第2話

「義正のやつ、昼間はなにやってんだ?」

「寝てるんじゃないかしら。私がパートに行く頃までに起きてきたことなんてないわね」

「十一時近くまでは寝てるってことか。今はバイトもしてないんだろ。無理やりでもいいから叩き起こせ」

「あの子の寝起きの悪さを知らないでしょ。すごい剣幕で怒鳴りつけてくるんだからね」

「自分が寝坊しているのが悪いんだろうが。よし。もう一度呼べ」

「今はやめといたほうがいいわよ。一回ああなっちゃうと、なに言ってもダメ。誰かさんによく似て頑固だから」

「だからって、言わなきゃ伝わらんぞ。ずっとあんなままでいいのか」

「タイミングも大事なのよ。変に刺激するのは逆効果。必要なのは説教じゃなくて会話よ」

 的を得た指摘に、正己は一瞬うろたえた。内心を見抜かれないよう声に力を込める。

「お前。そんな悠長なこと言っていられる状況か? もう何年引きこもってると思ってるんだ?」

「義正は普通に外に出てバイトしてるじゃないの。別に引きこもってるわけじゃないわ」

「俺から言わせればどっちも変わらん。ニートなんて引きこもりみたいなもんだ」

「そんなふうになんでもかんでも決めつけるところが、義正と合わないのよね」

 含みのある言い方に腹が立った。反論しようと顔を上げると、陽子の訴えるような目線とまともにぶつかった。続けようとしていた言葉が、喉の奥に引っかかって止まる。

「私はあなたよりは、あの子と一緒にいる時間が長いから、少しはわかってるつもり。……悩んでるんだと思う、義正」

 予期しない言葉に戸惑いを覚えた。短く問い返す。

「何にだ?」

「自分の将来のこと」

「なんだ? あいつ、職に就く気はあるのか」

「どうもゲームの関連会社に就職しようとしてるみたいなのよね。いくつか大手の会社に資料請求してるし」

「ゲームだと?」

 正己はほとんど無意識に声を荒げていた。

 今やゲームは、正己がこの世でもっとも忌み嫌う対象になっている。

 街を歩けば、ハンディポータブルのゲームをあちこちで見かける。電車の中で、待ち合わせ場所で、しゃべりながら、飲み食いしながら。友達と会っているときでさえ、手放さない。自分だけではなく、他者との共有空間でもあるのだ。外に出てまでゲームに没頭するその神経が、正己には微塵も理解できなかった。


 つい先日のことだ。

 若者と擦れ違う際、肩が思いきりぶつかった。いっそのこと怒鳴りつけてやろうと思ったが、些細な言いがかりが原因で物騒な事件に発展する最近の風潮が、ふと頭の中をかすめた。かろうじて我慢して、肩越しに睨みつけるに留めた。

 すると、向こうも正己のほうを見つめてきていた。

 寝癖のまま出かけてきてしまったような絡み合った髪。黒縁眼鏡。どこにでもいそうな風貌の若者は、感情が読み取れない眼つきのまま、わずかに口角を持ち上げた。そして手にしていたゲーム機をおもむろに耳に押し当てた。

