第4話
あれからもう四十年近くが経つ。
奇しくも、正一郎が亡くなったときと同じ年齢、五十六歳だ。
正己は手に馴染まない硬球の革の感覚に戸惑いを覚えた。もしやと思ったが、何のサインも書かれていなかった。
これはいったい何なのだろう。
自分自身に問いかけるが、まったく思い当たる節がない。
一瞬、義正のものかとも思ったが、野球はおろか、およそ躰を動かすこととは程遠い生活をずっと送っている。
不可思議な気分を持て余しながら、テレビ画面を視界に入れた。
映像は最近のものではなく、過去の傑作選に切り替わっていた。
熱を帯びた口調は今とまったく変わらないが、髪型や服装、映像自体はかなり古いものだと知れた。
とりあえず、硬球をテレビの上に置いてみた。懐かしさを差し引いてもなかなか悪くないように思えた。ようやく物思いから醒めた正己は、落ちていた箸を拾って椅子に座った。
顔を上げた瞬間、驚愕に素っ頓狂な声を放っていた。
「親父?!」
画面いっぱいに映し出された顔。元気な頃の正一郎が映っている。
正己は呆然となって、照れ臭そうに頭を掻く父親に見入っていた。
オーバーな身振り手振りで、正一郎は熱くしゃべり続けた。物真似まで織り交ぜる熱の入り方に、周囲にはいつのまにかギャラリーが集まり、拍手まで沸き起こった。いよいよ調子に乗った正一郎は、インタビュアーからマイクを強引に奪って、周りに手を振って応えた。
そして「近い将来、凄い選手が現れる」と神妙な面持ちで告げた。
わずかな沈黙の後、正一郎は「それは俺の息子だっ」と大声を張り上げた。それまでの空気が嘘のように、白けた雰囲気が濃く充満した。父親一人だけが上機嫌だった。
長年の疑問が氷解した。
額に手を当てて、上目遣いにあの頃の正一郎に苦笑を向けた。
「あのとき見せたがってたの、これかよ」
正一郎が元気な姿で動き回っている。何にも頼らず、自分の力で、一人で楽しそうにしゃべっている。
予想だにしない再会に、気づくと、涙がこぼれていた。
物音に驚いて振り返った。台所に義正が立っていた。
麦茶の入ったグラスを口にあてがったまま、テレビ画面を凝視している。驚きに見張った眼が正己にも向けられた。
「そっくり……」
慌てて目尻の涙を拭い、自然なふうを装って説明する。
「そりゃそうだ。俺の親父だからな。義正のじいちゃんだ」
返事はなかった。似ていることに驚いているのか、テレビに映っていることに驚いているのか。見開いた眼のまま、テレビから視線を切らない。
「しゃべり方とか声とか、ほんと父さんそっくり」
思わず、真正面から義正を見つめていた。
ここまで感情を表に出す義正を見たのは、ずいぶん久しぶりのことだった。こんなふうに自然に会話するのは、もっと久しぶりな気がする。
声に出さずに喜びを噛み締める。
父さんと呼ばれたのはいつ以来のことだろう。そんなことで喜びを感じてしまうことが情けなくもあったが、それをはるかに上回って嬉しかった。
早口に言葉を継ぐ。
「そんなに似てるか?」
義正がやや興奮した様子で、大きく首ごと頷いた。
画面を見やる。子供の頃はどちらかというと、母親似だと言われることのほうが多かった。年を経るにつれ、風貌も自然と正一郎に似通っていったのだろう。
なにせ、野球の話に関してはまったく同じ感性を持っていたのだ。
「父さんの野球好きは、おじいちゃん譲り?」
と、正己の心中を察したかのような口調で、義正が尋ねた。病室で熱く語り合った時間が、脳裏に鮮明に呼び起こされる。
「ああ、そうだ。あんまり話したことがなかったかもしれないな。親父は熱烈なプロ野球ファンだった。小さい頃ナイターに連れて行ってもらってな。球場は『涙と汗の宝石箱』だって教えてくれた。それで一発で虜になったんだ」
義正は画面の中で動く正一郎を眺めながら、「ふうん」と感心するようにつぶやいた。調子に乗って、さらに言葉を継ぐ。
「一度、会社を辞めるなんて突然言い出してな。会社の連中とはやってられんなんて言って。あのときはびっくりした。そんなときでも、ゲームが始まると、テレビの前にかじりついて応援してたな」
「熱いとこがある人だったんだ」
「そんなにカッコいいもんじゃなかったがな。普段は温厚なやさしい人だった。ただ、純粋に野球を愛していた」
「やっぱ似てる。父さんに」
思わず、まじまじと義正を見つめていた。いつも通り内面が窺い知れない顔で、麦茶を飲んでいる。
正己は脱力して椅子に座り直した。わずかに残ったウーロンハイを見つめる。
どうしたわけか、普段と同じぼそぼそと聞き取りにくい義正の声や口調が、不思議と嫌ではないのだ。
もしかして、
「それなに?」
義正が少し落ち着きを取り戻した面持ちで、正己の手元を指差す。
「硬球だ。当たるとかなり痛いぞ」
「そうじゃなくて。なんか書いてあんじゃん」
「えっ」
怪訝な声を発して、ボールを回転させた。
唖然となった。
そこにはかつて眼にしたとこのあるサインが薄れることなく、しっかりと書かれていたのだ。
不意に、正一郎の輝きに満ちた顔が思い出された。
義正と眼が合った。
前触れなしに硬球を放った。弧を描いたボールを、義正が慌てて受け取った。
「モリシゲのサインボールだ。といっても、義正の世代じゃ知らないだろうな」
「伝説のスリークォーター投手でしょ。知ってるよ」
「驚いたな。父さんが子供の頃活躍してた選手だぞ」
