But Base Ball
庵童音住
第1話
思いきり頬を張っていた。我慢の限界だった。
怒りに任せて口をついて出た台詞は、陳腐なものだった。
「それが親に対する態度かっ」
真剣に説教をしていた。しかし、
わずかに痺れの残る手の平を躰の脇に下ろす。息子の態度にとくに変化はない。何事もなかったように、無機質な視線をまっすぐ向けてくるだけだ。
「ちゃんと聞いてんのかっ。そんなふうに、毎日毎日部屋にこもってばかりじゃ、アキバ系になるぞ」
義正が鼻から短く息を抜き、顔の左半分だけを歪めて器用に笑ってみせた。
「……アキバ系ってなに?」
全身が熱くなった。見透かされている。確かに、最近聞き知った単語をよく意味も知らず、それらしく使ってみただけだ。気恥ずかしい思いを押し殺し、正己は早口に言葉を継ぐ。
「何しでかすかわからない奴ってことだ」
「……じゃないよ」
聞き取りにくいこもった声。営業畑でずっと働いてきた正己にとっては、このもごもごとしたしゃべり方も気に食わない。
「もっとはっきりとしゃべれ。相手に聞こえなければ伝わったことにならんぞ」
「そんな意味じゃないよ。アキバ系って」
「なにをっ」
思わず、また手を振り上げていた。
そこへ水を差すように、電話の着信音が鳴り響いた。
束の間の沈黙の後、陽子が子機を取った。ちらりと時計を見やる。午後八時半過ぎ。こんな時間帯に連絡を寄越すのは陽子の実家に違いない。熊本の農家に生まれ育った妻は七人兄妹の末っ子だ。
案の定、陽子は「なあに、母さん。またこんな時間にかけてきて」と呼びかけた。受話器を隠すように背中を向ける。ため息とも嘆きともつかない息を吐いた。
改めて、義正の顔を正面から睨みつける。
感情というものが削ぎ落とされた奥行きの感じられない顔。
まるで、自分は関係ないとでもいうように、うつむきかげんにテーブルの片隅を見つめている。瞬きもほとんどしていない。
希薄な存在感。何を考えているのか、さっぱりわからない。
つい先日、世間を賑わせた通り魔事件のことが不意に正己の脳裏をよぎった。
悪びれた様子も見せず、無数に焚かれたフラッシュの中を歩いていく二十六歳の派遣社員の姿。
その背景に淡々と述べられた動機――『生きてる感じがしなかったから』。
その言葉に、全身が
そしてはからずも、息子の無表情な顔が思い浮かんでしまったのだ。
生きている感じがしないとは、いったいどういう心持ちなのだろうか。そのために、見知らぬ人を無差別に殺傷してしまおうという考えは、どこから来るのだろう。完全に理解の範疇を超えていた。
眼の前にいる義正に対しても、同じ思いを抱く。
――血のつながった実の息子なのに。
言葉からも、表情からも、何一つ理解することができない。
幼少時、父親そっくりだと誰からも言われた丸顔は、昔と形は同じでも、正巳の眼には、くすみ、歪んで見える。
いつからこんな子になってしまったのだろう。
小さい頃は明るく活発な子供だった。流行りのギャグを披露したり、変な顔を作ったりして、しょっちゅうふざけていた。調子に乗りすぎて、怒られることもしばしばだったほどだ。
昔、よく人に聞かせていたエピソードがある。
電車で家族旅行に出かけたときのことだった。義正が十歳になった夏。電車のドアが開くと同時に車内に駆け込んだ義正が、座席に横っ飛びしたのだ。
そして見事三人分の席を確保すると、寝転んだまま大声で「席取ったよー」と叫んだ。正巳は思わず声を出して笑ってしまった。嬉しそうに破顔する息子を見て、怒るよりむしろ楽しい気持ちになったのだ。
家庭に笑顔の明かりを灯してくれていたのは、間違いなく義正だった。
それが中学を卒業した頃から、口数がめっきり少なくなってしまった。
思春期にありがちな一過性なものだろうと高をくくっていたが、大学を卒業しても昔のような明るさが戻ることはなかった。これといった原因は思い当たらなかった。正己から積極的に話しかけもしたのだが、芳しい反応が返ってくることはなかった。
そして今、義正は世間で言われるところの『ニート』になっている。
再来月で二十六歳になるというのに。心のうちに、苦々しいものが浮かび上がる。
二十六歳の頃といえば、正己はすでに今の会社で精力的に働いていた。
前途洋々とした未来を夢見て、毎日を忙しく過ごしていた。
生きる希望に満ち溢れ、毎日が充実していた。
「お父さん? うん。帰ってきてるけど……」
歯切れの悪い応対に様子を窺うと、陽子が遠慮がちな視線を送ってきていた。
去年義父に先立たれて以来、何かと理由をつけては熊本まで遊びにきてくれと、義母がせがむのだ。
田舎でのんびり命の洗濯という選択肢も決して悪くないとは思う。しかし、腰は重たいまま、かれこれ半年は経っている。いろいろな意味で不安定に見える義正を、一人家に置いていくことに抵抗があった。いっそ一緒に連れて行ければよいが、本人が頑なに拒否することは、火を見るより明らかだった。
手を差し出しながら歩み寄った。擦れ違いざま、義正に告げる。
「とにかく職につけ。働かない奴をいつまでも家に住まわせとくわけにはいかんぞ」
聞こえていないわけはないのだが、義正は返事もせずに、自分の部屋へと戻っていった。反抗的な態度に、正己はまた苛立ちを覚える。
こんなふうに、いつもうやむやなまま終わってしまう。説教すればするほど、義正を覆う殻は、ますます固く閉ざされていく。
受話器を取って、明るく大きな声を放った。第一声はとにかく明るく元気よく。職業病に近い。そんなことを頭の片隅で考えながら、正己は義母の訛りのある口調に耳を傾けた。
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