夏の朝

 ぴぴぴぴぴぴぴ。

 耳障りな電子音で目を覚ました。全然眠った気がしない。しまった、時間のセット間違えたか、と思いながら半目で時計を見るが、間違いなく七時四十五分。

 大切な誰かと無理矢理引き離される辛い夢を見たような気がしたけど、目が覚めたら綺麗さっぱり忘れていた。

 安物のカーテンの向こうは真っ白だ。かすかな蝉の声も聞こえる。

 のろのろ起き上がって窓に向かい、勢いよくカーテンを開いた。

 眩しい光がぶつかってくるように部屋中に広がった。

 外は爽やかに晴れている。

 高台に建つ俺のアパートは、眺めがとてもよく、朝日に照らされた緑豊かな街並みが見渡せた。

 七月の半ば。暦の上ではまだ梅雨なんだけど、今日は晴れたみたいでホッとした。朝からカッパ着てバイクに乗るのは、かなり気が滅入る。

 もうすぐ大学の『前期授業』が終わり、お待ちかねの夏休み。

 でもその前に立ちはだかる関門が前期試験だ。いまサボるわけにもいかない。

 特に、月曜一限目は、『六法魔王』とあだ名される中山教授の『民事訴訟法』だ。見た目も口調もまんまヤクザの親分で、授業中に私語をしていた学生を、

「おう、そこのおまえら……消えろや」

 と追い出したこともある。それ以来、中山の講義で私語をする学生は居なくなった。遅刻なんてもってのほかだ。

 家から大学まで、バイクで二十分。

 一限目は九時開始だから、もう少し遅くてもいいんだけど、いつも八時過ぎには家を出るようにしていた。

 昨夜のうちに粉と水をセットしておいたコーヒーメーカーのスイッチを入れ、ばしゃばしゃ顔を洗う。「こぽこぽ」と音が聞こえ、コーヒーの匂いが漂ってくるころには、身支度は終わっている。

 普段はハンドドリップ派の俺だけど、さすがに月曜の朝、ゆっくりコーヒーを淹れる余裕はない。

 派手な寝ぐせができてたが、どうせヘルメットをかぶるし、そのままだ。


 コーヒーを飲んでしゃっきりしたあと、外に出た。

 ドアを開けた途端、蝉の声のボリュームがひときわ大きくなった。

 夜の間は雨が降っていたらしく、俺の青いバイクの車体は濡れていて、丸い水の珠が、朝日に輝いていた。

 夏ならではの光景。すぐ裏の雑木林からは、雨上がりの山の、濃密な匂いが染み出してくる。

 目を閉じて、すーっと胸いっぱいに吸いこんだ。

 じーじー。しゃわしゃわ。

 蝉の声を聞くと「夏だねえ」と実感する。朝だというのに日差しはもう強い。

 とはいえ、本格的な夏気分は、前期試験という苦行を乗り越えてからだ。

 バッグをからって愛車にまたがり、エンジン始動。

 アパートをドルンと出る。


 俺が早めに家を出るのは、近所の焼き立てパンの店に寄ってから登校するためだ。

 このくらいの楽しみを作らないと、かったるい月曜の朝は乗りきれない。

 丘を巻く、緩やかな坂道の途中に『はっぱねこ』はある。

 マジ顔をしたネコの頭に、葉っぱがポチョンと一枚乗った、味のある絵がトレードマークの、可愛らしいパン屋だ。

 コンビニよりちょっとゼイタクだけど、モーニングサービスとしてコーヒーが無料なのを考えれば、充分お値打ちだ。

 バターじゅくじゅくの塩パンにも後ろ髪を引かれたが、今朝は、ちょうど焼き上がってきたクロックムッシュにした。

 ときどき、無性にチーズが食いたくなる朝がある。

『はっぱねこ』の駐車場は、崖の上にせり出した展望台みたいな作りになっていて、くねくねと長い坂道を、自転車の学生や、バス停まで歩くサラリーマンなんかが、月曜の朝らしい顔で下っていく姿が、小さく見下ろせた。

 遠くには、ゆっくりと横に走る電車。

 朝日を受け、銀色に輝いている。

 バイクにまたがり、コーヒーと焼き立てパンを手に、動き始めた町や、遠くに広がるサワヤカな青い海を眺める。

 この時間が俺は好きだ。二十分早く起きるだけの価値はある。

 しんどい月曜の朝だけど、なんとか今日も頑張るか。 

「うしっ」

 気合を入れながらゴミを丸め、バイクにまたがったまま、四メートルくらい先のゴミ箱にスローイン。

 見事な軌跡を描き、ゴミは箱の中にスパンと納まった。

「ナイス」

 見ると、シルバーの原チャにまたがり、俺と同じように海を見ながらパンを食べていたOL風のお姉さんが、こっちを見ていた。

 軽く会釈して、ぶるんとバイクを出す。

 今日はいいことありそうだ。

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