第5話 春の日の山田苑

 その年の桜は、例年より一週間ほど遅かった。この町にきてからというもの、春には毎年電車に乗って、全国的にも有名な桜の名所を訪れていた。線路沿いに川が流れていて、その両岸に満開の桜が約八キロにもわたって立ち並んでいる。桜並木の向こうには、雪を頂く峰々がそびえていた。

 川のそばの小高い山には城址公園があって、この公園も春には全山が桜色に染まる。

 山頂からは、先ほどの川に並ぶ千本桜と、山を彩る桜を同時に眺めることができた。


 城址公園の山のふもとは広場があって、屋台が並んでいたり、ステージで地元の学生がよさこいを披露したりしている。ブルーシートを敷いて、僕は広場をぐるりと囲む桜を眺めていた。

 僕の向かいには恵子ちゃんが座っている。タッパーにはおにぎりやウインナー、玉子焼きなどのお弁当の定番のほかに、案の定エビチリが入っていた。そして、僕と恵子ちゃんの間には、ハイハイしている小さな子どもが一人。


 風香。昨年誕生した、僕の宝物だ。


 会社に行って、疲弊して帰宅して寝て、また次の日会社に行く。この繰り返しだった日々が、結婚して、子どもが生まれて、守るべき家族ができてからは劇的に変わった。いや、やっていることは、相変わらず会社に行って疲弊して、と変わっていないのだが、これはとにかく気持ちの問題だ。

「幸太さん、お腹減りません? 食べましょうよ」

 恵子ちゃんが、から揚げに手を伸ばそうとしていた風香を抱き上げて言った。

「ふーちゃんはまだ食べらんないからねー。ごめんねー」

 風香は謎の赤ちゃん語を発しながら、なんとか恵子ちゃんの腕の中から脱出しようと暴れていた。

「はいこれ、お箸」

 恵子ちゃんは、風香をほとんど小脇に抱えるような体勢で、僕に割り箸をくれた。

「あーん、してください、あーん」

 恵子ちゃんは、あごでエビチリを指しながら、口を開けた。僕はエビを一尾とって、恵子ちゃんの口に放り込んでやった。

「なにイチャついてんの、お前ら」

 たこ焼きとビールを持って帰ってきたのは、掛川さんだった。その隣に、リンゴ飴を持った一人の女性。

 恵子ちゃんは高速でエビを咀嚼し、飲み込んだ。

「日香里さーん! ふーちゃん私になかなか慣れてくれなくて。パス!」

 風香は、日香里に抱っこされたとたんに、その腕の中でおとなしくなった。

「お前抱き方下手くそなんじゃねぇの」

「将来に向けての練習です。てか、目があっただけで泣かれたゆいさんに言われたくないですよ」


 日香里は、僕の妻だ。

 三年ほど前、恵子ちゃんが突然

「これからはロシア料理の時代です!」

と言いだして、中華料理のラインナップのなかにロシア料理が並ぶようになった。するとこれがどうやら当たったらしく、うまいロシア料理の店としてちょっとした評判になったのだ。日香里は、その評判に釣られた客の一人だった。ロシア料理が好き過ぎて、ロシアの民族舞踊まで習っているというつわものだ。

 店でよく出くわして仲良くなり、色々あって付き合うことになり、あれよあれよと結婚して、風香が生まれたのだ。

「私、二人の愛のキューピットですね」

と、恵子ちゃんは、ささやかなサイズの胸を張ったものだ。

 一方の掛川さん。地元に帰って当時付き合っていた彼女を呼ぼうとしたものの、彼女側が田舎に行くのを土壇場で拒否。そのまま自然消滅となってしまったらしい。向こうで四年間働いた後、去年、またこの町に戻ってきたのだった。


「将来ってお前、彼氏できたの?」

「いるわけないでしょ、喧嘩売ってんですか?」

「お前、今いくつだっけ」

「二十九です」

「山田も気づけばアラサーか」

「まだピチピチの二十代です」

「違う意味でピチピチだな」

 掛川さんは恵子ちゃんの二の腕を突っついた。

「最近化粧のりは悪いし」

「最近化粧濃くなったよな、そういえば」

「胸は垂れるし」

「嘘つけ、垂れるほどないだろ」

「豆乳飲んでたんですけどね、無駄でしたわ。つまりゆいさんの存在は無駄でした」

「お前豆乳好きだからいいじゃん。また持ってってやるから」

「あ、ありがとうございます」


「あの二人、付き合っちゃえばいいのに」

 日香里は、そっと僕にささやいた。

「何度か恵子ちゃんに聞いたことはあるんだ、掛川さんのことどう思ってるのか。そしたら、『海に突き落としたいです』とか言ってた」

「なにそれ」

 日香里はふふっと笑って風香の頭を撫で、そしてまだやかましく言い合っている二人に穏やかな目を向けた。

「そしたらさ、地元で釣りしてた掛川さん、足滑らせて本当に海に落ちたんだって。『刺客を送ったんです、十人くらい』って、恵子ちゃんすごいニヤニヤしてた」

「でも恵子ちゃん、優一さんがこっち帰って来た時、すごい喜んでたよね」

「悪態つきながら口角上がってたもんな」


「ねぇ!」

 日香里は、二人に呼びかけた。

 掛川さんと恵子ちゃんは、同時にこちらに振り向いた。

「あなたたち結婚したら?」

 掛川さんは、はっと目を見開いた。

「山田! 俺と結婚してくれ!」

「いやだぁぁぁぁぁあぁああああ白馬に乗った奏多くんがいい!」


 風が吹いて、桜が舞った。

 花びらが一つ、ふわりと風香の手のひらに落ちた。

 風香はそれを珍しそうにまん丸の目で見つめて、手をぎゅっと握った。




おしまい

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エビチリおばさんと豆乳おじさん Nemesis @Cantata_Mortis

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