冬の花火

 冬のイルミネーションに飾られた巨大な街路樹が立つ駅前広場。

 その真下のベンチに、リンはぽつんと座っていた。

 右に左に。前に後ろに。黒いシルエットの人々が行きかう。

 あらゆるものの中で、リンだけが輪郭を誇張されて俺の瞳に飛び込んできた。透明な光が、スポットライトのように姿を浮かび上がらせているようにも思えた。

 車の音も、雑踏の喧騒も、都市のうなりも、夜のざわめきも。

 何もかもが遠ざかり、世界中で、俺たちだけになってしまったような感覚。 

 十メートル。

 歩く。

 五メートル。

 近づく。

 ばくばくばく。何かうるさい。あ、俺の心臓か。

 三メートル。

 リンはぼんやりと宙に視線をさまよわせている。

 目を開けたまま夢でも見ているように。

 一メートル。

 リンは目の前だ。こっちを見ない。気づいていないはずもない。無表情。何を考えているかわからない。

 座ったリンの、肩から背中、腰にかけての柔らかな曲線を見た。

 上品に揃えた長い両足には、高価そうな革のブーツ。

 俺の知らないリンがそこに座っている。

 リンは誰かを待っているように見えた。急に不安になった。都合のいい考えが頭をよぎる。でも一番自然なのは、別の誰かと待ち合わせしていることだろう。

 でも、そんなの関係ない……そう決めたんだ。

「こんばんは」

 なるべく快活で無害そうな声を出す。

 リンは聞こえていないようにそれを無視した。

 それでも俺はリンの反応を待った。

 ひゅるるる。ドン。

 冬空に、花火が上がる音が聞こえた気がした。

 頑張れ、俺。

 ゆっくりと、リンの視線がこっちに移動する。

 さざ波のように。

「………なに?」

 何年かぶりに聞くリンの声。

 ほんの少しだけ変化して大人になった声。

「いや」と俺は言った。「さっき、いきなりバイクが動かなくなっちまってさ」

 リンは透明な表情のまま、「は?」という顔。

「バスに乗ったらリンが居た」

「そうなの?」

 俺はうなずいた。

「なんでこんなところに座ってるんだ? ひとり?」

 ありったけの勇気を出して、軽い口調で聞いてみた。

 審判のときだ。

 カレ待ってるの、なんて言われたらどうしよう。

「ひと待ってる」

 素っ気なくリンは言った。

 全身の血が逆流した。ビルの高層階でエレベータのワイヤが突然切られ落下したみたいに。世界が上下さかさまになった。

「そっか」

 これだけで、もう泣きそうだった。それでも、平静を装い、無理して陽気な声を絞り出した。「じゃあその相手が来るまででいいから、ちょっと話してもいいか? 久しぶりに会ったんだし」


 リンは何も言わず少し身体をずらして、ベンチのスペースを開けた。 

 隣にそっと腰掛ける。

 こんなふうに並んで座ると、あの夜の、俺の部屋のソファでの出来事を思い出して胸が苦しくなる。触り心地のよさそうな生地のコートに包まれた、しなやかな身体を嫌でも意識してしまう。

