだった。

 そこは少年の自宅であったが、だいぶ古めかしい造りになっており、天井も木の板で出来ていた。あまり分厚くなく、小動物がそこを移動すれば、足音が確実に聞こえてくる。とっとっとっとっと……と小さな音が、周りの大人には、聞こえたらしい。

――おい、また何かおるんちゃうか……?

 一人が気づいたのを皮切りに、全員がある一点を見つめる。それとほぼ同時に、長い箒が差し出された。それを持ち、先ほどその存在に気付いた大人は、音が聞こえた方へと向かって行く。

 意味ないのになぁ……と思いつつ、箒の先で天井を小突く大人を見る。ただただ、憂さ晴らしがしたいだけなのだろう。小動物を脅すのは、その言い訳に過ぎない。十回ほど叩いて満足したのか、自分がいた場所へと戻り、再び酒を呷りはじめた。

 武勇伝のように話す声を再びイヤホンで遮断した少年は、何気なく考え出す。

 同じ動物なのに、どうして人間は人間じゃない別の存在を排除しようとするのだろう。小動物にだって、小動物の営みがあるはずだ。しかも、それは人間よりも遥かに過酷になる。人間なんて、毎日働いていればお金が貰えて、それで食べ物、着るもの、住むところを買うことができる。だが、ほかの動物はどうだ。餌を毎日探さなければ飢え死ぬ。買うことなんてできない。ようやく住めるところが見つかったと思えば、うるさいという理由で人間に追い出される。

「どっちがうるさいか、なんて……。考えんでも分かるのに」

 少年は嫌味っぽく呟く。

 動物たちも人間と同じく、自らが生きるための活動をしているだけなのだ。だが、人間は、それを迷惑だと叫び、追い払う。やっていることは同じなのに、それを「人間じゃない」ものが行っていることだから、というただそれだけの理由で邪魔をする。

 人間は我儘すぎる。自分の欲望さえ満たされれば良いと考える、醜い生物だ。

 まぁ、こんなことを人間が考えても、説得力に欠けるか。

 少年はそう思って、心の中で笑った。





「ねぇねぇお父さん、ちょっと散歩に行ってきていい?」

 大あくびをしていたお父さんに、僕は尋ねる。最近は全く外に出られておらず、遊び足りていなかった。こうしてずっと家にこもる生活になってから、自由に動き回れた日々がとても愛おしく思えるようになった。あの時に今の分も燥いでおけば良かったなぁ、と後悔する。

「やめとけ、外は雨が降ってるぞ」

「降ってないよ」

 窓から外を眺めて、僕は笑顔で即答する。今日はずっと外を見ていた。雨なんて一滴も降っていない。

こんな些細なことであるが、なぜかお父さんに勝てた気がした。お父さんはため息を吐き、「じゃあ行ってこいよ」と言ってくれた。

「気を付けるんだぞ」

 ちょっと怖い声でそう念を押すお父さんに再び笑顔を向けて、僕は外へ出ようとする。

「ん? どっか行くの?」

 玄関で掃除をしていたお母さんが僕の存在に気づいて声をかけてくる。散歩に行く旨を伝えると、お母さんも「気を付けてね」と言ってくれた。ただし、こちらもやはり少し強めだった。

 久しぶりに太陽の光を浴びる。少し厚めの雲が所々にあったが、その隙間から見える空は鮮やかな水色だった。ぐーっと背中を伸ばして、これまでの鬱憤を呻き声に乗せて外に放つ。とても清々しい気分だった。

 僕たちがいま暮らしているところは、周囲を山々に囲まれた、いわゆる、盆地と呼ばれるような場所だった。町の中心部に行けばそれなりに賑わっているのだが、僕たちの家の周りは交通量も少なく、近所のおじいちゃんやおばあちゃんが営んでいる小さな畑や田んぼがぽつぽつと点在している。今一つパッとしない天気の下でも、老夫婦は食物が元気に育つように、と汗を流しているようだった。

