風の道

 港は、船が着いたとき特有の賑わいだった。降りる人間と、これから乗る人間、見送る人間、迎えに来た人間でざわついている。

 名前の書かれたプラカードを持ったオッサンが愛想よく立っていた。迎えに来た宿の人だろう。日焼けして真っ黒だ。

 俺は軽くスロットルをひねってバイクを前進させ、ゆっくりと船から降りた。乗船するときはふたり乗りはダメだったのに、下船のときはいいらしい。変なシステムだ。

 島の主要施設は、フェリー乗り場の周辺に集中している。

 開放的なオープンカフェ。シンプルな名前の旅館。スイカや島野菜が並べられた土産物屋。サザエが名物だという食堂。リンは物珍しそうにあちこち見ていた。

 土産物屋の軒先には、青や赤や黄色のTシャツがぶら下がり、潮風に揺れていた。島の名前が白字でぶっとく書かれていて、実にアホっぽい。イタリアの従妹とアマルフィでしたペアルックを思い出す。

 船内に居た女子大生風の三人組もまた見かけた。

 よくそんな声が出るなという声で騒ぎながら下船すると、バスに乗り込んだ。観光客のほとんどはバスを使う。バスの目的地は、島の中央にある広大な有料公園だ。春は桜、夏はヒマワリ、秋にはコスモス、冬には水仙が咲き誇る花の名所で、この島に来るほとんどの客はそこへ向かう。

 リンを連れていってやりたくはあったが、入場料がけっこうお高めなので、今回はパス。

 観光案内所でもらった地図をふたりで眺めた。

「どうだ? 行きたいとこあるか?」

「うーん。いろいろありすぎて選べないー」

 地図を見たまま、ウキウキした口調。この子は本当に、色々なところへ連れていってやり甲斐あるなーとこっちも嬉しくなる。

「どこでもいいぞ。好きなとこ連れてってやる」

「でも、タキくんこの島初めてじゃないんでしょ?」

「まあな」

「同じところまわっても、つまんないんじゃないの?」

「そんなことはないぞ。行ったことない場所だってあるし」

「え。まだそんなとこあるの?」リンが目を丸くした。こういう表情はすごく可愛い。「とっくに全部の場所、コンプしてるかと思ってた」

「来る時はたいていひとりだし、なんか、いつも同じような場所ばっか行っちまうんだ」

「じゃあかたっぱしから行こっ。ぜんぶまわろっ」

 見ていて思わず口元が緩んでしまうほど期待に満ちた顔だった。

 俺はエンジンをかけ、異常に静かな島の道路を、ゆっくり走り始めた。


 穏やかな湾に浮かぶ、人口二百人ほどの小さな島。

 外周をぐるりと一周する道路は、古い漁船が何隻も停泊する港を通り、小さな日本家屋が固まった集落を抜け、海水浴場とキャンプ場へ続く下り坂を横目に、ゆるやかなアップダウンを繰り返しながら続いていく。

 夏のしゃっきりした海と空を背負った丘の斜面に、見渡す限りのオレンジ畑が広がっていて、その間の高台を細い道が突っ切っている。

 一面の濃緑の海。風が吹くたびに波のようにざわめく。

 触れそうなほど近くに、まだ未成熟なオレンジの実がたくさんぶら下がっていた。

 リンの瞳には、この美しい景色がどういう風に映っているんだろう。

 そんなことを考えながら、心を透明にしてバイクを走らせた。

 道はところどころ樹々のトンネルになっている。

 日光が遮られ涼しい。ひんやりした土の匂いがする。

 木漏れ日は、くっきりと、白い結晶のように立体的だ。

 そんな光と影の中を、濃密な緑の匂いに包まれながらバイクで駆け抜けるのは、ただひたすら爽快だった。何より、後ろで俺の肩をつかむ女の子に、この気持ち良さを味わわせてる喜びが胸を満たしていた。

 島の北側にさしかかると、『自然探勝路』と称するワイルドな道になる。

 入口には、『ここから自然探勝路』と陰気な文字で書かれた看板と、二メートルほどの背丈の奇妙な石像が立っている。目も鼻も口もないのっぺりした顔だ。リンは興味深そうにぺたぺたと石像の表面を叩いた。どういったいわれがある石像なんだろう。案内看板もないのが、かえって謎めいている。

「へんな石像」

「でもなかなか味があるよな」

「『この先危険、注意!』って書いてあるよ」

「うむ。俺のように甘く危険な男にはふさわしいな」

「うわー。このひとバカだー」とリンは嬉しそうに言った。「でも、気をつけようね」

「ハイ」と俺は素直に頷いた。

 ここからは悪路になる。舗装はされているものの、ほとんど車の通らない狭い道のせいか、道路の整備作業もろくに行われず荒れ放題。あちこちに落石が転がり、折れた太い枝が散乱していてけっこう危ない。

 それでも、強い日差しが遮られ、天然のクーラーのように涼しく、バイクで走ると本当に気持ちいい道なのだ。夏の猛暑の中、リンをバイクに乗せてやるのに、真っ先に思いついたのがこの島のこの道だった。

 自転車よりちょっと早い程度の速度でのんびりバイクを走らせる。

 俺たち以外に人影はない。

 たまに緑のドームがわずかに途切れた箇所があり、小さな海が、額縁の中の絵のように見えた。

『ここから下り続く。注意』という看板が現れた。目印だ。

 俺は両足を地面に降ろし、エンジンを切った。

「?」リンがどうしたの、という感じで首を伸ばして俺を見た。「ここで降りるの?」

「いや」と俺は言った。「捕まってろ。動くぞ」

 リンが俺の背中にぴったりくっ付いた。

 両足で地面を蹴り、エンジンを切ったバイクをゆっくり前進させる。

 やがてバイクは自重で坂道を勢いよく下り始めた。

「おおおお」とすぐ耳元でリンが歓声を上げた。「エンジン切っても走るんだっ」

 世界が変わった。

 静寂の中、鳥の唄や、樹々の葉のこすり合う音や、遠い海鳴りや、風の声や、様々な生き物の息遣いが一体となって生み出される森の音色が、しっかり聞き取れるようになった。

 空気の甘みを、風の柔らかさを、はっきりと感じた。

 青いバイクが夏色の風に乗る。

 まるで翼を広げて低い空を滑空しているような気分。

 ここから集落までの長い下り坂を、エンジンを切ったバイクで一気に下っていくのが、この島での俺の楽しみ方のひとつ。ちょっとした持ちネタだ。

 自転車で長い坂を一気に駆け下りるような爽快感。でも、タイヤが太く車体がどっしりしたバイクは自転車よりもずっと安定感がある。

 それに、自転車と違い、二人乗りができる。

 自転車でもバイクでもない、別の乗り物に生まれ変わったかのようだった。

 後ろのリンとひとつになったような一体感に、自分でもわけがわからないくらい胸がどきどきした。

「うっわーーーー。すごいすごいすごい! きっもちいーーーー」

 リンの澄んだ声がはっきり聞こえる。

 背中に密着するリンの、熱や、鼓動、命の存在を強く感じる。

 そうか。いつもやってることでも、誰かと一緒なら。

 リンとふたりなら。

 こんな風に感じるんだな、と俺は不思議な感慨にふけった。

 リンに対する優しい気持ちが胸の中でどんどん大きくなる。

 誰かにこんな気持ちを持つのは、たぶん、生まれて初めてだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る