「最近はまってるネットゲームの隠れキャラにいるんだ。それでちょっと調べたことがある。絶対打てないよ、あれ」
「偉大な投手だったからな。しかし、打てないわけはないだろ」
「絶対に打てないんだって。いろいろ試したんだから。ネットでも話題になってる。バグなんじゃないかって」
一瞬ためらったが、すぐに問い返した。
「バグってなんだ?」
「プログラムの致命的なエラーのことだよ。わかりやすくいうと――小木曽いるでしょ?」
「ああ。日本を代表する長距離バッターだ。調子の波が激しいが、来年あたりメジャーに挑戦するんじゃないか」
「うん。その小木曽がひたすらヒットしか打たない。内野安打とか、せっこいヒットばっか」
「そりゃあおかしい。データに誤りがあるんだろ。内野安打にするくらいなら潔くアウトになるぞ、小木曽は。生粋のホームランバッターなんだから」
「そういうこと。データの誤り。それがバグ」
「なるほど」
正己は素直に感心していた。ろくに会話もできないとばかり思っていたが、なかなかどうして、正己にわかりやすいたとえを用いて、実にうまく説明してみせる。
はっと胸を衝かれた。
同じだったのではないだろうか。
発端は何だったのかは、咄嗟には思い浮かばない。しかし、何かきっかけになるようなことを正巳が仕出かし、それが原因で意固地になって、会話を拒んでいたのではないだろうか。
かつての、父、正一郎と自分のように。
何かきっかけがあれば、こんなにも簡単にわかりあうことができていたのだ。
さりげなく、義正の顔を見つめる。真正面から目線がぶつかった。小さい頃はよくあんな顔でまっすぐ見つめてきたものだ。
何を話してくれるのだろうと、期待に満ち溢れた眼差しで。
正己は胸を張り、声に自信を漲らせて言った。
「モリシゲは今でも俺の中で歴代最高の投手だ。簡単には打てないだろうな。けど――打てる方法はある」
「僕だってそうだよ。大好きな選手だ。だからこそ打ち崩したい。けど打てないんだ」
腹の底から、喜びが込み上げる。
インターネットの中の野球ゲーム。
狭い原っぱで泥まみれになったあの頃とは時代が違う。
懸命に探すのは、草むらに紛れたボールではなく、打てない投手の攻略法だ。時代の流れだ。仕方ない。
しかし、正一郎から受け継いだ〝野球〟という絆は、義正との間にもつなげることができそうだ。
正己は声をひそめて言った。
「教えてやろうか」
大きく息を吸ったところで、義正は口を閉じた。また否定してくるかと思ったが、正己の表情から何かを読み取ったのだろう、わずかに眼に力を込めて、真剣な表情で続く言葉を待っている。
正己は束の間眼を閉じて、正一郎と語り合った時間を、より正確に思い出すよう努めた。
再び眼を開けた。
あのときの濃密な時間が義正との間にも横たわっている。
サインボールを見つめながら、一語ずつはっきりと言った。
「モリシゲの決め球、高速カーブ、今で言うスライダーな。投球数が奇数のときしか投げない。そして三球目のときは、ぎりぎりでボールになる。これを狙いにいけ」
「そんなデータ聞いたことない」
「いいから試してみろって。俺と親父がテレビにかじりついて調べたんだ。そのゲームが本物のデータに基づいて忠実に作ってあるなら、絶対にそうなってる」
「でも、ボール球なんでしょ」
「だからこそだ。わざとボールにする球に力はない。当たればすっ飛んでく」
義正は口元に拳を当てて、考え事に沈んだ。やがて、まっすぐな視線を向けて言った。
「わかった。試してみる」
正己は
CMが流れており、そこにはもう正一郎の姿はなかった。妙に照れ臭くなって、正己はグラスをあおった。
「このサインボール、もらっていいの?」
唐突なお願いに、正己は少し面食らった。義正の顔を凝視する。本気で言っているようだ。ぶっきらぼうに
「構わん。テレビの上にでも飾っとくといい」
「ありがと。でもたぶん置けないよ。今のテレビほっそいし」
軽く微笑みながら義正が踵を返した。そんなところにも時代の差があったとは。
その背中に声をかける。
「なあ」
義正は華奢な背中越しに振り返った。
とっさに頭に浮かんだのは、いつもの小言だった。だが、その手に握られたボールが視界に入った途端、まったく別の言葉を発していた。
「今度……キャッチボールしないか? 最近躰がすっかり
気恥ずかしくなって、余計な言葉まで付け足してしまった。
短い沈黙。義正は正面に向き直って、歩を進めた。かすかな声が届く。
「別にいいよ」
肯定なのか否定なのかわからない。問い質そうとして、思い留まった。 右肩をぐるぐると回す後ろ姿。かつての自分がそこにあった。
正一郎にキャッチボールを誘われるたびに、正己もああやって肩を回したものだ。
様々な言葉が胸に溢れた。想いが渦巻いて、こぼれ落ちそうなほどだ。
義正の部屋の扉が閉ざされた。緩みそうになる頬を抑えた。目映い光が目蓋の裏で跳ね、土の匂いが鼻の奥で爆ぜる。
この近辺に、気兼ねなくキャッチボールができる広い場所はあっただろうか。まあいい。いざとなったら、義正にネットで調べてもらおう。
そう考えると、やはり正己の口元は堪えきれず、にやけた。
椅子をやや引いて、半身になって座り直す。
そして何度も肩をぐるぐると回した。
But Base Ball 庵童音住 @namegame1114
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