「いいところだなぁ、ここは」

 そんな風景を見ていると、しみじみと思う言葉が不意に口をついて出てきた。どうやら、心の中に留めておくだけでは僕の身体が満足しなかったらしい。他の地域では、こんな感動を味わった覚えはない。

 しかし、僕の安穏な状態は、耳を劈く轟音に打ち破られる。慌ててその方を見ると、目と鼻の先にまで自動車がやってきていた。うわっ、と僕は声にならない悲鳴を上げて回避する。車はクラクションすら鳴らさなかった。低く唸りながら、すぐに見えなくなる。

「うぅ……危なかった……」

 お父さんとお母さんにも言われたばかりだったのに……。久しぶりの外出だからと言って、気を抜いていてはだめだ。今の一件で少し気分が落ち込んでしまった僕は、あまり道草を食わずに早めに家に帰ることに決めた。

「ただいまー」

 ニ十分ほどだけ散歩を続けた後に、僕は帰宅した。玄関を通り、廊下に差し掛かったところで、僕は家内に漂う異様な雰囲気を感じ取る。

 やけに静かだった。いや、静かなのは日常茶飯事と言っても過言ではない。家に入って、静かだなーと思った時は、お父さんかお母さん、どちらかを呼べば、確実に返事をくれる。ただ、今日は家の中が静かなのではない。「空気が」静かだった。まるでそこに誰も存在していないかのように、生活を営む音という音が、全く聞こえてこなかった。誰の呼吸音も聞こえず、僕が息を吐く音のみが虚しく落ちていく。

 僕はお父さんを呼んだ。次いでお母さんも呼んだ。だが、その声に応える者は誰一つと、何一つとして存在しなかった。先ほどの吐息よろしく、虚空に浮かび、落ちていくだけである。

 大きな恐怖を覚えながら家の奥へと進んだ。この状況に、僕は既視感を覚えていた。先に広がる光景が僕の想像と似通っていないことを祈りつつ、震える足で前へと踏み出す。

「――」

 しばらく僕はその場から動けなかった。それは僕の予想通りの結末を我が家が迎えてしまったからであるが、もう一つ、大きな理由があった。まだ、近くで物音が聞こえるからだ。恐らくは、家を滅茶苦茶にした犯人が室内を物色あるいは凌辱しているのであろう。幸いにも、僕の声には気づいていないようだ。だが、姿を見られたら、その先には抹殺される未来しか待っていないことは容易に想像できる。早く逃げなければ、という思いは頭の中で、胸の中で、募るのだが、体が言うことを聞かない。どれだけ考えを巡らせようが、最終的に僕は逃げるしかない。非力で気弱な僕が家を荒らすような奴を仕留められる筈がないし、何より死にたくない。先がどれだけあるかわからないが、せめてもっと食べて、遊んで、出来るかわからないけど恋をして……。死ぬなら、自分の生涯に満足してから死にたいと思う。そのためには、こんなところでくたばることはできない。

「――!」

 意気込んで、だけども音は立てないように、慎重に来た廊下を戻る。一歩、二歩、三歩……と一歩進むたびに、逃げられるという安心感の所為か、緊張がほどけていく。先ほどまで歩いていた外までは、もう五歩もかからない場所までやってきていた。

(……もうちょっと!)

