アマイロノカミノオトメ
そろそろ受験が現実的なものとして迫ってきた中三の秋。
俺は放課後の無人の音楽室で、友人のカスヤと携帯ゲームをしていた。テニス部のカスヤは引退後もまだ部活に顔を出していて、その前に少しだけ対戦するのが俺たちの日課だったのだ。
いいところで時間切れになり、カスヤは慌てて走り去った。
俺は、そのあとも教壇に座り、なんとなくゲームを続けていた。
『フジムラアヤメ』に会えたらいいな、とぼんやり期待して。
弓道部のフジムラアヤメは、クラス一の美少女で、普段は華のある生徒とばかり一緒に居る、別世界の存在だった。それが、なぜか一度だけ、向こうから話しかけてきたことがあった。
誰も居ない放課後の下駄箱。
遅くなった俺と、部活帰りらしいフジムラアヤメは、ばったり出くわした。
そのとき、いきなり、
「タキくんて優しいひとだよね」とニッコリ微笑まれた。
あまりに唐突で、しかも相手は口を聞いたこともないクラスのアイドル。
パニックになった俺は、半ば無視するような形で靴を履き、足早に立ち去った。そして、もしかしてフジムラアヤメって、俺のこと好きなんだろうか、なんて考え、どうしてもっと華麗な返しができなかったんだ、と布団に顔をうずめて悶絶した。
以来、またフジムラアヤメに話しかけられたらな……なんてつい期待して、放課後意味もなく居残ってしまっている。
窓からは秋の西日が差しこんでいた。等間隔に並ぶ椅子と机の群れが、フローリングの床に長い影を伸ばした。静かな部屋の中に、ゲームのBGMが寂しげに流れた。
「タキくん」
いきなり名を呼ばれ、口から心臓が飛び出しそうになった。
期待に胸を震わせながら目を上げると、フジムラとは全然別の、髪の長い小柄な女の子が立っていた。
「なにやってるの?」
たしか……同じクラスの『シノ』と呼ばれている子だ。本名が出てこない。影の薄い地味な子だったし、俺がこんな風に女子から気安く話しかけられるなんて、普段からは考えられないことだった。
「ゲーム」
緊張して、ついぶっきらぼうになってしまう。
シノは、長い前髪でいつも目元が隠れているような子だった。表情がわかりにくいこともあってか、夕日の中だと別の世界から来た異邦人のようにも思えた。
「こんなところで?」
俺は恒例になっているカスヤとの放課後の勝負のことを説明した。
「タキくん、カスヤくんと仲いいもんね」
俺はともかく、テニスの全中大会で上位になり、集会で表彰されたカスヤは、クラスでも目立っている。
「今日はどっちが勝ったの?」
「もちろん俺だよ」
シノは実に楽しそうに、「あんなにテニス上手なカスヤくんに勝つなんて、タキくんってすごいんだね」と妙な感心の仕方をした。
思春期まっただ中の俺は、本来なら女の子とまともに話なんかできない。でもシノが、さも当たり前の日常のように話しかけてきたせいか、不思議と自然な会話になっていた。
「シノはなにやってんの?」
少し悩んで呼び捨て。相変わらず本名が出てこない。
みんなから「シノ」と呼ばれているもんだから俺もそうしたが、一度も話したことがない相手を気安く呼び捨てにするのもおかしな感じだ。
「……ピアノ……弾こうかと思って」
なぜか急にそわそわしだしたシノが、グランドピアノをちらちら見た。
俺は、目の前にある巨大な物体が、音楽を奏でるものだと今さらながら意識した。秋の夕日を受けた黒いピアノは、飴色の光の膜に覆われていた。
「ピアノ弾くなら」勢いよく立ち上がる。「邪魔しちゃ悪いよな」
どうして男ってのは、こういうとき、思ってることと真逆をしてしまうのでしょうか。
本当はもっと話がしたいのに。
カバンを拾い上げ、大股でドアに向かおうとする俺を、シノが呼び止めた。
「タキくんっ」
思わず立ち止まってしまうほど強い口調。
でも、そのあとに続く言葉は、消え入りそうなほど小さかった。
「……ピアノとかって……聞きたくない……?」
「え。聞きたいっ。聞いてもいいの?」
シノはちょっとうつむいて、小さく二三度頷いてから、やっぱり聞こえないくらいの声で、「いいよ」と言った。
ガタガタ椅子を引きずってきて、ピアノのすぐ近くに座る。
「そこダメ」とグランドピアノの屋根を開けながらシノが言った。「顔見ないで」
シノの背後に座るよう命じられた。
鍵盤の蓋を開けたシノは、しばらく精神を統一するように黙っていた。
音楽室全体が、夕日の赤光で満たされ、隅の方には黒い影が沈殿するように溜まっていた。
遠くで、バットがボールを打つ乾いた金属音が響いた。
大きなピアノの前に座ると、シノの身体はとても小さく見えた。
俺は眩しさに目を細めながら、シノの後姿を見つめていた。
さらりと流れる髪を見て、シノが素晴らしく美しい髪の持ち主なのだと初めて気づいた。それは、髪の毛というより、不思議な光沢をもつ異国の糸束に見えた。
