アリカ

 朝からいつものようにリンと会い、一日遊んだあと別れ、夕空を眺めながらバイクを走らせて自分の街に帰った。

 気持ちのいい夏の夕暮れ。空はバターのような色。たまにこんな日がある。

 複雑な色彩の雲を見ていると、人恋しいような、不思議な切なさがこみ上げてくる。

 途中、駅近くのスーパーに寄って、見切りの半額弁当を買った。今日の晩飯だ。

 スーパーを出ると、肌触りのいい風が、撫でるように吹き抜けていった。

 日中はまだまだ暑いが、日が暮れると気温はさっぱり低くなる。盆を過ぎたら急に過ごしやすくなった。

 バイクを右に左に傾け、ゆったりしたカーブの坂を上っていく。

 品のいい戸建てや、レトロなマンション、それから『はっぱねこ』なんかの前を通り過ぎた。

 ガードレールの向こうには、赤い光の海に沈んだ街並み。

 大勢のひとを詰め込んだ電車が、建物の隙間をゆっくり横切っていく。

 雑木林に囲まれた我が家が見えてきたとき、駐車場に停まったワインレッドのプジョーに気がついた。

 広い砂利の駐車場に入ると、俺の部屋のドアの前にしゃがみこんでいたアリカが、口元にクールな笑みを浮かべてひらひらと手を振った。

 駐輪スペースにバイクを突っ込んでエンジンを切り、ヘルメットもグローブも外さず無言でドアに向かった。

「やっほー。タキ。おかえりー」

 立ち上がったアリカが妙にはしゃいだ声を出した。

 オリーブグリーンのハイネックノースリーブニットに、下は足首の出たホワイトのクロップド。鈍いシルバーのパンプス。黒の薄手のカーディガンを羽織っている。

 まだ一緒に居たころは、アリカがこうやっていきなり家に来るのは珍しいことでもなかった。

「なあに。また弁当?」と俺の手に持つ袋を見て苦笑する。「相変わらずそんなのばっか食ってんのね」

「悪かったな」

 アリカはいかにも部屋の前でずっとあなたを待ってました、という顔だったが、俺のバイクが坂の下に見えるまでは、車の中でタバコでも吸ってたのだろう。かすかにメンソールの匂いがした。化粧もぱりっと直っている。

 こんなふうに、健気で愚直な女を演じるのも、アリカの恋愛テクのひとつだと俺は気づいていた。

 だいたい、裏が雑木林の俺のアパートで、今の時期、長時間外で待っていたりなんかしたら、蚊に食われまくって大変なことになる。

 ただでさえ、アリカは虫が大嫌いだった。

 俺のアパートによく来てたころも、カメムシやらクモやらゴキブリに遭遇しては、金切り声を出して大騒ぎしながら、「なぎはらえっ」とか言って手を振り、俺に速やかな駆除を命じていたものだ。

