青い山と黒い星の晩さん
「……その上司ってのがホントッ腹の立つ小物でさー。私が女だからって露骨に差別してきやがんのよ。その企画通すのに、どれだけ私が根回しして、頭下げまわって、無意味な会議で時間ムダにして、頭の固い老害ども説得したか」
ソファに深くもたれかかったアリカが据わった目で毒を吐く。
俺はテーブルを挟んで斜め前の床に胡坐をかいてそれを聞いた。
うっぷんをぶちまけるように延々と愚痴るアリカに対し、俺は、「だよな」「そーかそーか」「いやまったく」「そりゃひでーよ」と聞き役に徹した。でも、アリカの愚痴を聞くのは決して嫌いじゃない。
「同期のバカは足引っ張ってばっか。口だけは達者で、中身スカスカ、自信だけはムダにあるようなヤツ。ポシャッた私の企画の穴埋め、そのバカの企画なのよ。あれ、ぜってーアイツが横やり入れたんだわ。あーハラたつ!」
「もっとアリカさんのよさを発揮できる職場環境だったらいいのにな」
「まったくだわ! 私のムダづかいよ!」
「アリカさんの無駄遣いか」その語感がなんだか妙に可笑しい。「そりゃ、会社の損失だな」
「いーや、社会的損失よ! 世界的損失と言っても過言ではないわね」
怒ってんだか喜んでんだかわからない顔でアリカは言った。ぷーっと子供っぽく頬を膨らませる。
「アリカさんは有能だから、たぶんまわりみんな怖がってんのさ。特に男は素直に負けを認めたくないんじゃないかな」
「女々しくて情けなくてちっこい奴ばっか。きっとヘニャチンね」俺の一ヵ所をじっと見ながら「アンタくらい硬いのはなかなか……」
「おい。ちょっと待てっ」と俺は真顔で止めた。ついに下ネタに走り出しやがった。
でも、相変わらず、酒がまわったアリカはひとの言うことなんて聞きやしない。赤面モノの下ネタを連発しては、ひとりでウヒャヒャとウケている。
どうも、下ネタが苦手な俺の反応が、余計にアリカのオヤジ化をあおってるフシがある。
「……ほんとっロクな男いねーわ。……いいなと思う男はだいたい既婚だしさ」
ちょっと寂しそうにアリカが笑った。俺と会う前に付き合ってたという四十代の男のことが頭をよぎった。
「あー。くそ。みんな死ねばいいのに」
アリカは、空になった缶をテーブルに叩きつけると、ネコのようにソファでゴロゴロ身じろぎした。
傍らの空き缶は、もう小山になってる。
思わず顔が緩んだ。女が社会で思い通りに生きるのは、きっと大変なんだろうな、としみじみ思った。だからこそ、負けずに頑張って欲しい。
「……ほら、その顔」真っ赤な顔のアリカがジト目で俺を見ていた。「また、その、ムカつく目する」
「え」
アリカは俺の目をよく「ムカつく目」だと言った。かと思えば、「その目が好きなの……」なんて急に素直になることもあった。ごく限られた状況で、だけど。
「タキィ。世の中のやつら皆殺しにしても、アンタだけは生かしといてやるわ。そのかわり、毎日、私に美味しいコーヒー淹れるのよ」
「酔ってんのか」
「見りゃわかんでしょーが」
「もうそのへんにしときなよ。あんた、そんなに強くないんだから」
「どうせわたしは弱いオンナだわよー」
酒に、のつもりで言ったのに、アリカはちょっと違ったニュアンスで返してきたように聞こえた。
「アンタ就職どうすんの? 決めた?」アリカが唐突に言った。
「……まだ決めてないよ」今年度卒業なのに、何も決まってない。恐ろしいことに。
「私が口利いてあげるって言ってんのに。コネならちょっとあるし」
「いいよ。自分の道は自分で決める」
「……アンタ、社会に出たらぜってー苦労するわよぉ。その『俺は俺だ』って性格」
アリカはいきなり四つんばいになって、猫科の動物のような動きでにじり寄ってくる。脇の隙間からエレガントな黒のブラジャーが見えた。
「おねーさんは心配だわ」
のしかかってきたアリカが、俺の頬に手を当て、困り顔で言った。
大人の女の完成された肉体の迫力に、目眩いがしそうだった。
酒の甘ったるい匂いと、それとは別の上品な甘い香りが同時に漂ってくる。
「そんなこと言われなくてもわかってるよ」
「でも、アンタが世の中に鼻っ柱叩き折られて、メタメタになった顔も見てみたい気がするわねえ」
両膝を内側を曲げて女座りしながらケタケタ。
「メチャクチャ言うな」
「そんときになってわたしに甘えてきても、優しくなんてしてやらないから」
「安心しろ。あんたに甘えたりなんかするもんか」
「その突き放すような『あんた』呼ばわりほんとムカつく」
「はいはい。悪かったよ」
「でも、興奮する。むらむらしてくる」
とろんとした目で身を乗り出して腕を伸ばし、俺の腕の筋肉や手の血管をサワサワ。
「わたしエムっ気あんのかな」色っぽい声でアリカが言った。
「知らねーよ」と俺はドギマギしながらも呆れた。
この流れは非常によくない。アリカにへんなスイッチが入ってる。
「……ねえ、タキ。ちょっと命令してみてよ。『服を脱げ』とか『俺にキスしろ』とか」
「あんたちょっと落ち着けっ。ステイッ」
今にも襲い掛かってきそうなアリカから離れ、立ち上がってキッチンの方に逃げた。なんだか頭がくらくらしてきた。
無性にのどが渇き、俺は冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを出した。冷蔵庫の中にたっぷり並んでいた。何本買ってきてやがんだよ……。
深く考えずにタブを開け、苦みのある冷たい液体をのどに流し込む。
久しぶりに飲む夏のビールは、爽快で、腹が立つほど美味かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます