繋がる時間
太陽が地平に消えると、暗くなった音楽室の中は急激に静まり返った。真っ暗だったが、暗さに慣れた目には部屋全体が青白く見えた。
「ねえタキくん」と泣きやんだシノが立ち上がり、俺のそばに来る。「ゲームって、おもしろい?」
「うん。まあ」
「私にもできるかな」
「簡単だよ」
「やりたい」
教壇に腰掛けていた俺の隣にふわりと座る。その動きに合わせて、異質な匂いが移動してきて俺は思わず息を止めた。女の子だー、と思った。
冷静さを装いながらゲームの説明。
シノはしばらく真剣に操作していたが、すぐに根をあげた。
「これ、難しいよ」
「相手をよく見て。ビビってちゃダメさ」
「相手をよく見るって」シノはおもむろに俺の目を見つめる。「こんなふうに……?」
俺はぐびっとつばを飲み込み、硬直した。
間近だと、いつも前髪で隠れているシノの目がよく見えた。
俺はそこで初めて、シノが実はどれほど可憐な女の子だったかに気づいた。どうして、こんな綺麗な素顔を隠しているんだろう。
それまでシノのことを特別に意識なんてしてなかったくせに、なんの脈絡もなく、キスのことが頭に浮かんだ。なんとなく、このままキスすることになるんじゃないかという雰囲気を本能で感じ、そんな経験のない俺は、ただひたすら怖くなった。
目を逸らしてしまう。
「ビビッてちゃダメさ」
シノはどこか楽しそうにゆっくりそう言って、すーっと顔を近づけてくる。
俺の目は、前髪の隙間から潤んだ眼差しで俺を見る、黒い宝石のようなシノの瞳に囚われた。魅了の魔法にかかったみたいに身体が動かなかった。
シノって俺が好きなのか。シノって俺が好きなのか。頭の中でメトロノームの針のように一定のリズムで繰り返されていた。
「でもだめだね。私、臆病だもん」すっとシノは身体を離した。
はーーーーと全身から空気が漏れていく。どこがだよ……。
息はハアハア心臓はバクバクで、思わぬ大胆さを見せたシノを見た。そんな俺に比べて、シノは妙に平然としている。からかわれたとしか思えなかった。
「ありがと」
シノはゲームを返してきた。受け取るとき、シノの白い指先が自分の手に触れ、そこから電流のようなショックが全身を走り抜けた。シノを愛しくてたまらないという理解不能な熱い気持ちが沸き起こり……
がらり。突然音楽室の戸が開いた。
俺はバネ仕掛けの人形のようにびょーんと飛び上がってシノから離れた。
「……あなたたちまだ居たの」美人だけど冷たくてあまり人気のない音楽教師だった。「そろそろ閉めるわよ」
俺たちは慌てて音楽室を出た。教師が鍵を閉めるカチャッという冷たい音が、俺を現実へと引き戻した。
シノはそのまま廊下で教師と立ち話を始めた。
なんとなく気恥しくて、逃げるように走り去った。立ち去る寸前、一瞬だけ、前髪をかき上げたシノと目が合った。優しい眼差しだった。
校舎から外に出ると、空の高い部分から、蒼いインクのような薄闇が満ち始めていた。
野球部がグラウンドを整備する横を通り過ぎながら、校舎を見上げ、さっきまで過ごした音楽室での不思議な時間を想った。
透明な空には星がいくつか瞬いていた。
シノが俺を好きなはずがない。
でも、たぶん俺は、今日聴いた『亜麻色の髪の乙女』を、生涯忘れない。そう思った。
◆
「……とまあ、それだけの話なんだけどな」
軽い口調で俺は思い出話を締めくくった。リンがあまりにも真剣な顔で聞くもんだから、やりにくくて、かえって軽くなった。
放課後の魔法は解け、俺とシノは、この時以来、二度と話すことはなかった。目を合わせることすらしなかった。すべては夢のようだった。シノは再び、髪で目元が見えない、目立たない女生徒に戻った。そして俺たちは卒業し、別々の高校に行ってそれっきり。
「その、カスヤってやつにこの話したら、シノは俺のこと好きだったんじゃないかって言うんだけど……」
まあ、そんなこともないよなあ。そう言おうとしたら、その前にリンが、
「そうだよ」と静かに言った。
「いやー。どうかな? だって、そのあとは何も言ってこなかったんだぜ?」
「シノさんは、中学校のころ、タキくんが好きだったんだよ」
リンはなぜか妙にきっぱり断言する。
「なんでそんなことわかるんだ?」
「本人に聞いたから」
「は?」
「シノって、ヨシノさんのことでしょ」
唐突に記憶がフラッシュバックした。そうだ。シノの本名。吉野だ。
「聞いたって、なんだよ」さっきからなに言ってんだリンは。「なんでおまえが知ってんだ?」
「吉野先生、自分で言ってたよ。それはそれはうれしそうに。中学生のとき、すごく好きだった男の子に、ピアノを聴いてもらったことがあるって。亜麻色の髪の乙女」
「吉野センセイ?」
「教育実習の吉野先生。このまえ、うちの学校に来た」
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