長政と官兵衛

結城藍人

長政と官兵衛

 今度こそ父に認めて貰える。黒田甲斐守長政は、そう確信していた。


 何しろ、筑前一国五十二万石である。父、官兵衛が手にし、自分が受け継いだ表高十二万石の豊前中津に比べて四倍以上の所領なのだ。実高の十八万石と比べても三倍弱になる。


 これも、すべて内府、徳川家康公が覇権を握ることに賭け、そのために味方集めに奔走し、決戦たる関ヶ原では金吾中納言小早川秀秋らを調略し、自ら槍を振るって手にしたものなのだ。


 父が「太閤、豊臣秀吉を天下人にした男」なら、自分は「内府に天下を取らせた男」となる。乱世の武人として、自ら天下を取ることに次ぐ快事であろう。そう長政は自負していた。


 太閤への義理や恩などは感じない。所領は、父の働きに与えられた「御恩」ではあるが、父と共にそれ以上の「奉公」を返してきた自負が長政にはある。


 父には太閤に対する愛憎半ばする思いがあるのかもしれないが、長政にとっては「織田信長の命に逆らわず自分を殺そうとした男」でしかない。


 彼の命が今もあるのは、竹中半兵衛が自らの身の危険を顧みず、かくまってくれたからに他ならない。だから、彼にとっての恩人は竹中半兵衛であり、その子重門に対しては何をしても報いる気持ちがあるが、太閤に対しては「主君」に対しての忠誠や奉公はともかく、それ以上に尽くしたいと思う気持ちはない。ましてや、本当に太閤の子か知れたものではない秀頼などには、愛着も忠誠もない。


 それならば、自らの働きを認め、十分な所領を与えてくれた内府にこそ、愛着はあると言える。


 確かに、内府、徳川家康公とは、忠誠心を刺激する男ではない、と長政も思ってはいる。表面上は律儀を売りにした温厚篤実な長者の風格を持つ大度の大名であるが、実のところしわい。また、内心は猜疑心の塊で、譜代の家臣や家族でさえ信じていない所がある、と長政は見ている。


 まあ、それもやむを得まい、とは思う。徳川家の系譜を見れば納得はいくのだ。何しろ、内府の祖父も父も家臣に殺されているのだ。おまけに、長子信康は家を割ろうとして内府自身に誅されている。


 信康の誅殺自体は信長の命令だったが、これは建前にすぎないだろう、と長政は見ている。内府自身が徳川家を乗っ取られそうになって我が子を殺したのだ。それを糊塗するために信長に誅殺命令を出すよう頼んだのであろう。


 信長は、悪名を気にする男ではない。自分が汚れ役になる代わりに、徳川家を事実上臣従させられるなら安いものだと思ったに違いないのである。


 だから、「忠誠鉄の如き三河軍団」とは、こうしたドロドロした内紛を覆い隠すための美称に過ぎない。なるほど、外部に対しては鉄の団結を示しているように見えるが、外側が硬い分、内側の内圧も酷いものであろう。


 その扱い難い軍団を五十年も抑えてきたのだ。温厚な長者に勤まるものではない。実態は権謀術数に長けた古狸。また、そうでなくては天下は取れまい。


 だから、内府を人間的に好いている、という事はない。だが、自らの力と功績を認め、吝いにもかかわらず五十二万石の大封を与えてくれた事に対しては、確かに恩があり、自らの力の限り奉公をしたいという忠誠もある。


 そして、その忠誠は末代まで捧げるべきだ、という事も長政は感じている。何しろ、このたびの関ヶ原の戦いの後の論功行賞は実に見事だった。徳川家の蔵入地だけで四百万石。逆らいそうな大名は地方に飛ばされ、徳川家の本領たる関八州は十重二十重に譜代大名に守られている。


 これでは、単独での謀反どころか、豊臣家あたりが旗頭になって一斉蜂起したとしても、徳川家を倒しきれるものではない。各個撃破されるのが関の山である。


 それも、頭領が内府のように戦に長けている必要すらない。ここまで力の差があれば、あの関ヶ原に遅参した戦下手の秀忠公が旗頭であっても、戦に勝てる。


 つまり、徳川家の天下は、もはや内府が倒れたところで揺るがないのである。太閤は惣無事令と刀狩りで乱世を終わらせたが、その天下は太閤が死して揺らぎ、再び戦が起こった。


 だが、ここに完全に乱世は終わったのだ。今内府が頓死しても戦は起こるまい。起きた所で、謀反人が敗北して徳川家の支配が一層強固になる結果に終わるだけであろう。そう長政は読んでいる。