 希望を与えてくれる声が僕の中で木霊した。

僕の塵のような緊張感なんて、この世の運命とやらに影響を与えるのか半信半疑なものだ。しかし、少なくとも今回は与えてしまったらしい。奥から、ドンドンドン! と怪獣が走るような太い足音がかなりの速度で向かってくるのだ。僕は思わず一瞬振り返ってしまう。仄明るい室内で、その姿は確認できなかった。だが、そんなことをしている間にも音は着実に近づいてきている。

 僕は転がるようにして外に飛び出た。それからは、ひたすらに走った。走られるだけ走った。自分の身に感じた恐怖から逃れたい、少しでも遠ざかりたいという気持ちだけを心に持ち、走り続けた。

 気づけば僕は見知らぬ場所にまでやってきていた。夕暮れ時が近くなってきているのか空は橙に染まり、灰色の雲が僕を嘲笑うように優しく流れている。

「……そう言えば、お父さんとお母さんは……」

 もしかしたら、家に取り残されているのかもしれない。その場合は……。

 助けに行きたいが、そんな勇気など、僕にはなかった。仮にあったとしても、家がどっちの方角なのかすら、わからない。

 僕は彷徨った。何も食べずに、いつもの散歩のように彷徨っていた。

 どれだけ歩いても、僕が孤独だということに変化を与えるものは現れなかった。



 僕はふらふらと薄闇に包まれたこの広大な世界を歩く。そんなだから、途中で何度も自動車に挽かれかけた。もはやそれに対して怒りや悲しみを覚えることはなくなり、「どうにでもなれ」という諦めの気持ちが僕の心の大半を占めはじめていた。

 身体は汚れ、見た目は乞食のようだと思い、自嘲の笑みが何度もこぼれた。すれ違う人たちは、僕のことなど視界の片隅にも入れない。たまに僕の存在に気づいて視線を向けてくれる人はいたものの、その全てが気持ち悪いものを見るようなものであり、ある人は咄嗟に目を逸らし、ある人は数秒凝視したのち、隣にいた人と高い声で笑いながら去っていった。

 夏が近く、日は徐々に長くなりつつあるとはいえ、そろそろ空は夜へと向かうその速度を上げている。あと一時間もせぬうちに、闇がこの街を包み込むだろう。

「……お腹、空いた……」

 太く大きな電柱に寄りかかり、ぽつりと漏らす。そんなこと言ったところで何も変わりやしないことは分かっている。道に落ちている石ころとかを食べたりするわけにはいかないし、かといって誰かの家に盗みに入るわけにもいかない。いや、死ぬ寸前になったら、そうするしかないかな……。

「……ダメだなぁ、僕は……」

 僕の不幸や孤独など、この世界において、些末な事象に過ぎない。僕なんかよりももっと苦しんでいる誰かは確実にいるし、僕が「不幸」などと口走っていいのかすらも疑問に思えてくる。たった一度ご飯を食べられないだけで「不幸」などと思うのは、とても失礼なことのような気がし、自分の愚かさに、また僕は笑う。

「……あれ、どうしたんやろ、こんなところに。……ん? なんか笑っとる」

 そんな僕を見下ろす、一つの影があった。身体が瞬時に逃げ出そうとするが、僕の今の体力では、それは叶うことではない。少し場所が変わっただけで、僕は思いっきり地面に身体を打ちつけてしまった。

「……そんなに怯えんでも。…………コレ、食べる?」

 優しい声だった。僕が今日聞いたいずれの声にも当てはまらない、僕を安心させてくれる声だった。

 振り返ると、目の前に一本のソーセージが差し出されていた。その先には一人の少年の顔があった。特に表情は顔に出ておらず、いつもはもっと大きいのであろう、二つの瞳を少し細め、僕をじっと見つめていた。

「食べる? 食べない?」

 僕が躊躇っていると、少年はソーセージをちょいちょい、と上下に動かし、僕の反応を待った。僕はその動きに合わせて、思わず顔を動かしてしまう。魚肉のいい匂いが、空きっ腹に訴えかけていた。

