第3話

 正己の最初の記憶は〝メガホン〟だった。

 黒地にオレンジのそれは、あまりに激しくぶつけ合うために、腹の部分の色が剥がれ落ちてしまっていた。いつもテレビの上に左右一本ずつ、まるでアンテナのように飾ってあった。


 正己の父、正一郎しょういちろうもまた熱烈なプロ野球ファンだった。

 帰宅した途端、テレビを点け、着替えを済ませて居間に戻り、メガホンをかたわらに置くと、後はひたすらテレビ画面を眺めていた。ワンプレイごとに一喜一憂し、見ているこちらが疲れてくるほど、大きな声を張り上げ、必死になって応援していた。

 まだ野球にあまり興味がなかった正己を、正一郎は無理やりナイター観戦に連れ出した。巨大な球場を目の当たりにして、正己はただ圧倒されてしまった。肩を組んできた正一郎が、グラウンドを指差して自慢気に告げた。

「見ろ。汗と涙の宝石箱だ。眼に染みるだろ」

 巨大なナイター照明に照らし出された土と芝生は、宝石箱という表現がぴったりだった

 外野席から見た選手たちは米粒ほどの大きさでしかなかったが、球場全体を包む、うねるようなエネルギーに全身が震えた。正己は一発でプロ野球の虜になった。

 それからは文字通り、毎日のようにナイター中継を観戦した。

 二人でメガホンを打ち鳴らした。チームの奮起に一喜一憂しては、正一郎と熱く語り合った。なかなか攻略できない相手投手に憤慨して、二人でチラシの裏に投球データを取り、細かく研究したこともあった。


 小学四年生のときに、地元の少年野球に入った。正一郎もコーチとして参加した。こつこつと努力を続けて、六年生のときにファーストのレギュラーを勝ち取った。中学校に入ってからも迷わず野球部を選んだが、レギュラーにはなれずじまいだった。

 最後の夏の大会が終わると、受験勉強へと頭を切り替えた。

 かねてから、高校野球の名門私立高校へ進学したかったのだ。夏休みを返上して、正己は毎日勉強に明け暮れた。

 正一郎も手放しで喜び、正己を応援してくれた。合格祈願だと、真っ白な硬球をプレゼントにもらった。高校生からは軟球から硬球に代わる。それは正己にとって、野球の象徴とも言うべきものだった。

 硬球はテレビの上に置いた。

 プロ野球の中継が始まると、正一郎はメガホンを、正己は硬球を握り締めて観戦した。


 その年のペナントレースも終わり、気が抜け切った頃、それは起こった。


 帰宅した正一郎が、居間に入るなり、背広を畳に向けて脱ぎ捨てた。そして固い声で告げた。

「会社辞めてきた。あんな能無しな連中とは一緒に働けん」

 束の間の沈黙の後、母親が呆れたように笑った。冗談だと思ったのだ。 しかし、それ以上説明をしようとしない正一郎に不安を覚えたらしく、真剣な声音で問いつめた。正一郎は同じ台詞を繰り返すだけだった。場の空気が急速に尖っていった。

 母親から自分の部屋に戻るように告げられた。正己は素直に従った。部屋を仕切るふすまを閉めた途端に、言い争いが始まった。狭い団地の中だ。襖一枚で遮られるわけもなく、激しくぶつかり合う声が筒抜けだった。居間を通り抜けるのが嫌で、風呂はおろかトイレにも行かずに、その日はそのまま寝てしまった。

