夏の終わり

 太陽が沈み始めるころ、俺たちは島の西側にある展望台に向かった。

 三階分とけっこうキツい階段を上り、四メートル四方ほどの展望スペースに到着すると、いままさに落日が海に溶けていく瞬間だった。

「うわあー」リンが素直な歓声を上げた。「ちょうどだったねっ。きれー」

 俺も満足げな気分で、胸の高さの手すりに両腕を乗せた。

 風が巻く展望台。

 揺れる木々の向こうに広がる晩夏の海を、ふたりで眺めた。

 夕暮れの穏やかな水面は、金属的な質感で輝いていた。

 光には、ほんのわずかに秋の気配が混じり始めていた。

 海の先の金色の街は、幻想の海上都市のようだった。

「わたしたちの家、どのへんかな」

「あそこ見えるか? 鴻巣山の赤いテレビ塔。あのへんがリンの家のあたりだな」

「こんな場所から見るなんて不思議」

 リンは抑揚のない落ち着いた口調で言った。

「にしても、俺たちの街って、田舎だよなー」

 俺の住む『海辺の街』と、リンの住む『山の町』……ここから見ると、大きなひとつの都市だ。あらためて遠くから見ると、山と海に挟まれた本当にささやかな街だと感じる。

「ねえ」とリンが言った。「タキくんは……この街、好き?」

「好きだよ」と俺は即答した。いつもそう感じている。「ずっとここに居たいね」

「そっか。わたしも好き……大好き……。ずっとここに居たい」

 俺たちは互いに笑いあった。

 それからは、ぐんぐん沈んでいく夕陽をただ黙って見つめた。

「夏が終わる、か」

 夕陽のせいか、去っていく季節のせいか、感傷的な気分で俺はつぶやいていた。

「なんかあっという間だったね」

 視線は海の方に向けたまま、夢見るような口調でリンが答える。

「夏が始まるときって、いつも思うんだよ。今年こそ、何かが起こりそう。今年こそ、特別な夏になりそうって。でも、気がついたら夏はあっという間に終わっちまってるんだよな」

「……今年の夏は? なにか特別なこと、あった……?」

 今年の夏は特別なものになっただろうか?

 俺は悔いがないように精いっぱい毎日を過ごせただろうか?

「そうだな」俺はリンのほうを見ずに答えた。「妹みたいな女の子と出会った」

 リンの全身がゆっくりこっちを向くのを視界の隅に感じた。

「妹と過ごした夏ってのも、悪くなかったよ」

 今年の夏は、本当に、本当に、楽しかった。特別な夏だった。

 シノとの再会。アリカとの夜。カスヤとの喧嘩。いろいろなことがあったけど……でも、一番はやっぱり。

 おまえが居てくれたから。おまえと一緒だったから。

 それを口に出すのはさすがに恥ずかしく、俺は黙って海を眺めた。

「タキくん」

 思いがけない強い口調でリンが俺の名を呼ぶ。

 俺はリンを見た。

 名前通りの凛とした顔は、茜色に染まり、妙に大人びていて、知らない女の子が立ってるみたいだった。

「妹ってなに?」

 一歩前に出て俺に近づく。

「わたし……妹なんかじゃないよ」

 笑っているようにも、怒っているようにも、そして悲しんでいるようにも見える、不思議な表情で。

 ぐいっとさらに前に出て来る。

 俺は思わず全身をリンに向けた。

 息がかかりそうな距離まで、ずんずんと近づいてくる。

 近い。お互いの身体が触れるか触れないくらいの近さだ。

 リンは挑むような真面目な顔で俺を見上げると、やがて、決心したようにぐっと目を閉じた。そして、綺麗なあごを少し持ち上げた。

 俺は完全に固まり、その美しい顔をただ見つめていた。

 悲痛なほどぎゅっと閉じられた瞳を。

 薄く開かれた、柔らかそうな唇を。


 ――そして

 

  ふたつの気持ちが同時に沸き起こった。


 ――こんなリンは見たくなかった。

 ――いつかこんなことになるのを自分でもわかっていた。


 唐突に、イタリアに居た時のことがフラッシュバックした。

 それはアマルフィに泊まったときのことだ。

 かなり大物の顧客の勝手な都合で、叔母だけが急きょ泊りがけで別の場所に行くことになり、俺と従妹は二人きりで夜を過ごすことになった。

 叔母はすぐに二つの部屋を手配して、俺たちを分けた。

 天使のような容姿の娘を持つ母親としては当然の配慮だったのかもしれない。海外在住の人間としての常識的な感覚だったのかもしれない。

 それでも、十二歳の女の子、それも血の繋がった従妹との間を『男と女』として見られたことに俺はショックを受けた。『兄』としての純粋な気持ちを、男としての尊厳を傷つけられた気がした。

 けれどその夜。

 従妹は部屋を抜け出して、俺の部屋のドアをそっと叩いた。

「……怖くて眠れないの」

 俺たちは、貴族の屋敷のようなホテルの広いベッドに並んで、手を繋ぎあった。

 従妹が眠くなるまでだ。

 自分にそう言い聞かせた。

 でも従妹は、突然俺の腕に自分の顔を埋めると、くぐもった声で言った。

「……タキくんはわたしとこうしていて……ドキドキする?」

「しねーよ」と俺は金銀に装飾された天井を見ながら、ことさら陽気な声で嘘をついた。「だって従妹だぜ。それに妹みたいな子相手にドキドキなんてするかよ」

「わたしはするよ」従妹はじっと俺のあごのあたりを下から見ながら言った。いつのまにか、ふたりの身体は密着していた。「それに、従妹だけど妹じゃないもん」

 焦点の定まらない妖しい瞳、半開きの美しい唇。とても、いつもふざけ合っていた子と同一人物とは思えなかった。

 それから、従妹は唐突に打ち明け話をした。

 イタリア人の父親と日本人の母親との目に見えない溝。

 アイデンティティが不安定なハーフであることの悩み。

 叔母が日本人寄りに育てようとしているせいで、周囲のイタリア人から疎外感を感じてしまう苦しさ。

 俺は、自分が子供だコドモだと決めつけていた少女の、内面に広がっていた複雑な世界に驚き、戸惑った。

 能天気に生きている自分よりよっぽど大人だと思った。

 やがて、従妹は潤んだ瞳で、俺の目をじっと見つめながら、

「わたし……日本人でいたい……」と吐息だけで言った。

 小さな歯がのぞく美しい唇が、あえぐようにゆっくり動いた。

 ハーフだからなのか、高い知性のゆえか、とても十二歳だなんて思えない表情だった。

 しっとりとした色気が、薄い膜のように従妹の細い肢体から揺らぎ立っていた。

 おそらく、これから先の従妹の人生で、本人の意志とは無関係に、関わる男を惑わせることになるだろう危険な色気だった。

 俺の思考はあっさり停められ、頭は痺れ、気づけばきゃしゃな身体を抱きしめていた。

 俺とそうすることで、どうして従妹が自分を日本人だと思えるのかは理解できなかった。でもそれで従妹の気が済むなら、と自分を甘やかした。

 きっと、自分よりもずっと精神的に大人だった従妹とのギャップを、少しでも埋めたいという、年上の男の安っぽいプライドだったのだろう。


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