 そんな僕を見て、少年は少しだけ笑った。顔をわずかに傾げ、口角を持ち上げてクスリと。そしてソーセージの動きを止め、僕にそれを渡してくれた。

「……ありがとう……」

 彼に届いたかわからないぐらいの小さな声だった。少年は僕が食べ始めるとすぐに立ちあがり、どこかへ歩いて行った。

 僕は無言で齧り続けた。すぐになくなり、正直なところ空腹はまだ完全には満たされていないが、贅沢は言えるような状況ではない。少し早いが、眠ってしまうことにした。

 あの少年が、僕を助けられないことは、僕自身が一番わかっている。家に連れて行ってほしい、とか思うことは一瞬たりともなかった。いくら知識が浅い僕でも、自分の立場ぐらいは弁(わきま)えているつもりだ。

 その日の夜は温かかった。僕は全く震えることなく、次の日を迎えることができた。



 次の日も僕は彷徨った。結果は昨日と何も変わらなかった。記憶を根こそぎ持って行かれたかのように自分の家の場所が分からず、右往左往した挙句、元の場所に戻ってくる、ということを幾度となく繰り返した。

 また陽が落ち、昨日と全く同じように感じられる夜を僕は迎えた。唯一違うことと言えば、今日は全く食べ物を食べていない。育ち盛りの僕にとって、この状況は非常につらく、厳しいものだった。

 不意に、昨日のソーセージの味が思いだされる。仄かな甘みや、ふにっとした感触が、口の中、そして体の中を駆け巡る。だが、当然ながらそれで空腹が満たされたりすることはなく、寂しさやひもじさが募るだけであった。

「いま……何してるんだろ」

 思いだす味なんて、忘れてしまいたかった。記憶に残っている限り、その残滓によって僕の空きっ腹は、さらに刺激を受けてしまう。だが、もし味を忘れてしまったら、あの少年の事も忘れてしまうような気がした。僕の数少ない美しい想い出の一つとして、彼は残しておきたい。そのためには、一秒ごとに体を蝕んでいくこの吐き気にも似た感覚に耐えるしかない。今更ながらに、世界は僕らに甘くないな、と思った。

 何となく、昨日少年が去っていったと思われる方向に向かって歩き出す。食べ物をもらおうなんて浅はかな考えは浮かばない。ただ、もう一度出会っておきたかった。それで僕の中の何かが満たされるのならば、このまま飢えて死んでも後悔はしないという小さな確信があった。

 上下左右を見回しながら歩いているとき、唐突に怒鳴り声のような大声がある家から聞こえてきた。自分がされているわけでもないのに、いつもお父さんに受けていた説教を思い出して、肩が跳ねてしまった。ちょっと興味が湧いて、その家に近づく。

 壁のせいでうまくは聞き取れない。ただ、母親と思しき女性の声だけはよく聞こえる。外から聞いていると、一人芝居でもしているようだった。

 五分ほどでそれは終わり、僕の関心も消えかかっていた時に、その家のドアが開いた。

「…………」

 少年は黙って僕の横を通り過ぎていき、そして街灯の無機質な光に照らされた夜道の中に溶け込んでいった。

 彼は、昨日の少年に似ていた。いや、暗がりであっても、僕が捉えた姿が昨日の記憶の彼と異なっているとは思えなかった。

 我に帰った僕は慌てて彼を追いかける。幸い、すぐに追いつくことができた。少年の前に回り込み、行かせないと言うように立ちはだかる。そんな僕を見て、少年は目を丸くした。身軽そうな薄いTシャツと短パンというどこにでもいそうな格好をしているが、僕にとって彼は特別な存在だ。周囲とは一線を画して見える。

