決意。

 目を開くと、バスの車窓に映った俺が、俺自身を、呆れ果てた顔で見ていた。

『なんでいつもそうやってカッコつける?

 なんでいつもそうやって女から逃げる?

 シノもそう。アリカもそう。

 ……そんなに女が怖いのか?』

 自嘲の笑い。

『あの時、言えなかったことばって、それじゃないだろ』

 真剣な声。

『思い出してみろ。

 思い出せ。

 あの夏を。

 あの夜を。

「半端な自己満足はもう嫌だ」なんて半端な自己満足で、最後の最後までリンを傷つけたっけなこのアホめ』

 真摯な瞳で俺は俺に説教する。

 リンと一緒に居た時の、ことさらエラそうだった俺。

 そうだった。俺はいつもこんな顔してた。俺はそんな自分が好きだったのだ。たぶん、リンも。

 だけど、今の俺はどうだ。どんな顔で生きている?

『お前の大好きな矜持。

 後生大事なそのキョウジ。

 バカのひとつ覚えのそのきょうじ。

 だいたい、矜持ってなんなんだ?』

 本当はもうわかっている。

 それは、弱い心を守ろうとする殻。

 他人から傷つけられるのを恐れる臆病者の鎧だ。

 あの最後の夜、俺はリンとひとつにならなかったことを激しく後悔した。

 もし俺がリンを抱いていたら。自分のものにしていたら。

 眠れない孤独な夜、何度狂おしく身もだえしたかわからない。

 カッコつけて、強がって、ビビッて、善良な人間ぶって。

 結局、ただ、傷つきたくなかっただけだった。

 空を知らない無垢な鳥が、自分の翼がいかに高く遠く飛べるかに気づき、手の中から飛び去ることを恐れたのだ。

 そんな自分を認めたくなかった。

 だからこそ、うわ言のように呟いた。

 矜持。きょうじ。キョウジ……。

 だいたい俺は本当に成長してるのか?

 少しは強くなれたのか?

 あの日の別れに意味はあったのか?

 リンと離れていた年月に価値はあったのか?

 そもそも、ひとはひとりで強くなれるのか。

 傷つくことなく。リアルな痛みも知らないまま。

 後生大事に左手に巻き付けたままの未練がましいミサンガ。

 千切れかけては女々しく直した、勇気と自信のヘマタイト。

 バスの車窓を、夜の街が、遠い光が流れていく。

 少しずつ、確実にリンから離れていく。

 また、あの時と同じように。

「すいません。止まってください」

 ミサンガを引きちぎりながらつぶやいた。

 人の壁を押しのけ、前へ出る。

「止まれません。次のバス停までお待ちください」

 運転手が告げる。

 何事かと大勢の乗客の視線が俺を向く。

「止まってくれ」

 俺は食い下がる。

 羞恥心とか、良識とか、マナーとか、ルールとか、そういうのはもうどうでもよかった。

 早く。少しでも早く。それだけが頭にあった。

「だから、止まれないんです」

 バスの運転手の苛立った声。

 周囲から嘲笑。

「止まれよっ!!」

 叫ぶ。

 目の前のテーブルを薙ぎ払うように。

 リモコンが飛ぼうが、グラスが割れようが、本が転がろうが、そんなことはどうでもいい。むき出しの心で。本気の気持ちで。ただ、俺が望むことを。衝動を。やっと俺は叫んだ。もっと早く叫ぶべきだったんだ。

「人生がかかってんだよッッ!!」

 バスを飛び降り、冷たい空気の満ちる夜の街を走る。

 駆ける。

 アスファルトを蹴る。

 雑踏の中を疾走する。

 リンの気持ちがあの時のままだなんて、楽観的だ。

 あれほど美しく成長したリンが、いまだに俺のことを想ってるだなんて都合がよすぎる。現実的じゃない。男の勝手な妄想だ。もう、誰かのものになっていても不思議じゃない。恋人くらい居るだろう。ひょっとしたら結婚してるかも。

 とっくの昔にリンの心には大切な誰かが居る。

 ……かもしれない。

 それでも……

 自分の気持ちを伝えることには、なんの関係もない。

 ただ、俺がブザマにフラれて、爆死するだけのこと。

 上等だ。

 やってくれ。

 俺が、初めて、むき出しにした本心を見せるのは、

 初めて、カッコつけず、みっともない必死さで、気持ちを叫び、そしてこっぴどくフラれる相手は、

 鎧を脱いだ生身の心に、一生消えない傷と痛みを刻むのは……

 リン以外にはありえねえだろ!

 本気で叫び、本当に傷つくからこそ、ひとは成長する。強くなれる。

 そんな簡単なことに気づくのに、時間をかけ過ぎた。

 傷つく必要がある。

 今度こそ、逃げずに。

 リンだけを。リンの姿だけを求めて。俺は走った。

 今は、ただ、リンに逢いたい。伝えたい。叫びたい。

 あのとき言えなかった本当のことばを。

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