第4話 年度末の山田苑

「ゆいさぁぁぁあん」

 赤ら顔の恵子ちゃんが掛川さんに抱きついた。

「嫌ですよ! いいじゃないですか、ずっとここに住んでれば!」

「ひっつくな暑苦しい。茹でダコみたいな顔しやがって」

「だって、ゆいさんいなくなったら誰が豆乳持ってきてくれるんですか! どうせいなくなるなら潔く死んでください。そっちのが諦めつくんで!」

「そういえば、こないだ豆乳ショコラってのを二十九年ぶり一回目に飲んだんだけど、めっちゃ不味いのな」

「ショコラってチョコでしょ。不味いに決まってますよそんなの。てかめっちゃ豆乳飲んでますね。私より飲んでんじゃないですか?」

「お前は三億年くらいエビチリだけ食ってろ」


 この日、会社のプロジェクトメンバーで掛川さんの送別会が開催された。退職し、地元に帰るとのことだった。新幹線で四時間、そこから在来線に乗り継いでさらに四時間かかる田舎で、掛川さんが言うには、

「最近、水道が通った」

らしい。

 会社の飲み会は休日に行われることはまずなく、また、金曜夜とも限らない。色々と日程調整した結果、今回の送別会は、不運にも平日のど真ん中に行われた。明日も早いので……、と一次会終了後にはさーっと人がいなくなり、気づけば、全く飲み足りない掛川さんと、二次会は当然あるものだと思っていた僕の二人が取り残されていた。

「二軒目行くぞ」

 そう言って掛川さんがまず向かったのは、近くのコンビニだった。ビールと適当な缶酎ハイを何本か買って、次に向かう先は、例のごとく僕が毎日歩く道だった。

「閉店しました」

 恵子ちゃんの第一声。

「OPENって札かかってるだろ」

「今閉店することにしました。刺されたくなかったら出てってください」

 恵子ちゃんは包丁を握ってニヤニヤ笑っていた。

「なんでもいいから作ってくれ。こっちは勝手に飲んでっから」

 掛川さんはコンビニの袋を持ち上げて見せた。


「だから、これがアデリーペンギンで、こっちがフンボルトで、これはジェンツーペンギンですって」

 恵子ちゃんはスマホの画像を見せながら言った。

「ペンギンめっちゃかわいいよな。羽根ちょっと広げてぼけーっと立ってるのがたまらん。種類までは知らんが」

「そうなんですよ、かわいいんですよペンギン。ペンギン見るためだけに水族館の年パス買いましたし」

 恵子ちゃんはエビチリを一口食べた。

「昔サークルのイベントで水族館行ったんだけど、入り口すぐんとこにペンギンがいてな、俺たちが一周する間こいつずっと一人でペンギン見てたんだぜ」

 掛川さんは缶ビールをぐいっと飲み干し、次の缶を開けた。

「ゆいさんだって水族館好きでしょ」

「一周目ざっと見て目星つけて、二周目でじっくり見る派」

「ゆいさんの県って水族館ありますっけ?」

 恵子ちゃんは缶酎ハイを一口飲んだ。

「あるわけないか! 人口三人くらいですもんね、確か」

「それな。連絡手段は糸電話だしな」

「そういえば、彼女さんはどうするんですか? 連れてくんですか?」

 恵子ちゃんは、鶏の唐揚げにレモンをかけながら言った。

 ちょっと待って、掛川さんって彼女いたの?

「それがいるんですよ。学生時代からずっと付き合ってるかわいい彼女が。ねー!」

「でもあいつめっちゃケツでかいよ? 四畳半くらいある」

 喧嘩するほど仲が良い、の原理で、掛川さんと恵子ちゃんはそのうち付き合うじゃないかと勝手に想像していたし、なんなら僕が知らないだけで実はもう付き合っているのではとも思っていたくらいだった。それだけに、掛川さんに彼女がいるという事実は、僕にはかなり衝撃だった。

 学生時代からというともうそれなりの年数になるだろう。女遊びに定評のある掛川さんの意外な一面だ。

「とりあえずは俺一人で先に帰って仕事始めて、近いうちにはあいつも呼ぼうと思ってる」

「結婚するんですか?」

「そのうち。結婚式お前らも呼ぶからよろしく」

「遠いですからねぇ。まあ考えときます」

 恵子ちゃんは彼氏がいたり、結婚を考えたりしていないのだろうか。こういう仕事をしていれば、客として来店した男性と知り合うことも多いだろう。

「私はとりあえず、奏多くんの握手会に行くのが夢です。あの神聖なお手てに触らせていただきたい」

「お前こないだお母さんになんて言われたって言ってたっけ」

「いつまでも虹色お花畑じゃ困るの! ですね。あと、正月におばあちゃんが、恵子にいい人ができますようにって神社や寺にお祈りして回ってたそうです」

「もう幸太でいいじゃん」

「無理です」

 間髪入れずに恵子ちゃんは答えた。僕は心の中で泣いた。

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