「あぁ、もしかして昨日の……」

 僕を確認すると、少年は気だるそうな声を漏らした。

「どうしたの? またご飯?」

 首を横に振る。少し笑われた。

「うん、よかった」

 それだけ言い、僕の横をすり抜けて歩き去ろうとする。僕は意を決し、彼に向かって叫ぶ。

「……き、昨日は……っ!」

 だが、少年の歩みは止まらない。僕の叫びは、やはり彼には届かない。せめて感謝だけでも伝えたい。その想いだけで、僕はまた動く。

 もう一度彼の前に戻る。「また?」みたいな顔をされたが、今は気にしない。気持ちを伝えた後で、たっぷり悔やむことにする。

 空気を思いっきり吸い込み、伝えられなかったことを口に出す。

「ご、ご飯……くれて、ありがとうっ……!」

 言いきっても、少年の疑問符を浮かべた顔は変わらない。少年は僕を見降ろした後、真横で大きく足を踏みおろし、僕を威嚇するようにして去っていった。

 二日目の夜も、一日目と同じ場所で過ごした。この日も、寒くはなかった。僕は、僕がしなくてはならない最低限の役目を果たした。

 満足感など、微塵も覚えなかった。



 三日目になると、そろそろ体力の限界を感じるようになってきた。最初の違和感は、朝、起きてすぐに覚えた。

 身体に力が入らなくなってきたのだ。動こうとしても、空腹によってやってくる腹痛に悩まされ、出すものも殆どないはずなのに、吐き気が込み上げてくる。

 このころになって、ようやく僕は恐怖を感じ始めた。今の僕に頼れる存在は全くいない。家の方角は分からないし、両親も姿を消したきりで、どこへ行ったのか僕には想像もつかない。歩き回ればいつかは巡り合えるかもしれないが、そんな体力は残っていなかった。

 そして、僕の精神に与えた影響として一番大きかったのが、少年のあの態度だろう。覚悟の上で行(おこな)ったこととはいえ、思いが通じなかったという現実は、易くその覚悟を越えていった。あの時の少年の目を、僕は未だに鮮明に思いだすことができる。それを覚えている限り、僕の心は蝕まれ続けるのだろうと思った。

 朝の清々しい空気の中を、ちびっ子たちが駆けて行く。まだ早い時間帯だというのに、とても元気だ。少し振り返れば、主婦と思しき数人の女性が、大きなゴミ袋を手にこっちへ向かってきている。その後ろに軒を連ねている家の一つは、玄関の扉が開けっ放しだった。

 僕は吸い込まれるようにふらふらと、そこへ向かって歩いていく。周りの人たちが僕に気づいたり、怪しんだりする様子はない。なるほど、今も少年の険しい姿は脳裏に描かれている。忘れたくないと願うたび、この画像は僕の中で色を濃くしていくのだろう。やがてモノクロになるはずの記憶は、時を経るにつれて、鮮やかに、そして艶やかに映え、僕は永遠に苦しむことになる。命がそこまで続けば、の話ではあるのだが。

 ドアを通り抜けると、漂う朝食の香りが僕の鼻孔をくすぐる。物陰に隠れながら近づくと、テーブルの上には、皿が並んでおり、そこには焼かれたばかりと思われる数本のソーセージが横たわっていた。周りに誰もいないことを確認して、僕はそれに近づく。

 熱さなど気に留めるだけの余裕はなかった。気配を殺してテーブルに手を突き、かじりつこうとする。

 そんな時に、僕の身体を悲鳴が貫いた。誰かなんて確認しなくても分かるし、確認する必要がない。前歯が既にソーセージの皮の部分に触れかけていたが、このまま捕まってしまってはまずいという危機感の方が、今は空腹感よりも上を行き、弾かれたように駆けだした。

 朝の涼しい空気を通すためか、半分だけ開けられていた扉を潜り抜け、僕はまた何もない空虚な世界へ放り出される。

 二日前と同じように走り続けた。少し前まで覚えていた吐き気は騒いでいるうちに消え去り、僕は残っているすべての体力を使い果たしかねない勢いで駆け抜けた。くだんの家から大きく距離をとった僕は、一息吐こうと道の端に体を寄せる。

 相も変わらず空腹が僕を締め付ける。腐ってても、毒入りでも何でもいいからとにかく胃に何かを入れたかった。

地面を一匹の昆虫が這っている。まったく逃げる気配がなかったので捕まえ、そのまま口に入れた。じゃりじゃりとした感触と形容しがたい臭みが広がり、空っぽの身体に吸い込まれていくのを感じた。