 だからこそ、自分は心からの忠誠を内府と徳川家に尽くさねばなるまい。そうでなければ潰される。そういう恐怖が心の底にある。


 何よりも無念なのは、自分が所詮は外様であるとされたことだ。筑前は関東から余りにも遠い。大封はくれてやるから、そこで大人しくしておれ。内府の言外の命令を、長政はしっかりと理解していた。


 天下がこのように定まるなら、大封よりもむしろ政権中枢で権を振るいたかった、というのが長政の思いである。そう、あの石田治部少輔三成のように。


 関ヶ原で戦った敵、西軍の事実上の盟主は治部少輔であった。毛利などは兜の前立に過ぎない。事実上、豊臣政権を動かして内府排除を意図したのは、あの横柄な男だったと長政は思っている。


 長政の治部少輔に対する思いは単純ではない。唐入りにおいて父をざんし、自分の功績を認めなかったという個人的恨みはあれど、それ以上に権を握り、己の才を十二分に発揮できる立場にあることを妬ましく思う気持ちの方が強いと、自覚してはいたのだ。


 それゆえに、関ヶ原で敗れ、その権を失った治部少輔を、罵り辱める気持ちにはならなかった。


 個人的恨みについては、権を握る者として考えるなら、むしろ治部少輔の処置は正しいと理解できるのだ。中央政権の代理者たる治部少輔が侮られることは、中央の権が侮られる事に等しい。


 そこで「軍監である自分こそが中央の権の代理者」だと思い込んでいた父が治部少輔を軽く見て足をすくわれたのだ。結局、太閤は父よりも子飼いの治部少輔の方が大事だったという事だ。


 自分の功績が認められなかった事については、そもそも認められた者自体が皆無なのだから当然だろう。無い袖は振れぬのが道理。ただでさえ、豊臣政権の蔵入地は二百万石と少なく、臣下である徳川家の二百五十万石の方が多かったくらいなのだ。領地を取れなかった戦において論功行賞が厳しくなるのは無理もない。そこで、主君の代わりに憎まれ役を買った治部少輔の覚悟は、むしろ見事と褒めるべきであろう。


 だから、長政は勝利者となった時点で個人的な恨みは忘れ、敗者たる治部少輔を労ったのだ。


 自分も、所領など二十万石でよいから、そうした天下の権を振るいたかった、とは長政の密かな思いである。表には出さない。内府は、むしろそうした思いを危険視するであろう。


 天下の権は己一人のもの、と内府は思っているであろう。それを欲するものは、身内だろうが譜代だろうが容赦すまい。ましてや、外様の大封大名などがそれを望んだりすれば、即座に叩き潰されるだけだ。


 慎重に行動することだ。これから内府は己にとっての邪魔者を、ひとつひとつ、丁寧に潰していくはずだ。その最大のものは、未だ大坂城に残る豊臣政権の残滓であろう。


 そんな過去の遺物に巻き込まれて、せっかく得た所領を失いたくはない。


 だから、天下の権など望まぬことだ。思いすら出してはいけない。付け入る隙を与えてはならない。それが、これからの偃武の時代の「戦」になるのだろう、と長政は見ている。


 その点から考えると、このたびの父の戦はどうにもまずい、と長政は悩んでいる。


 なるほど、実績はすさまじい。留守居の弱兵と募兵だけで九州を席巻したのだ。その采配の見事さは、さすがに「太閤の知恵袋」と恐れられた黒田官兵衛だけのことはあると世人は喝采するであろう。


 だが、それが徳川政権の成立にとって、何の役に立ったか? 皆無である。中央の決戦にさえ勝てば、九州の西軍勢力の残滓など立ち枯れる。いちいち潰して回る必要すらない。


 だからこそ、内府は「あの老人、何のために戦ったのやら」と評したのであろう。


 かといって、世評にあるような第三勢力として立つことを狙った、などという事は有り得ぬと長政は考えている。父はそこまで目の見えぬ男ではない。また、その程度の浅薄な見通ししか持てぬ男が太閤に恐れられるはずもない。


 九州一円を切り従えたとはいえ、それは精兵や領主が留守の間の火事場泥棒に過ぎない。中央の決戦が終わって、精兵揃いの大戦力が戻ってくれば、いかに父の采配が水際立ったものとはいえ、抗し得ぬのである。


 だから、父の意図は、徳川家への忠誠立てでも、第三勢力設立を狙ったものでもない。長政には分かる。あれは、己の才を誇示したかっただけなのだ、と。既に隠居した老境にありながら、そういう稚気がいつまでも抜けない父なのである。


 なるほど、己の才を天下に示したいという欲は、武人ならば持っていよう。あの竹中半兵衛でさえ、若き日には主君の居城を小人数で乗っ取ってみせ、天下をあっと言わせたのだ。長政自身にも、そういう思いはあるし、だからこそ関ヶ原では智恵も武勇も人一倍示してみせたのだ。


