年上の女
アリカとは、バイトしていた居酒屋で知り合った。
知人の知人の居酒屋が、大手チェーンに押されて人件費がまわらなくなり、どうしてもと頼まれた俺は、格安の給料で一年ほどその店を手伝った。
その一年間、俺は客と三回喧嘩になった。
一度目は、営業時間を三時間過ぎても帰らず居座っていたチンピラに注意して。
二度目は、泥酔して財布を無くしたと騒ぐ客に、盗んだと言いがかりつけられて。
そして三度目は、他の女性客にしつこく絡む酔っ払いオヤジを止めようとして。
絡まれていたのを助けてあげた女性客。それがアリカだ。
もう少し正確に言うと、最初に絡まれたのは、アリカの会社の後輩という大人しそうな女性だった。
アリカはその酔っ払いに、
「絡むな。頭冷やせオヤジ」いきなりジョッキの生ビールをぶちまけた。
逆上した酔っ払いとアリカの間に俺が割って入り、気が付いたら自分がその中年男に殴られていたのだ。
でも俺が止めなくても、アリカだったらそのオヤジを自分でぶちのめしただろう。アリカという女の気性を知ったいま、しみじみそう思う。
腫れた俺の顔に、泣きそうな顔でハンカチを当てて心配してくれた、その気弱そうなボブカットのお姉さんの後ろで、アリカはふんぞり返り、大人しくなった酔っ払いオヤジを勇ましくにらんでいた。
それから、ボロボロになった俺のシャツと仕事用エプロンを弁償したいからと言って、後日会うことになった。
待ち合わせ場所である駅前のロータリーに現れたのは、その大人しい後輩ではなく、ワインレッドのプジョーに乗った先輩のアリカだった。
拉致されるように車に乗せられ、高速道路で山奥の湖までドライブに行き、湖畔の白いホテルの高そうなレストランでランチをごちそうになった。
アリカは男と別れた直後だったらしく、
「ちょうど気分転換したかったのよ」と大人びた笑みを浮かべた。
その後も何度か会い、そのたびに飯をご馳走になり、アリカの愚痴とヤケ酒に付き合い、気が付いたら俺たちは、彼氏と彼女に近いような関係になっていた。
俺もアリカも、「付き合おう」なんてはっきり口にしたことはない。アリカはそういうことをわざわざ言うタイプじゃなかった。
でも、そんなイビツな関係は、俺が望む恋愛のカタチじゃなかった。アリカがいまだに俺以外の男と切れてないという直感もあった。
俺は、段々とアリカからの誘いを断るようになり、そのうちに、俺たちは自然と会わなくなった。
「タキがこんなとこでお茶してるなんてねー」
勝手にコーヒーを頼んで強引に隣に座ったアリカが、高い声を出した。
手入れの行き届いた綺麗な髪に、細い目、細い顔というクールな容姿で、ジム通いで鍛えた肉体は引き締まっていて腹筋も割れている。勝ち気で強引な性格のくせに、声だけは可愛らしい妙なギャップも相変わらずだ。
仕事の途中らしく、白のタイトスカートに白のトップス、ネイビーのジャケットと大人びたスタイルだった。
同じテーブルについているリンのことなんてまるで見えないかのように、アリカはベラベラと喋った。久しぶり、とか、最近なにやってんの? とか、あのバイトまだ続けてる? とか。
リンは難しい顔で貝のようにしっかりと口を閉じ、少しうつむいてテーブルの真ん中あたりをずっとにらんでいた。
「で、誰、この子?」
アリカはリンがそこに居ないかのように突然話を振った。見もしない。
「リンだ」と俺は言った。
アリカは横目でちらっとリンを見る。
「へえ」妙に機嫌よさげな顔。どことなく、あざ笑うかのような意地悪な表情に見えた。「アンタ、そういう趣味だったんだ」
「どういう意味だよ」
アリカの態度はなんとなく俺をイラつかせた。でも、あまりつっけんどんな態度も取れない。だいたい、アリカ自身を嫌いになって会わなくなったわけじゃないのだ。
「あら。かわいらしい髪留めね。おこづかいで買ったの?」
アリカは、そこで初めてリンを正面から見て、露骨に馬鹿にしたような発言をした。
リンは黙って髪留めを外した。
