放課後の魔法

 懐かしい中学校の音楽室。

 俺にとっては過去。

 リンにとっては現在。

 そしてシノにとっては、過去と現在、そして未来が繋がる場所だ。

 ここで俺は今日、シノにピアノを聴かせてもらうことになっていた。

「最後にもう一度だけ、シノのピアノを聴かせてくれないか?」

 その言葉だけで、シノは俺の真意を理解したようだった。


 卒業生で、夏休み期間とはいえ、部外者の俺だ。音楽のタカノ先生の協力がなかったら実現しなかっただろう。

「べついいけど、あまり長引かせないでよ」

 タカノ先生は、美人が台無しのかったるそうな口調で言った。相変わらずだ。

「それから、ピアノ弾くだけ。それ以上のことはダメだぞ?」

 やっぱり中学生のあのとき邪魔したのはわざとらしい。

 首と腕が露わになった大人びたサマーニットに薄いグレーのチュールスカートというシノが、グランドピアノの屋根を開く。

 ピアノは同じもの。でも、シノはもう、あのころの小さくはかない女の子じゃない。

 俺は、低くて小さい窮屈な椅子を持ち上げて、そんなシノの正面に座った。

 制服姿のリンも隣に座る。さすが自分の通う学校のいつもの教室だけに、俺ほど居心地悪そうじゃなかった。学校の中で見るリンの制服姿は、くらくらするほど眩しくて、俺やシノの中学生時代とは、放っている輝きがまるで違う。

「それで、あなたは?」とシノは微笑みながらリンを見た。「なにかしら?」

「通りすがりの在校生です」とリンもまた微笑みを返しながら言った。「なにやらピアノを演奏するとのことで、ご相伴にあずかろうかと。わたしのことは気にしないでください」

「通りすがりねえ。まあいいけど……」じろっと俺を見る。

 俺は、苦笑しながら頭をかいた。

 シノは、鍵盤の蓋を開けると、優雅に腰を曲げて一礼した。美しい髪が、細い首のまわりで水のようにさらりと流れた。

「それでは聞いてください」

 俺とリンは、わああと手をパチパチ。

「この曲を、昔好きだった男の子に捧げます」

 ぴたっ、と俺とリンの拍手が同時に途中停止した。

 端っこで腕を組んだタカノ先生が、くくくと忍び笑い。

 シノはそんな俺たちをイタズラっぽく上目遣いに見遣る。

「曲目は、ドビュッシー……」

 目の前で艶然と微笑むシノの姿に、長い前髪で目元を隠した、地味で大人しい女の子のシルエットが重なる。俺は、その前髪の向こうの素顔がどれだけ魅力的だったかを知っている。あのとき、その子がどれだけ勇気を振り絞って、俺に『亜麻色の髪の乙女』を聴かせてくれたかを知っている。

 成長した今の俺をじゃない。弱くて、何も自信を持てなかった、あのころの俺を好きになってくれた、たったひとりの女の子。俺はそれが本当に、本当に嬉しかったのだ。

「……アラベスク」シノがささやく。

 そして、放課後の最後の魔法が、俺をもう一度、あの夕暮れの音楽室に連れていく。


 ◆


 日暮れだ。

 シノと会うのは今日が最後だ、と決めた日が終わる。

 俺たちは金色の光の満ちた音楽室から、遠くの山脈や、ビルの群れを眺めた。懐かしい眺め。ここからの風景は、俺たち自身ほど変わってはいない。

 リンは最後まで、俺たちふたりを残して教室を出ることに抵抗したが、タカノ先生に連行されるようにして、教室から連れ出された。

「不純異性交遊は禁止だかんねー」

 タカノ先生は、くくくと含み笑いしながら音楽室を出ていった。こんなにおもしろい先生だったとは。中学時代に戻れるなら、もっと懐いて仲良くしたかった。

「シノ。今日はありがとな。無理言って悪った」

「ううん。久しぶりにピアノひとに聴かせて私も楽しかった」

「やめてなかったんだな。ピアノ」

「何度もやめようと思ったんだけどね」

「すごくよかったよ。まるで……」その先の言葉は飲み込んだ。

「ねえタキくん」

「ん?」

「あのとき、私に言ってくれたでしょ。シノは魔法使いみたいだって」

「……言ったっけな。そんな恥ずかしいこと」

「私、思うのよ。本当に魔法が使えるのは、じつはタキくんのほうなんじゃないかって」

「そんな上等なモン俺にはないよ」

「………………」

「………………」

「でも、その魔法は、ちょっとツラいかもね」シノは微かに笑って。

「………………」

「……私ね。やっぱり好きだな」

「え?」ドキッとした。

 シノは少し照れくさそうに「……学校。いいことも、悪いことも、いろいろあった場所なんだけどね」

「そんなシノなら、きっといい先生になれるよ」

「……うん。さよなら」

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