 だが、父のような稚気は、これからの世においては危うい、と長政は危惧している。いや、既に父はそれで痛い目を見ているはずなのだ。


 太閤の天下取りに大いに功績がありながら、中央から遠ざけられ、与えられた封土はわずか表高十二万石。太閤の親族である加藤主計頭清正はともかく、小西摂津守行長や治部少輔にすら劣るのである。


 人一倍才を誇示してしまったがゆえに、太閤にすら恐れ憚られたのだ。


「儂の次に天下を取るのは、あのちんばめだ」


「あやつに百万石も与えてみよ、天下を取られてしまうわ」


 その「太閤に恐れられた男」という名誉と引き替えに、得られた封土は少なかったのだ。


 だが、今や黒田家は五十二万石である。それを成したのは、彼、長政なのだ。


 今まで、父はむしろ自らの軍才と稚気を受け継いだ愛弟子、後藤又兵衛をこそ寵愛していた。もとより実子である長政も愛されているとは思っている。だが、父が本当に気に入り、才知を認めているのは、その軍才を華麗に披露する又兵衛の方である事も骨身に染みて分かってしまっていたのだ。


 しかし、今度こそ己の才知を認められる。長政はそう確信していた。


 だからこそ、父と対面して、己の功績を得々と語れることが嬉しかった。


「内府は、それがしの手を三度も押し頂き、末代までも決して粗略には扱わじとおおせられました」


 あの猜疑心の強い内府から言質を取ったのだ、と長政は誇ったのである。もとより、権力者の言葉など頼りにはならない。誓紙すら反故になることはざらである。


 それでも「綸言汗の如し」ということもあるのだ。まったく無駄にはなるまい、と長政は考えている。


 だが、官兵衛は苦り切った顔を見せて問い返した。


「その手はどちらの手だったのだ?」


 質問の意図が分からぬものの、長政は答えた。


「右手でございますが?」


「その時、そなたの左手は何をしていたのだ!」


 そう叱責するように言って、正面にいる長政にだけ分かるように、ニヤリと片頬をゆがめてみせた官兵衛。


 その言葉の意味が分かって、一瞬、長政は憤激した。


 もちろん、自分を捨て殺しにして己は天下を狙うのか、という風に解釈したのではない。そこまで情のこわい父ではないと分かっている。だから、諧謔だとは分かる。そして、その裏の意味は大きい。


 初めて、認めて貰えたのだ。そなたは、天下人の死命を制したのだ、と。


 だから、感激はあった。感慨もあった。


 だが、それ以上に、その発言に腹が立ったのだ。


 官兵衛とて、まだ天下に手をかけていた頃の太閤の帷幄にあって、その最大の敵である徳川家康を調べ尽くしているのである。その猜疑心の深さは、よく分かっているはずなのだ。


 だから、こうした発言が、どれだけ黒田家を危うくするか理解しているはずなのである。


 にもかかわらず、なお己の才知を誇り、世人に「さすが黒田官兵衛、天下を狙っておったか!」とさせるような言動をとってしまう官兵衛の稚気に、憤激したのだ。


 危うい。こうした言動を繰り返していては、いかに自分が恭順の意を示しても、黒田の家は将来的に潰されかねぬ。そう思った長政は、たった一言、官兵衛にだけ聞こえる声で、釘を刺すことにした。


「そのような事をおおせになるから、父上は十二万石止まりだったのですぞ!」


 それを聞いた官兵衛は、一瞬、何とも言えぬ憮然とした顔になり、次の瞬間に呵々大笑した。


 さすがの官兵衛も、己の負けを認めざるを得なかったのである。


 黒田官兵衛は関ヶ原の四年後に死んだ。その没後、長政は後藤又兵衛を追放し、「奉公構ほうこうがまえ」にかけて他家に仕官できないようにする。


 又兵衛が父から受け継いだ軍才と稚気が、偃武の時代においては黒田家を危うくし、また仕官した他家にも害をなすであろうと危惧したからのことであったが、世間は己よりも父親に愛された又兵衛を妬んでのことだろうと噂した。


 長政はそれを否定しなかった。


 結局、又兵衛は大坂の陣において己の軍才を天下に示して討ち死にした。それを、長政は留守居役をしていた江戸で聞くことになる。最後まで家康の猜疑心を解くことはできなかったのだ。


 それでも、黒田騒動などの危うい事態が起きたり、長政の血筋は途中で絶えて何と徳川家から養子を迎えたりもしたものの、福岡藩黒田家は明治維新まで無事に存続することができた。


 最後に笑ったのは、誰であろうか?

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