「俺が買ってやったんだよ」思わず低い声が出た。
「そうなの? アンタがねえ」アリカが驚く。「……私には何も買ってくれなかったくせに」
たしかに、本来の俺は、女に何か買ってやるようなタイプじゃない。
「あんたが気に入るようなアクセなんて、貧乏学生には買えないよ……」
思わず本音をこぼす俺。
アリカはブランド信仰とは少し違うが、妙にこだわりがあるタイプで、セレクトショップなんかの一点ものを吟味し、値段に糸目をつけずに買う。服もアクセも、趣味のいい、でも値段を聞くと飛び上がるようなものばかりだ。
「わたし帰るね」
リンはパッと立ち上がりながらそう言うと、背を向け、駆けるように店から出て行った。
「あらら」アリカが皮肉めいた笑みを口元に浮かべる。「行っちゃった」
それから、挑みかかるような目つきで「あの子若すぎない? 高校生?」
「……中学生……」
「はあ!? キモッ! オマワリさーん! ここにロリコンがいまーす!」
「ち、違うって! リンは……その、妹みたいな子だって」
「イモウト?」アリカはリンが去って行ったほうをあらためて見やった。「……あの子が……? ……妹?」
「アリカさん。俺行かないと」
急いでリンを追いかけようと立ち上がる。財布から千円札を二枚取り出してテーブルに置いた。「これでここ頼む」
「タキ」
アリカが訴えるような目で俺を見た。急に余裕がなくなったように見えた。
「久しぶりに会って、この私とも、話すこと……あるんじゃない?」
「……ごめん。でも、ちゃんとしないでダラダラ付き合うっての、やっぱり俺は……」
「だったらちゃんとすれば?」
「あんたはそういうタイプじゃないだろ」
俺はそう言ってカフェを出た。アリカもそれ以上は引き止めなかった。
照明を落とした地下街の雑踏の中でも、リンの後姿はすぐにわかった。
背を丸めてとぼとぼ歩いている。思ったよりも離れていなかった。薄暗いからか、ショーパンの小さなお尻から伸びたすらっとした脚の白さが目立っていた。
俺はリンのすぐ隣に並んだ。有無を言わさず手を繋ぐ。
「離してよ」いじけたような口調でリンはぽつり。
「ダメだ。ひとりにして、またお前がナンパされたら困るしな」
リンはそれ以上何も言わなかった。繋いだ手を嫌がる様子もない。
「お前、せっかく買ってやった髪留め、どうして外すんだ?」
リンはますますうつむいてしまって、視線はほとんど真下だ。
「……あれ、もう捨てた」
「ばーか。リンがそんなことするわけねえよ。絶対に」
「………………」
「ほら、貸してみろ」
俺たちは地下街の壁の端に寄って立ち止まった。
リンはデニムのショーパンのポケットから髪留めを取り出した。
「さっきのあれ誰」渡しながら聞いてくる。「久しぶり、とか言ってたけど」
「前にバイトしてた居酒屋のお客さんだ」と俺は、リンのさらさらの髪に髪留めを付けながら、嘘はついてないものの最小限の事実だけを伝えた。
「感じ悪いおばさんだね。ケバいし」
「リン」俺はリンの目を見て言った。「そんな風には言わないでくれ」
リンは短く鼻を鳴らして俺から目を逸らした。
帰りの電車内は混んでいた。
リンは車内の男どもからあからさまにジロジロ見られていた。痴漢にでも狙われるんじゃないかと心配で、俺はリンを守る壁のように、ドア付近で両腕を踏ん張らせていた。リンは俺の腕の内側で、俺のシャツの裾をずっと無意識のようにいじっていた。
「まったく……次から次に……」舌打ちするようにぶつぶつ何か言ってる。
「ん? なにか言ったか?」
「……さっきのひと、バイクに乗せたことある?」
いきなりのリンの問い。俺の質問は無視か。
正直に答えた。
リンは、整った美しい顔をフグのようにぷうっと膨らませると、
「わたしもバイク乗せてもらう。海に連れてってもらうっ。絶対に。約束して」
「わかったよ。約束する」
俺はそう言って、リンの頭にポンと手を置いた。
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