 ゲーム機だとばかり思っていたそれはケータイだったのだ。

 やがて正己を見つめたまま、若者は相手としゃべりはじめた。

 聞こえよがしのその内容に、正己は心の底から戦慄せんりつした。

 すぐに仲間集めろ、調子こいたおっさんをやっちまうぞ、などと口走っているのだ。相手に対して説明しているそのおっさんの特徴は、どう聞いても、正己自身のことだった。

 怒りも忘れて踵を返した。足早にその場から立ち去った。背中に嘲笑が当たった。周囲から好奇の目線を浴びせられている気がして、全身が熱くなっていた。

 気味が悪かった。メディアが報道している『現実とゲームの世界の区別がつかない』とはこういうことかと思った。

 義正はよりによってそんな業界で働こうとしているのか。

 就職活動をしていることは喜ばしいことだが、ますます感情が閉じられてしまうのではないだろうか。

 形容しがたい感情を持て余して、正己は一息に言葉を吐き出す。

「ゲーム会社なんてまともな就職先とはいえんぞ。一日中ゲームをして金がもらえるのか? そんなのバイトの延長みたいなもんだろうが」

「そういう反応すると思った。ニートはダメで、好きなゲーム関連の会社に就職するのもダメ。それじゃあ、義正はどうすればいいのよ?」

「真っ当な職につけばいいじゃないか」

「あなたのいう真っ当ってなに? サラリーマン? 公務員?」

「そうだ。サラリーマンも公務員も、世間様に顔を向けて恥ずかしくないじゃないか」

「それが真っ当っていうことなら、ずいぶん古い感覚だと思うわよ」

「なにをっ?」

「あなただって、小さい頃は夢があったでしょう」

 唐突に問われて、正己はふと感情の行き場を見失った。

 代わりに、懐かしい思いが記憶の奥底から甦る。


 太陽の熱視線。蒸れた熱気。拭っても拭っても流れる汗。砂埃。かけ声。歓声。グローブ。革の臭い。バット。響き渡る金属音。

 ――青空に吸い込まれていく白いボール。


「義正は今、ようやく見つけた自分の夢を叶えようとしているところなんだと思うわよ。私たちの時代とは違う、今の時代に見合った夢をね。それを頭ごなしに、一方的に抑えつけられちゃ、あの子もおもしろくないって感じるかもしれないわよね」

 義正のことをよく理解しているのは私のほうだ。暗にそう言われているようでおもしろくなかった。

 だが、返す言葉が思いつかなかった。

 陽子は基本的には夫を立ててくれる控え目な性格だ。だが、子供の教育に関しては、折に触れて自己を主張してくる。

 母親だからこそ知りえる情報を武器に、正論をかざしてくるものだから、たいていは正己が言い負かされる。はっと気づかされることもあり、反省もする。

 正己としてもこのままでいいとは思っていない。

 機会を設けては、話し合いを試みてきたつもりだ。ところが、義正の反応は常にないに等しい。それでも忍耐強く穏やかにに話しかけるのだが、あまりの手応えのなさに、結局は腹を立ててしまうのだ。

 もう何年も、まともな会話をしたことがない。

 隙間なく張られた殻は分厚く、もはや中身が何なのかわからなくなってしまっているほどだ。

 一日をどんなふうに過ごしているのか。

 今一番興味があることは何なのか。

 夢はあるのか。悩みはあるのか。

 何がしたいのか。何がしたくないのか。

 どんな質問をしたとしても、無表情に首を傾げるイメージしか思い浮かばない。縦なのか横なのかも、よくわからない。


 静かにため息をついて、ウーロンハイに手を伸ばした。グラスの縁を眺める。晩酌の時間も量も、少しずつ減ってきている。息子のことをおもんぱかっては、苦々しい思いとともに焼酎を飲み干す。

 そんな酒がうまいわけがない。

「あっそうそう。来月、おばあちゃんがこっち来るから」

 押し黙っていた正己の様子に、さすがに言い過ぎたと思ったのか、陽子はさりげなく話題を変えた。

 正己も声のトーンをやわらかくして話に乗った。

「そんなこと言ってたな。俺たちが行かないものだから痺れを切らしたんだな。去年米寿を迎えたというのに、ますます元気なことだ」

「美和子んとこの佐奈ちゃんの結婚式に出るんだって。たぶん、こっちまで出て来れるのは最後になるわね」

「熊本からは、さすがにきついだろうからな」

「うちに泊めてもいいわよね?」

 陽子は頬に手をやって、吐息混じりに告げた。かすかに眉尻が下がっている。正己はグラスにウーロン茶を注ぎながら答える。

「問題ないだろ。ここを片付ければ、一人分が寝れるスペースくらい作れる」

「そういうことじゃなくて……」

 陽子の視線が子供部屋のほうへと流れる。

 拒絶の意思を示すかのように、扉は閉じられている。

 鍵はついていないが、真夏でもこの扉が開け放たれることはない。プライベートを重んじようと、玄関から直接自分の部屋へ向かえる構造を選んだ。そのことを正己は、少なからず後悔している。


