不器用な誓約

 次の日、いつものモールで一日中待っていても、リンは姿を現さなかった。

 日が暮れるころ、俺はため息をつきながらモールを出て、シノから渡された電話番号に電話をかけた。そして、夜の駅前で待ち合わせ、シノが行きたがっていた夏の映画をレイトショーで見に行った。

 二日目もリンは現れず、俺はまたシノを誘ってレンタカーを借り、ドライブに行った。

 木漏れ日の光る渓谷、明るく開放的なダム湖、稲穂が風に揺れる棚田の道を、シノの運転するオレンジ色のコンパクトカーで走った。そして、郊外にあるいい感じの雑貨屋やオシャレな隠れ家カフェを見つけては、飛び込みで入った。

 シノがずっと喋り、俺は相槌を打ってばかりだった。

 俺たちは距離を縮め、どんどん打ち解けていた。まともに話もできなかった中学生のころとは全然違う。

 けれど、かつて子供の感覚でしか接しなかった相手と、大人になった今、どんな距離感で接すればいいのかがわからず、俺は妙な居心地の悪さを感じた。シノとふたりきりということを過剰に意識してしまう。

 なのにシノのほうは、男慣れしているというか、俺と一緒に居ることに特別緊張しているような様子もなかった。その余裕になんとも言えない不釣り合いを感じた。

 レンタカーのハンドルを握るシノの隣で、俺はわざとらしくはしゃぎながら、ふと気づけばリンのことを考えていた。

 シノもまた、楽しそうに笑いながらも、時折、物思いに沈むような顔を見せた。

 そして三日目。

 ようやくフードコートで発見したリンは、男と一緒だった。

 ひょろりと痩せて背が高く、甘い顔をしたそいつを見て、夏祭りの男だと本能的に察した。モテそうな男だ。中学生のときの自分よりも数倍カッコいい。

 ボックス席で、男はやたらと嬉しそうな顔で話しかけ、リンはつまらなそうな顔で頬杖をついていた。

 俺が近づくと、男は怪訝そうにこっちを見上げたが、リンは明らかにわざと無視していた。

「リン」

「………………」

「なんすか」と男が警戒するような顔。

「リンもらってくぞ」と俺は言って、「ちょっと話があるから来い」リンを立たせた。

 リンは俺の顔を見もしなかったが、面倒くさそうに立ちあがった。

「お、おいっ」

「悪い」と俺は色めき立つその男を見た。どうしても目つきが悪くなってしまう。「ちょっと、いま精神的に余裕ねーんだ。逆らわないでくれ」

 男は言葉を飲み込んだ。

 子供相手に無茶苦茶なこと言ってるな、と軽く自己嫌悪しながら、リンを引きずるように、モールの隣の大池公園へ向かった。

 むっつり黙るリンを連れて展望スペースに出る。

 蝉の声。夏の雲。相変わらず今日も暑い。

 自販でアイスコーヒーとコーラの缶を買って、アシが揺れる青い池を黙って見つめるリンの隣に並ぶ。

「なんのご用件でしょうか」

 タブを起こしたコーラをリンに渡した。

「どうもぉ、ありがとうございますぅ」嫌味っぽい早口。

「あのな。この前のことだけど」

「このまえってどのまえ?」

「ほら。おまえが車で通りかかったろ」

「覚えてない」とリン。んなわけあるかい。「どこかでお会いしましたっけ?」

「あれ、お母さんの車か?」

「そうだけど」とリンは素直に答えて、あ、と口を押さえた。

 俺はアイスコーヒーをごくっと飲む。

「……自分は吉野先生と遊ぶくせに、わたしのは邪魔するの? わたしはわたしで勝手にやるから、放っておいてくんない?」

「べつにおまえの邪魔なんてしねーよ。おまえが本当にそうしたいならな」

「……わ、わたしだってべつにタキくんが誰とイチャつこうがべつにどうでもいいけどべつに邪魔する気ないしっ」まくしたてるようにリンは言った。「……でも、かりにも教師になろうって女が、あんなとこでやるかなふつう」