 一度は抱きしめたこの身体。

 今は、触れてはいけない神聖なもののように思える。

「変わらないね。バス乗ってきてすぐわかったよ」

 リンは淡々と言った。

「なんだよ。全然気づいてないかと思ったぞ。こっちに背中向けてたし」

「自分だって、他人みたいな顔してた」

「最初、リンだってわからなかったんだよ」と俺は言い訳するように。「……おまえ変わりすぎだ」

「おとなになった?」リンはくすっと少し微笑む。

「そうだな」まさかここまで美しく成長するなんて。

「どうするつもりなんだろって思ったけど、まったく何も言ってこないから、『オイオイわたし降りちゃうぞ』って思ったよ」

「……んで、どうでもよさそうにあっさり降りたわけか。ひでー」

「恥ずかしかったのっ」リンは少し怒ったように小さく叫んだ。「緊張して、わたしから声なんて、かけられるわけないじゃない」

「恥ずかしいって、おまえ、あんなポーズしたのに?」

 親指くいっと。

 リンの顔がぽっと赤らんだ。

「だって……とっさだったし……タキくん、降りるかと思ったのに……降りないし!」

「ごめんな」

「うん。あやまれ」

「ごめんなさい」

 俺がしょんぼり謝ると、リンは満足そうに微笑んだ。

 ああ、これだ。と俺は思った。こんな会話がずっとしたかった。そしてそれができるのは、世界中で、リンだけだった。

「……まったく」

 ブーツの両足を前に投げ出し、ベンチの背もたれに深く体を預けて、あごをマフラーにうずめたリンが、引き出しの奥から何かを引っ張り出すように切り出した。「……タキくんくらいだよ。わたしをそんなふうに扱う男のひと」

「……どういう意味?」

「ほかの男の人は、もっと紳士的だし、色々してくれるし、丁寧に扱ってくれるってこと」

「うぐ」

 鋭い嫉妬の痛みに、思わず胸を押さえて呻いてしまう。

「あれあれ」そんな俺を、リンは興味深げにじろじろ見て言った。「……まさか、ヤキモチですか?」

「まあな」と俺は素直に認めた。

「あらあ。タキくんともあろうひとが」

 笑いをこらえるような顔。嬉しそうだ。

 これはアレか、仕返しかなんかか?

 だとしたらリン。効果はてきめんだぞ……。

「そっちは? 恋人居るの?」笑いの余韻をかすかに残して、リンはぽつりと言った。「……もう結婚しちゃった?」

「いいや。ひとりぼっちだ」

 俺は力強く堂々と告げた。

 そうだ。誰と居たって、どこに居たって、俺はずっとひとりぼっちだった。

「あ、やっぱり?」

「なんだよ、やっぱりって」

「だと思った」

「なんか、引っかかる言い方だな……」

「タキくんが誰かとうまくいってるとこなんて、まるで想像つかないもん」

「いやいや。それはちょっと失礼だろう」

「タキくん、ぶっきらぼうだけど本当は優しいし、見た目とかはまあアレなんだけど、ちょっと普通の女には手に負えないと思う。エラそうだし。意固地だし。自意識強すぎだし。いろいろズレてるし。思い込み強いし。けっこうイタいとこあるし」

「……その通りなんだけど。否定はしないんだけど」

 でもそこまで言うか……。

「まあわたしも似たようなもんだけどねー」

 リンは小さく歌うようにつぶやいた。

 俺をしっかり正面から見据えて。

「タキくんみたいな面倒くさーい男には、わたしくらいじゃないとだめだよ」

「え?」

「タキくんに勝つのは、これで二度目だね」

「俺に勝つ?」

「ボウリングと、今回と」

 リンがはにかむ。

 大人びた美しい顔が、無邪気な子供みたいになる。

 最初の、近寄り難い雰囲気はもうなかった。

 防護障壁のように身にまとっていた、他人を近寄らせない張り詰めた空気が、いつのまにか消えていた。

 リンをずっとずっと守っていたものが、その役目を終えたように。

 今のリンは、心配になるほど無防備で、安心しきった表情だった。

 あの、最後の夜のように。

「……なんかね。ずっとタキくんと一緒に居るみたいだった」

 暖炉の前で古いアルバムを開くような顔で、リンは微笑んだ。

 胸元からネックレスを引っ張り出す。

 心臓がドゴンと膨らんで、そのまま破裂するかと思った。

 深く神秘的な青。

 あの日、俺があげた。

 ラブラドライト。

 切れたミサンガを輪にして、ネックレスにあつらえて。

「……それで、いちいちわたしに言うんだよ。『リン、負けるなよ』とか『お前はそれでいいんだ』とか『やめとけ。そういうの、俺は感心しないぜ』とか」

 石を優しく撫でながら、今朝見た夢を話すように、リンは言った。

「…………そうか。なんか、ずいぶん、エラそうだな」

 イカン。もう泣く。泣いてしまう。必死でこらえながら、俺は答えた。

「うん。エラそうだよね」リンは嬉しそうに目を細めた。「でもタキくんはやっぱりエラそうじゃなきゃ。だから、わたし、ずっとひとりで、頑張ったんだよ……!」

 溌溂とした顔で、両拳をぐっと握る。

「スジの通った、マトモな、それでいて面白い女でいようって。タキくんが、リンはリンのままで居ろって言ってくれたわたしでいようって。たとえひとりぼっちになっても、絶対に自分を曲げるもんかって。こうなったら、無敵の女になってやるって」