シノは、ふーと長い息を吐き、「よし」と小声で言った。
水滴が落ちるような無伴奏の単音から。
優しいメロディが紡がれていく。
曲に合わせて、目の前の世界が少しずつ変わっていった。大げさじゃなく、本当に、色や、光や、空気が変化したように思えた。
赤と黒だけの単色の世界が、誇張され、濃度を増す。
赤はさらに赤く。
黒はもっと黒く。
演奏がクライマックスに達した瞬間、まぶたがひとりでに閉じられ、全身が浮遊感に包まれた。オレンジ色の海の中に浮かんでいるみたいだった。
余韻を残してその短い曲が終わる。
重ねて来る波のように、足元から耳元まで、鳥肌が走り抜けた。
なんだこれ、と俺は混乱した。まるで魔法だ。
弾き終わってからもシノは動かなかった。俺も何も言わなかった。
ふたりはそのまましばらくじっとしていた。数秒だったかもしれないし、何分間かそうしていたのかもしれない。
シノは、突然、「あー、緊張した!」と叫んで、椅子から立ち上がった。
相変わらず目元は髪に隠れ、その表情はつかめない。
俺の頭はまだ痺れていた。夢からなかなか覚めない朝のように。
「きょくは……」うまく声が出ない。唾を飲み込んで言い直す。「……曲は、なんていうの?」
「アマイロノカミノオトメ」
その響きは、まるで不思議な呪文だった。
「ドビュッシー。この前、音楽の時間でやったでしょ?」
知らない、という間抜けな表情をしていたら、少し余裕を取り戻したらしいシノが、軽く握った手を口に当ててクスクス笑った。
「……もしかしてタキくん授業中寝てた?」
「なんか……ものすごかった。こんなの初めてだ」
音楽の授業中に鳥肌が立ったことなんて一度もない。
「それ大げさ」とシノは苦笑。
「アマイロノ……」
「亜麻色の髪の乙女」
なんて美しい曲名なんだろう。亜麻色がどんな色かはわからなかったけど、残照の中で微笑むシノを見ていると、
「それって、なんかシノのことみたいだね」
浮かんだセリフが勝手に口から出てしまった。
見ると、シノが固まっていた。少し開いた小さな口がわなないている。
「……なんでそんなこと言うの?」
泣きそうな声でシノ。
なんでと言われましても。
「あ。その。し、シノってっ、ぴっピアニストになるのかなっ」
話を逸らすように慌てて俺は言った。声がひっくり返る。
シノは鋭く首を振って「ムリっ」と簡潔に言った。美しい髪が左右に流れ、いつも隠れている目元が一瞬見えた。
「こんなに上手なのに?」
「このくらいは誰でもできるようになるよっ」
「俺にはできないよ」
「タキくんだってゲーム上手じゃん」
ぐはっ、やめてくれ。
こんな曲を弾ける相手に、たかがゲームで偉そうにしていた自分がとんでもないバカに見えた。
「でも」とシノは、グランドピアノに近付き、突上棒を降ろして屋根を閉めながら、「もうピアノやめるつもり」
「え?」
「ちょうど受験もあるしね」
シノは窓辺に向かってゆっくり歩いた。
熟した柿のような色の空を、黒い鳥が何匹か横切っていった。
「ピアノやってるとウンザリしてくるよ。練習はツライし、ちっとも上達はしないし、まわりには自分より才能があるひとばっかだし」
「続けたほうがいいよ」と俺はシノの小さな背中に言った。
え、とシノが振り返る。
「続けたほうがいいと思う」
「そう、かな?」
「続けたほうがいい」
「どうして?」
「シノはまるで音の魔法使いみたいだった」と俺は思ったままを伝えた。「さっきの、あの、魔法みたいなピアノがなくなるのは……寂しいから」
息を飲む気配がした。
無理矢理時間を止められたように、シノは身じろぎひとつしなかった。
相変わらず長い前髪に隠れて表情はよく見えない。
やがて、その前髪の隙間から、涙がぽろぽろ流れ落ちた。
ひっ、というような情けない悲鳴を俺は出した。なんでいきなりここで泣きだすっ?
あわわわ、と焦る俺の目の前で、シノはぐすぐす泣いている。
ありがと、とかすかに聞こえた気がした。
ドキドキするか、うろたえるかしかない単純な男に比べて、女の子というのは、なんてカラフルな反応をする謎めいた生き物なんだろう。
「……タキくんは、高校、どこにするの?」
おまけにいきなり話が飛ぶし。
「まだ決めてない」
ハンカチでも渡すべきだろうか、と思ったが、そんなもの持ち歩いたのは親から持たされた小学校低学年のときだけだ。
と思ったら、シノは自分でハンカチを出し、そっと目に当てた。可愛い柄のハンカチに、猛烈に『女の子』を感じた。
それから、俺は教壇に、シノは椅子に座り、するする落ちていく夕陽を無言で見つめた。
進路か、と俺は思った。
俺たちはこの先どこに向かっていくんだろう?
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