 五十歳のとき、一念発起してマンションを購入した。

 地価バブルが弾け、金利も過去最低と謳われてから、数年が経過していた。熟考に熟考を重ねた末、県道沿いの新築マンションを終の住処に決めた。

 最寄り駅が開発区域に認定されたとの知らせを聞き知っての決断だった。生涯買うことはないと諦めていただけに、感激もひとしおだった。

 しかし、予想と裏腹に駅前の開発は遅々として進まなかった。

 だだっ広い砂地を背に、『駅前開発予定図』と書かれた看板だけが、色褪せていくだけだった。ゆっくりと積もっていった不満と不安は、見ようとしてこなかった現実へと向けられた。

 日当たりが悪い。湿気がひどい。県道を走る大型トラックの音がうるさい。上の階の子供が騒がしい等々。

 一度気になりだすと、止められなくなった。マイナス面ばかりに眼がいくようになっていった。風が通りやすく、夏は涼しいといった利点すら、たいしたことではないと思えてきてしまった。

 ふと、頭の片隅を、何かがノックした。

 義正が塞ぎ込むようになってしまったのも、ここに越してきてからではなかっただろうか。

 当時住んでいた公営団地からは十五分程度の距離しか離れていない。馴れ親しんだ生活区域は変わらないため、義正の交友関係にも影響はない。そんなことを話した覚えがある。確か、義正も無関心を装いながらも、それなら楽だといったような言葉を返してきたはずだ。

 あのときあって、今はないもの。それが原因なのだろうか。


 陽子が、空になった食器を手早く片付けながら言葉を継いだ。

「せっかく遠いところから、わざわざ来てくれるんだもの。リラックスして、楽しく過ごしてほしいじゃない」

「そうだな。わかった。一度、俺のほうからも話しておく」

「あなたにもお願いしているのよ。今日みたいな雰囲気にしないでね」

 反論しかけた言葉を飲み込んだ。作ったばかりのウーロンハイを一息に半分ほどあおった。止めていた呼気に様々な想いを乗せて、大きく細く吐き出す。 

 なぜ、親族が遊びに来るというだけで、気を遣わなければならないのか。それも自分の息子に。

 回りはじめた酔いも手伝ってか、やり場のない憤りが増幅していく。

「義正も、小さい頃はおばあちゃん子だったんだけれどね」

 陽子は微苦笑を添えて、そんなことを言う。

 ひょうきんな仕草で義母を笑わせる、幼少の頃の無邪気な義正の顔が脳裏に浮かんだ。熊本の実家の軒先ではしゃぐ半ズボン姿の義正と、号泣している写真とが、数枚残っていたはずだ。

 低い塀の上でバランスを取って遊んでいたら、誤って落下してしまったのだ。義母が少しも慌てることなく、庭先で栽培していたアロエの葉を、義正の膝の擦り傷に当てた。

 その行為を義正が心底不思議そうに眺めていたことをよく覚えている。

 その日の晩、興奮して「魔法だ魔法だ」とはしゃぎまくっていた。傷口があっという間に塞がったためだった。


 手にしたグラスをくるくると回した。遠心力で小さくなった氷が回転する。

 義正と一揉めした後はいつもこうなる。腹立だしい思いとは裏腹に、小さい頃の無邪気な義正のことばかりが思い出されるのだ。

 そう言えば、写真もずいぶん撮っていない。最後に、家族三人で撮ったのはいつだろう。

 覚えているのは、小学生低学年の頃までだ。夏休みには毎年いろいろな場所に出かけていった。それがいつのまにか、義正が友達との約束を優先するようになり、気づけば、会社の休みをやりくりして、計画を練ることもなくなっていた。