 気づいたら、俺の手はごく自然にリンの手と重なっていた。

 真顔になったリンが、静かに俺を見た。

 俺たちの指がしっかりと絡み合った。

「ひと待ってるってのは?」

「うん。待ってるよ。ずっと。何年も。待ってた」

「……それって」

「自分が待てって言ったくせに」

「言ったよ。言ったけど……」

「言っておきますけど、わたしはシノさんみたいに器用じゃないからね」

「だってお前さっき、他の男がどうこうって」

「……他の男のひととも、ちょっとだけ仲良くしようともしてみた」とリンは言った。「また、タキくんに『おまえは他の男を全然知らないから、俺がよく見えるんだ!』とかなんとか、めちゃくちゃな難クセつけられるのも、イヤだったから」

 俺は言葉を飲み込む。リンは透き通った表情で続ける。

「でも、ぜんぜんダメだった。興味ももてなかった。誰もタキくんの代わりになんてならなかった」

 花が咲くように、ほのかな笑みが、じっくりと膨らんで。

 リンは笑った。

「この世に、タキくんはタキくんだけだから」

 胸から痛みがかき消えた。

 思わずつぶやいていた。

「……タキくんだからだから」

 リンの動きが一瞬止まり、大きな目がさらに見開かれた。

 真っ黒な宝石に、雫が溜まっていく。

「……バスでタキくん見たとき、あたま爆発しそうだった。うそみたい。何が起こったんだー。どうなってんだーって、パニくって、あたま真っ白になって、顔がにやけて、胸がどきどきして、止められなかった。でも、甘い顔してやるもんかとも思った。だって、何年待たされたと思う? わたしがどんな気持ちでずっとひとりで居続けたと思う? だから最初は……そんなにかんたんに許してやるもんかって……」声が次第に小さくなって。「……無視して……思いきり感じ悪くしてやろうって……タキくんがちゃんとわたしに謝るまで、かんたんには許さないでおこうって……うれしくて死にそうだったけど……きもちをおさえなきゃって……」

 言葉の最後で、リンはガタガタと震えだし、涙声になっていた。

「でも無理」

 美しい顔が、いきなりくしゃくしゃになった。

 飛び込むように俺に抱き着いてくる。

 大人になったリンの、丸みを帯びた柔らかな身体がぶつかってくる。

 俺は、二度と離す気がないくらい、しっかりと抱きしめる。

 リンの細くて柔らかい全身は、ひどく震えていた。

「……なにが……さんねん……よ……なんねん……たったと……おもってるの……」

 嗚咽混じりの不明瞭な言葉。

 まわりを歩く人々が何事かと俺たちを見る。

 そんな視線どうでもよかった。

「……やっと会えた……やっと会えた……やっと会えた……やっとあえた……!」

 リンは何度も繰り返した。そして、俺の腕の中でひんひん泣いた。あの夜のように。

 俺は、ふたりの間に数ミリの隙間すら作らないほどしっかりとリンを抱きしめた。

 こんなに大人びた美しい女が、幼い少女のように泣く姿が、信じられなかった。それも、他の誰でもなく俺のために。逆に怖くなる。俺、明日死ぬんじゃないだろうか。

「……リン。あのとき俺がおまえを突き放したのは」

「わかってる!」とリンが鋭くさえぎった。「……あとから……ぜんぶ……お母さんに聞いた……! めちゃくちゃな約束のことも! お母さん、殺してやろうかと思った!」

 それからは、ただ、リンは泣き続けた。

 ずっとうわ言のように「ばか。ばか。ばか」とつぶやき続けて。

 俺はアホみたいに「ごめん」と繰り返した。

 それは、長く凍りつき、止まっていた俺たちの時間が、融解し、再び動き出すための儀式にも思えた。

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