 威勢のいい啖呵たんかを切った正一郎だったが、会社を休んだのは三日だけだった。

 その次の日からは普通に通勤した。元々が勢い任せの行動だったのだろう。母親から離婚も辞さない覚悟で諭されて、すぐに我に返ったらしい。

 だが、会社での地位が一気に下落してしまったことは、覇気をすっかり失った様子から容易に察せられた。ずいぶん後になってから、給料も大幅に下げられたことを知った。

 正己は自分の身には関係してこないと、完全に高をくくっていた。

 しかし、いよいよ受験まで後わずかという段になって、両親から深刻な話を打ち明けられた。

 狙っている私立高校では授業料を払えない。

 だから、金のかからない県立に志望校を変更してほしいと。


 猛反発した。

 高校野球、そしてプロ野球へ。それは小さい頃から憧れてきた夢だ。

 そのために何もかもを犠牲にして、必死になって勉強してきたのだ。 

簡単に諦められるわけがなかった。そのことは両親だってよく知っているはずだった。

 正己はバイトでも何でもするから受けさせてほしいと懇願した。

 だが、高階家の家計は予想をはるかに上回って逼迫していた。

 正己の必死の願いは聞き入れてはもらえなかった。

 その日を境に、正一郎との会話が急激に減っていった。

 元はと言えば、正一郎の浅はかなな行動が招いた結果だった。

 子供の人生を狂わせたのだ。

 なんという短絡的な人間だと、軽蔑しきった目線を向けるようになった。

 結局、正己は県立高校にも受かることができず、滑り止めの高校に進学することになった。すっかり捨て鉢になってしまった。やり場のない感情が、より一層、正一郎への嫌悪感を駆り立てた。責任転嫁していると心の片隅でわかってはいたが、半ば意地になって許すことはしなかった。


 両親は高校進学を喜んでくれた。進学祝いのプレゼントを訊かれたので、自分の部屋に置くことができる小型テレビを希望した。

 これまでずっと、正一郎と一緒に応援し続けてきたナイター観戦。

 それがわずらわしいことに思えたのだ。

 要求は通った。メガホンと一緒に飾られていた硬球は、自分の部屋の真新しいテレビの上へと移動させた。

 ナイターが始まると、正己はそっと席を立って自分の部屋へと引っ込んだ。そして一人で観戦した。時折、居間からメガホンがガンガンと叩き合わされるにぎやかな音が漏れ聞こえてきたが、以前に比べると、その回数も音も寂しいものになっていた。


 高校でも野球部に所属した正己だったが、中学のときのような熱意は完全に失ってしまっていた。絶対にレギュラーを獲得してやるといった気概は薄れ、仲間たちと楽しく過ごせればいいという気楽な感覚になっていた。

 理由の一つには、野球部自体がそれほど厳しくなく、アットホームな雰囲気だったこと。

 もう一つには、やはり正一郎との間にできた溝が影響していた。

 わだかまりが自分の中に根強くあり、妙な反発心から、真剣に野球に打ち込むことができなくなっていたのだ。


 そんなある日、正一郎が珍しく正己の部屋を訪れてきた。

 事務的な会話しか交わさない関係になって、すでに一年が過ぎていた。

「ちょっと来い」

 硬い表情で短くそう告げられた。正己は無言でその背中に続いた。

 居間のテレビで天気予報が流れており、しばらく雨が続くと告げていた。この季節は仕方ないと、正己は立ったままぼんやりと考えていた。

 母親は夕飯の準備をしている最中だった。何の話なのだろうかと内心でいぶかしんだが、父親はテレビを見つめるだけで口を開こうともしなかった。聞こえよがしにため息をついてみせたが、反応はなかった。諦めて椅子に座った。

 そこであることに気づいた。テレビの上に硬球が飾ってあったのだ。

 一瞬、自分の部屋のものかと疑ったが、出てくる寸前まで置いてあったのを確認していた。よく見ると、真新しさは同じだったが、何かが書かれていた。

 振り返った正一郎が、正己の視線に目ざとく気づいて笑った。

「モリシゲのサインボールだ」

 モリシゲは正一郎が好きな選手の愛称だった。

 日本には珍しいスリークォーターの投手で、正一郎が愛する球団の絶対的守護神だった。気迫溢れる投球は、正巳の眼にも格好よく映った。

「すごいだろ。仕事の取引先に球団の関係者がいてな。お願いしてみたら、快く引き受けてくれたんだ」

 立ち上がった正一郎が硬球を手にした。縫い目に沿って三本指でしっかりと握り込んだ。久しぶりに父の無防備な笑顔を見た。

 正己は感心していたが、それほど好きな選手のものではなかったため、頷くに留めた。そんな態度に拍子抜けしたのか、正一郎は黙って硬球をテレビの上に戻して、再びテレビ画面に向き直った。また静寂が訪れた。