「立ち話もなんだから、お茶でもどう?」とアリカ。家主かあんたは。「タキの淹れたコーヒー、久々に飲ませてよ」

「え。上がるの?」

「もちろん手ぶらじゃないわよ」

 アリカは一度車に行き、買い物袋を下ろしてきた。妙に色々買いこんでパンパンだった。

 中から取り出した茶色の小さな紙袋を、無造作に投げて寄こす。「はい。お土産」

 キャッチした袋を見て俺は唸った。

「……マジか。ブルマンかよ」

 ブルーマウンテン。最高級の豆で、グラム千八百円という恐ろしいブツだ。二百グラム入っている。これで、俺の今夜の晩飯ざっと十八個分の値段。

「あと、美味しい肉料理作ったげる」

 アリカは買い物袋を重そうに持ち上げた。

 俺はそれを奪い取るようにして持ってやる。

「……言っとくけど、泊まりはナシだよ」

 ため息をつきながら、鍵を開けた。

 アリカは何も言わず、親しげな感じで俺の肩をぽんぽん叩いた。


 希少な鉱石でも扱うように、艶のある豆をレトロな純銅製手挽ミルに入れた。

 ゴリゴリとハンドルをまわす俺を、ひとつしかないダイニングチェアに座り、テーブルに頬杖をついたアリカが、微笑を浮かべてじっと見ていた。

 粉受けを引き出すと、焼きたてパンのような薫りが漂ってきた。さすがブルマン。いつものグラム二百五十円のブレンドとはモノが違う。

「こりゃスゲーな。なんだこのステキすぎる薫り」

 小さな引き出しに入ったこげ茶の粉末をアリカの鼻先に近づける。

 アリカは上質な音楽を聴くような陶酔した表情で、顔をゆっくり左右に振り、流ちょうな発音で言った。

「Have mercy」

 アリカはテーブルで。俺は流し台の縁に腰掛けてソーサーを手に持ちながら。ふたりでコーヒーを飲んだ。

 お互いなんとなく無言だったのは、最高級と謳われるブルーマウンテンの極上の味のせいばかりでもない。 


「掃除とか洗濯は好きなくせに、洗い物は溜めちゃうの、相変わらずねえ」

 コーヒーを飲み終わると、アリカはおもむろに薄手の黒のカーティガンを脱いだ。女らしい肩と腕が露わになり、ニットの丸い膨らみが、これでもかと形を主張する。

 これもアリカの女子力的演出だとわかっているのに、ドキッとしてしまう自分が情けない。

 でももっと情けないのは、またもや、なし崩し的にアリカのペースに乗せられていることだろう。

 アリカは流し台に積まれた食器をてきぱき洗い始めた。見慣れた後姿だった。

「俺、弁当買ってきたんだけど」

「ビーフシチュウだから、どうせ煮込みに時間かかるわよ。食っちゃってて」

「あんたはどうすんの?」

「料理してると食欲ってマヒすんのよねー」

 冷蔵庫から出した食材をテーブルに並べ、鼻歌まじりに手際よく料理し始めるアリカには、不思議とキッチンがよく似合う。

 ビーフシチュウはとんでもなく美味かった。相当、いい牛肉を使ってる。

 おまけに、俺が買った覚えのないサワークリームまで添えてあった。アリカがこの夕食の為にいくら使ったのか、計算するのも怖い。

「どーお? 美味い?」アリカが家庭的な笑顔で言った。

「うまい。うますぎる」

「そう。よかった」

 アリカは目を細める。と言っても普段から糸目なんだけど。

「まったく。アンタって、なんでも、本当に美味しそうに飲んだり食ったり……。人生楽しそうよね」

 テーブルに両肘をつき、両手で顔を挟み込むようにしてじっと俺を見ながら、アリカが無表情に言った。

「なんだそりゃ。人生? 大げさな」

 低いソファから見ると、座ったアリカのむっちりした下半身がどうしてもモロに目に入る。

 パンツスタイルとはいえ、内股にした長い足や、腰から太ももにかけての色っぽい曲線をローアングルで見るのは、精神衛生上よくない。

「アリカさんの作ってくれるメシ、ほんと美味いよ」

 ホメたつもりだったのに、アリカは痛みでも感じたように、眉間にしわを寄せた。

 それも一瞬で、すぐにわざとらしいくらい物分かりのいい、三日月のような笑顔で、

「……まあねー。オトコ心をつかむには、まず胃袋からってねー」公園のコイにでもやるように両手をパンパン。「ささ。たんとお食べー」

「……餌付けかよ」

 夢中になって食っていたら、いつのまにかアリカが冷蔵庫の戸を開けていた。

 黒い星のマークの缶がぱしゅっと小気味良い音を立てる。

 口を半開きにして静止した俺の目の前で、缶を口に当てたアリカは、底が天井に向くくらい傾け、ゴキュゴキュゴキュっとひと息で飲んだ。

 くうううーーと酸っぱいものでも嗅がされたように顔をしかめるが、すぐに幸せそうな笑顔になる。

「かっかっか」呆気にとられる俺に、勝ち誇ったような変な笑い声。「これでもう運転出来ないし、泊っていくしかないわねえ」

「あ、あんたなっ」ちなみに俺はバイクの免許しか持っていない。

「なあに? ここまでしてやった私、追い返すの? 代行まで呼べって?」妙に目をギラギラさせたアリカが低い声を出す。「ンなことしたら、全額費用請求するわよ」

「……無茶言わないでよ」

 でもアリカなら本気でやりかねない。

 俺は深いため息をついた。

 アリカはさらにゴクゴクと美味そうにビールを飲んだ。この為に生きてます、というそれはそれはご機嫌な顔だった。

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