 グラスの残りを飲み干した。氷が澄んだ音色を奏でる。

 わずかに刺々しくなった空気を嫌って、正己はテレビのチャンネルをザッピングした。どの番組を見るにしても中途半端な時間帯だった。

 唐突に番組のタイトルが現れた。かたわらに置いてあった新聞を覗き込む。

 ナイター中継になっている。

 改めて画面を見やる。下に、『ナイター中継が早く終わったため、特別番組を放送いたします』と、テロップが流れた。得心した正己はリモコンを置いた。

 いつのまにか陽子もテレビに見入っていた。袋小路に陥っている家庭問題の結論は、いつもテレビという第三者の自然な介入により、一時保留という形で幕を下ろす。


 一人のサラリーマンが映し出された。カメラに向かって、口角泡を飛ばしてまくし立てる。ほろ酔いかげんのサラリーマンでごったがえす、駅前を行き交う熱心なプロ野球ファンにインタビューする、お馴染みの企画だった。

 正己は小学生から高校卒業まで野球をやっていた。

 小さい頃の夢はプロ野球選手。

 ブラウン菅の向こう側には、たくさんのスター選手たちが光輝いてプレーしていた。正己の世代の大半は同じ夢を抱いていたはずだ。

 画面の中で熱く語る連中とは同世代。

 たまにしか見かけないが、まるで我が事のように感情移入できるこの番組が正己は好きだった。

 水色のネクタイを頭に締めた眼鏡の男性がマイクを握って嘆く――「先発陣の不甲斐なさに涙をこぼさずにはいられない」。

 すると、隣から――おそらく面識はまったくない――白髪のこざっぱりとした男性が登場して真っ向から否定する――「クリーンナップを立て直すのが先決だ」。

 正己は腕を組んで、大きく首肯した。

「その通り。強力打線ありきだ。よくわかってるじゃないか。投手陣は遠征の疲れが抜けきってないだけで、調子自体は決して悪くない」

 順位を示すフリップが出された。正己が贔屓ひいきにしている球団は、ペナントレースも半ばを終えて、現在四位。勝率五割を行ったり来たりと、低迷している。かつて栄華を誇ったとは思えない体たらくぶりに、正己の欲求不満も日々募る一方だった。

 白髪の男性がさらに続ける――「明後日からの三連戦が勝負。エースをぶつけて全部勝ちにいく気迫を見せるべきだ」。眼鏡の男性は首を横に振って応戦する――「一勝できればいい。二つ取れれば御の字。巻き返しは来週から」。

 思わず膝を叩いた。小気味よい音が鳴った。

「そうだ。もうすぐ主軸の二人が復活する。今週は戦力温存しとけばいい。元々夏場には強いんだ。一気呵成いっきかせいの反撃も充分あり得る」

 グラスを唇に運ぶ。ふと気づくと、陽子の視線がこちらに向けられていた。心なしか、責めるような色が含まれている。居住まいを正して、ぶっきらぼうな口調で尋ねる。

「なんだ」

「野球の話になると、ほんと人が変わったように饒舌になるなあと思って」

「疲れて帰ってきてんだ。晩酌のときくらい、好きなことしゃべらせろ」

「別に文句言ってるわけじゃないでしょう。……私、先にお風呂済ませちゃうからね」

 そう言って、陽子は立ち上がった。食器を台所に置くと、そのまま寝室へと姿を消した。

 おもしろくない。

 口の中でつぶやいて、乱暴に箸を置いた。勢い余って、落下してしまった。舌打ちをして腕だけを伸ばす。なかなか指先に触れない。椅子を引いて、テーブルの下を覗き込んだ。見当たらない。苛立ちに後頭部をがしがしと掻き毟った。仕方ない。膝をついて、顔を床すれすれに近づけた。

 すると、奇妙なものが眼に留まった。躰を起こして、ソファーの後ろに回った。拾い上げる。


 硬球だった。

 真新しい。まったく身に覚えがない。

 ためつすがめつするうちに、不意にある光景が頭の中に広がった。既視感。汚れ一つない白いボールは、正己を遠い過去へと誘った。


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