「……はぁ……」

 もはや諦めなのか、疲れの所為なのか判然としない。力を振り絞って周囲を見回すと、何やらピンクの長いものが落ちていた。既視感を覚え、それを凝視する。

「…………ソーセージ」

 あの時、少年がくれたソーセージと同じものと思われる。最後に食べたまともな食物が、あれだった。僕を縛り付けている最たるものの一つだが、今の僕にそんなことは関係なかった。とにかくおいしいものに、すなわち人間の食べるものにありつきたいという単純な思いから、それに向かってわき目も振らずに走る。

 そして、甘い匂いと物体が目の前に迫ったと思った瞬間だった。

 突然、体が動かなくなった。どうあがいても、何かに「物理的に」縛られているようで、抜け出すことができない。

 慌てて下を見ると、白いべっとりしたものに手足が吸いつけられていた。いつか聞いた、お父さんの言葉を思い出す。

――俺たちを捕まえるものがあるから、気を付けろよ。

 それには続きがあった。

――それは板みたいなもので、地面に置いてあり、べとべとしてる。一度捕まると抜け出せなくなるから……。

 動くたびに僕の身体に纏わりつき、なけなしの体力を奪っていくソレが、お父さんの言っていたものなのだと理解した。

 十五分ほどだろうか、動けない僕には数時間に感じられたが、それほど経ったとき、奥から「人間」がやってきた。捕まっている僕を見て「してやったり」な表情を浮かべ、僕へと迫りくる。

「おとうさーん、つかまっとるよ~」

 そんな声が聞こえて、呼ばれた男がやってくる。その横には、例の少年の姿があった。

 もはや、泣きたいとすら思わなかった。いずれ、こうなる運命だったのだ。最後に彼に出会えたことだけを喜ぶしかない。いや、それだけでも充分に豪華だと思う。絶対に共存できないと僕たちの世界で言われていた人間と、脆く、小さなものではあるが、関係を持つことができたのだ。もしかしたら、今後の社会に何かしらの影響を与えてくれるかもしれない。

 僕は目を瞑り、揺れ動く地面に為す術無く横たわる。この後、何をされるかなんてわかりきっている。「人間」にとって邪魔者でしかない僕らは、彼らの快適な生活のために、犠牲になるのだ。

 他に、一つだけ、喜ばしかったことがある。

 永遠の苦しみから、僕は解放された。

 もし生まれ変われるなら、次は人間になってみたいと思う。


 *


 トリモチに張り付けられ、連れ去られていくソレを見つめ、少年は囮のソーセージを手に取る。賞味期限が切れしまったものなので、いつかは捨てることになっていたものだ。だから、あの日、少年はソーセージを買ってこいと頼まれていた。

 でも、購入したときの一本を、一匹のネズミにあげた。まだ生きているにも関わらず、もう死んでいるような動きをしていた。それを見て、非常に心苦しくなった。

 それが母親にばれて怒られ、言い返すのも面倒だった少年は、次の日に追いかけてきたネズミに対し、脅すような真似をした。それが一般的な人間の反応だと思った。

 帰宅してから、それを後悔した。「彼」には何の罪もない。ただ、そこに存在していただけなのだ。少年も変わらず、人間であった。

 償いというわけではないが、少年は心の端っこで思いやる。

「元気になったかな……」

 少年の祈りは、朝陽輝くこの世界のどこかに消えていく。

 それは、二度と思い返されることのない、儚い願い。



「おとうさん、最近屋根裏、どう?」

「ん? あぁ、また箒で叩いたらどっか行ったよ」

「……そう、なら安心やね」

「これからもずっと静かやと、ええんやけどな……」

 少年は早々に食事を終え、外に出た。

 元気な男の子が一人、少年の前を駆け抜けていった。

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