 サインボールを自慢したかっただけかと、気を抜いた瞬間―。

 突然、足元が激しく揺れた。無意識に天井を見上げた。電気の紐が円を描いて揺れていた。食器棚のガラスが耳障りな音を立て、家全体がぎしぎしと軋んだ。


 地震――それもかなり大きなものだった。


 母親が小さく悲鳴を上げた。正一郎が火を消すように大声で怒鳴った。 数秒で収まったが、しばらくは揺れ続けているような錯覚に陥っていた。

 程なくして、テレビ画面にテロップが流れた。震度は4だったが、震源地が近かった。それを機に、やっと落ち着いた雰囲気が戻ってきた。

「久しぶりにでかいのがきたな」

 苦笑する正一郎を一瞥して、正己は席を立った。自分の部屋の様子を確認するためだった。だが、強い声音に引き留められた。

「まだだ。もう少し待ってくれ」

 懇願する口調に、思わずその顔をまじまじと覗き込んだ。

 笑っているような、怒っているような、形容しがたい表情だった。

 何か言葉を返そうと息を吸い込んだ。

 唐突にテレビ画面が切り替わった。地震に関する特別報道番組だった。

 次の瞬間、正一郎がすばやい動きでテレビの前に張りついた。

 テレビ本体をがっしりとつかんで、画面に向かって大声を放った。

「ふざけるなっ。ちゃんと放送しろっ」

 本気で憤っていた。正己は怪訝な思いで父親の言動を見つめていた。

 普段からは考えられないほどの激昂ぶりだった。

 右腕だけにさっと鳥肌が立った。見てはいけないものを見てしまったような息苦しい気分に陥った。

 もしかしたら、この人の心のどこかは、取り返しのつかないほど壊れてしまっていたのではないか。そんな思いすら抱いた。

 いたたまれなくなった正己は、静かにその場を離れた。再び背中に声がぶつかったが、無視した。まともに眼を合わせるのが恐かったのだ。


 皮肉なことに、それが最後に見た正一郎の元気な姿になってしまった。


 会社の定期健診で要精密検査の診断を受けた正一郎は、向かった病院で入院を余儀なくされてしまった。一ヶ月もの長期入院で不安がピークに達した頃、正己は母親からようやく病名を知らされた。

 肝臓癌だった。

 母親は気丈にも涙を見せずに、余命一年だと続けた。

 正己は自分でも驚くほど取り乱さなかった。あまりにも現実感が乏しすぎた。正一郎が一年後にはいないという意味が、どうしても理解できなかったのだ。

 本人に告知はしなかった。母親からも自然に振る舞ってほしいと頼まれた。内心、複雑な思いだったが、とりあえず見舞いには行った。限られた時間を無為に過ごすわけにはいかなかった。

 とはいえ、これまで没交渉だった正己が突如甲斐甲斐しく、頻繁に病室を訪れたのでは、正一郎に不信感を抱かれてしまう。会話もろくにしなくなっていた父親と毎日のように顔を合わせるのは、正直、少々気詰まりに感じてもいた。ましてや、日に日に衰えていく姿を目の当たりにして、何気ない態度で接しなければならないのだ。

 様々な逡巡と葛藤を経て、結局正己は一週間に一回程度と決めて、見舞いに行くことにした。


 正己が病室へ現れると、正一郎は必ず開口一番「元気か」と尋ね、「大げさすぎないか」と病室を見回して苦笑した。そして挨拶らしい会話が終わると、決まってプロ野球の話をしたがった。