「あれちがう」俺のほうはあえて淡々と。「バイクが倒れそうになって、シノに支えてもらっただけだ。タイミングと角度で、そんな風に見えたかもしれないけど」

「え。そうなの?」

 リンの顔が緩んだ。が、すぐに無理やり引き締める。

「抱き合ってなかった? べったり」

「そんな。まさか」

「そんなふうに見えたような」

「そう見えただけだ。タイミングと角度で」

 タイミングと角度で押しきるしかない。

「でも、仲良くふたりで歩いてはいたんだよね。暗い夜道を」

「なにげなく中学校行ったら、たまたまシノと出会ってな。同級生だし、ちょっと近くで飲もうかって話になって……」

 俺が言葉を足せば足すほど、リンの顔はどんどん険しくなる。

「好きでもない子とふたりきりでお酒飲んだの? おかしくない? それ」

「いや。そんな。大げさなもんでもねえって。流れというか……」

「タキくんって、吉野先生のこと好きなの?」ズバッとリンが言った。

「………………それは……」

「……自分で言ってたよね。好きでもない相手とふたりきりで遊ぶなって。それは相手にも悪いって。好きなの……?」

 リンの視線はまっすぐだった。何も言い返せない。

「………吉野先生には……」

 責めるように話し続けていたリンの勢いが止まった。

 それを口に出していいか、ためらっている顔。

 そのまま展望台の端まで行き、鉄の手すりにコーラの缶と両肘を置く。

 腕に顔を埋め、くぐもった声で、「……恋人居るんだよ」

 ドグッと心臓が跳ねた。

「誰かが、『先生カレシとか居るんですか』って聞いてて、同じ大学で三年くらい付き合ってる恋人が居るって話すの聞こえた」

 俺は何も言わなかった。というか言えなかった。でもリンが俺の顔色を盗み見ているのがわかったから、なんとか無理して唇の端を少し上げた。

「そっか」

「おかしいよ、そんなの」とリン。「あのひと、タキくんのこと好きだったんでしょ? なのになんであっさり他の人と付き合ってんの?」

「仕方ねえさ。そんなものだろ」

「シノさんは……」リンは吉野先生じゃなくシノという呼び名で言った。「……タキくんのこと、本当には好きじゃないんだよ。きっと」

 それは、ずっと俺自身も考えていたことだ。

 再会して酒を飲んだ日も、ふたりで映画に行ったときも、ドライブしたときも、シノは時折黙り込み、誰かのことを考えているような素振りを見せた。そして、俺に「恋人は居るのか」という話題も出さなかった。たぶん、自分が聞かれたくなかったからだ。

 シノは俺を誰かと比べ、過剰に美化しようとしていた。いくら俺がアホでもそれくらいはわかる。

「誰かひとりを好きで居続けるってのは、けっこう大変なんだ」

 諭すような口調で俺は言った。リンにというより、自分に言い聞かせるように。

「その相手がそばに居ないならなおさらさ。気持ちをずっと保ち続けるのなんて、不可能だよ」

 中学生相手にマジメな恋愛論。何やってんだおれ、という気にもなるが、相手が並外れた美少女だと、そうおかしくもないから不思議だ。

「好きってそんなに軽いもの?」

「そうは言わねえよ。けど、いくら好きな相手でも、離れていたら、段々気持ちも冷めてくるもんじゃないかね。その逆に、いつもそばに居て顔を合わせている相手のことは、いつのまにか好きになるもんさ」

「だったらわたしも、そんなに好きじゃない男とでも、いつも顔合わせてたら、その相手のこと好きになっちゃって、付き合ったりするってわけ?」

「知らねーよ。けど、そうじゃないのか」

 リンは恐ろしく真剣な顔をした。そしてしばらく黙った。

「わたしはそうは思わないよ」

「……………………」

「思わないけど」やがてリンはそう言って、立ち去ろうとする気配を見せた。「おにーさんが言うのならそうなのかもね」

 会ったばかりのころに戻ってしまったような、どこか捨て鉢な表情。

「そろそろ戻るね。……ひと待たせてるし」

 言いながらリンがくるっと背を向ける。

 離れていこうとするその背中に、俺は、奇妙な喪失感と理不尽な苛立ちを覚えた。

 なに納得してんだよおまえ、と。

「待てっ、リン」ほとんど無意識に呼び止めていた。

 背を向けたまま。リンは立ち止まる。

「シノのこと好きかって聞いたろ。さっき」

「……………………」

「……俺がもし、本気でシノのこと好きなら、カレシなんて居ても関係ねえ。俺が奪ってやる! って気持ちになったと思うんだ」

「ならなかったの?」リンがゆっくり振り返る。

「真っ先に浮かんだのは、そのカレシに申しわけないって気持ちだった」

 リンは口をへの字にして、その意味を考えている。

「つまり俺は、べつにシノのこと好きじゃないんだよ」

 口に出してみたら、急に気持ちがスッキリした。

「そして、シノも、俺のこと、本当には好きじゃない」

 何年も俺だけを一途に想い続けてくれる。そんな話があるわけがない。そんな女が居るはずもない。そんな魅力、俺にはない。心の中で苦笑した。

 リンは黙り込んだ俺を心配そうに見つめている。

 俺は安心させるように笑いかけた。

「……もし。自分の恋人に昔好きな相手が居たとして」

「……うん」

「自分が知らない間にソイツと会ったり仲良くしてたら……やっぱ嫌だよな」

「すごく嫌」

「そういうの、よくないよな」

「ぜったいしてほしくない」

「シノとはもう会わない」俺はきっぱり言った。

 シノが俺とどうしたいのかはわからない。でも、あやふやな関係を続けて、もし流されてしまうようなことがあれば、二度と手に入らない大切なものが損なわれる。そんな気がした。

「それがいいよ」

 リンもまた、晴れ晴れした顔で言った。

「わたしも、好きでもない相手とふたりきりで会うの、やめよっと。そういうの、よくないと思うし」

 くくくーとコーラの残りを一気に飲み干し、「さっそく言ってくるね」

 踊るような足取りでモールのほうへ駆けていく。

 桜並木の木漏れ日とセミしぐれの中を小さなシルエットが遠ざかる。

 ふと立ち止まり、振り返り、遠くから叫んだ。

「……あなたとは今後いっさい、ふたりで会う気はないって!」

 軽快に身をひるがえし、リンは店内入口に消えた。

 少しだけ、さっきの男に同情した。

 アイツも、いきなりいろいろと、可哀そうに……。

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