 言葉少なではあったが、正己は話に付き合った。

 子供の頃以来の野球談義だった。贔屓ひいきにしている球団が同じだということもあって、おもしろいほど意見が合った。投手陣の先発ローテーションに関する意見や、下位打線に対する改革案など、まったく同じ考え方だった。友達との会話では得られなかった高揚感に包まれて、自然と話は盛り上がった。気づけば、よく一緒にナイターを観に行っていたあの頃のように、笑い合って語らっていた。

 翌日、母親から、正一郎が相当嬉しがっていたと聞かされた。

 正己と感じていたのと同様に、野球に対する考え方がまったく同じでびっくりしたとも言っていたらしい。なんとなく気恥ずかしくなって、無愛想な返事をすると、「喜びの感情を表に出すのが苦手なところもそっくり」と揶揄やゆされた。

 いつしか、正一郎と野球談義をするのが楽しみになっていた。

 それはまるでキャッチボールをしているかのようだった。

 相手が求めているところに正確に投げ、思っていた通りの場所に返ってくる心地よさがあった。

 この楽しい時間がずっと続くといいのに。

 正己は病室を後にするたび、心の底からそう願った。


 一年はあっという間に過ぎた。

 正一郎は全身を管で貫かれ、まるで植物のように、静かにそこにあるだけの存在と化していた。病人特有の据えた臭いだけが、かろうじて生を主張していた。正己は次第に近づきつつあるそのときを覚悟しつつ、見舞いのペースを守り続けた。


 母親が不在のときは、正己が食事の補助や下の世話もするようになった。そうすることが当たり前のように感じられたとき、正己は正一郎と本当に仲直りをしたと思った。

 ついには自分のことが何もできなくなってしまった正一郎に対して、純粋に感謝の気持ちでいっぱいだった。高校入学に際して不快な思いもしたが、心底嫌いになったことは一度もなかった。


 なぜなら、二人の間には、いつも野球があったからだ。


 痩せ衰えた枯れ木のような細い足首に触れ、一度だけ衝動的に涙がこぼれてしまった。はなをすすりながら、正一郎と来年のペナントレースについて語った。冬でよかったと正己は思った。

 懸命に病と闘った正一郎は、正己の高校卒業まで生き抜いてみせた。

 卒業証書を病室に持っていった正己に、正一郎は細くとも、はっきりとした笑顔を浮かべた。そして卒業祝いに、モリシゲのサインボールをやると告げた。入院してからは、ずっと病室の中のテレビの上に飾ってあったそれを、正己は笑顔で受け取った。

 モリシゲはいまだに現役で頑張っていた。それが正一郎にとって、心の支えになっているらしいことは、ずいぶん前から気がついていた。

 正一郎はモリシゲの今シーズンの活躍を振り返って、「どうだ。やっぱりすごいだろ」まるで我が事のように自慢気に語った。

 痩せ衰えたその表情と、あまりにもか細い声に、正己は一瞬我を忘れて泣き出しそうになった。奥歯を食い縛って耐えた。生きるという強い意志を放ち続ける正一郎のくぼんだ眼に向かって、一語一語はっきり伝わるように告げた。

「親父のほうがすごいよ」

 静かに微笑した正一郎が、布団の下から左腕を覗かせた。意を汲んで、その手を両手でしっかりと握り締めた。骨だけになってしまったかのような薄い手の平を、正己はいとおしく感じた。

 ふと、言葉が口をついて出ていた。

「今度、グローブ持ってくるよ。外に出てキャッチボールしよう」

 正一郎の左手に力が込められた。正己は精一杯の笑顔を作って、「看護婦さんにバレないようにしなきゃな」と続けた。

 それが正一郎との最期の会話だった。


 翌日の早朝、保っていた容態が一気に悪化した。急いで病院に駆けつけたときには、懸命に命であり続けようとした淡い灯火ともしびは掻き消える寸前だった。

 正己は母親とともに、心を乱すことなく、正一郎を見守った。

 もう何も望まなかった。ただ、大好きな父親を見守った。

 そして、日の出を待つことなく、正一郎その生を静かに終えた。


 

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