第二話 始まりの日
まどろみのようなたゆたう浮遊感の中から、すっと意識が覚醒する。
俺は重い瞼を持ち上げると、すっかり見慣れた自室の天井がいつものように自分を出迎えてくれる。
ゆるりと首を傾け、部屋の端にある四角い小さな窓のほうに視線を向ける。純白のカーテンの隙間から一条の光が射し込んでおり、すでに世界は朝を迎えていた。壁時計を見ると、時刻は七時三十分。
「……またやってしまった」
結局昨夜は一睡もせず、向こうの世界に長時間滞在してしまった。一度ゲームにのめり込むと飲まず食わずぶっ通しで丸一日遊ぶことなど、無類のゲーム好きの自分にとっては特に珍しいことでもない。いい加減この廃人まっしぐらの癖をどうにかせねばと思うが、今の
気だるくなった身体をおもむろに起こし、俺は肌触りのいいフローリングに足を下ろす。そして、頭に嵌めた細身の銀環――《サイバーリング》を両手で持ち上げて外す。
乱れた黒髪を整えてから、銀環をベッドサイドテーブルに置こうとしたところでぴたりと手が止まる。
そういえば、ちょうど一年前のこの寒い時期にサイバーリングを購入したことをふと思い出す。荒れ狂う極寒の吹雪の中、発売日の前日から徹夜で近所のゲームショップの店頭に辛抱強く並んでいたのだから、我ながらあの日はよく生きていたなと今更ながら思う。そんなことを忘れてしまうぐらい、帰りの朝は酷く興奮していたものだ。どこの家電量販店や大手通販サイトも初回入荷分は一瞬で完売し、翌日のニュース番組でも大きく話題に取り上げられた。そんなサイバーリングの販売から一年経った今でも、未だに入手困難な状況が続いているらしい。
俺は愛用の銀環をサイドテーブルの上に置くと、ベッドからすっくと立ち上がる。すぐ脇のカーテンを開け、新鮮な光を室内に取り込む。窓は真っ白に結露しており、手でこすると外はまだ一面銀世界でどこまでも雪が積もっている。
ここ北海道釧路市のとある一戸建て住宅から、今日も
俺は壁のハンガーにかけられたいつもの黒い学ランに着替えると、自室を出て階段を下り一階の洗面所に足を運ぶ。トイレを済ませて洗面台で顔を洗い、タオルで拭いて鏡で確認。
少し長めの艶のない黒髪に、どこにでもいそうなごく普通の顔立ち。現実世界の自分は心底嫌いだが、仮想世界の自分なら自然と好きになれる。LAならずっとなりたかった理想の自分に生まれ変わることができるから、今日まで心血を注いであのゲームをやり続けてきた。
ようやく目も覚めてきたところで、俺は次にリビングに移動する。中に入ると、テーブルの上にはいつものように朝ご飯のハムエッグとサラダ、味噌汁がきちんと並んでいた。母が作り置きしてくれたもので、『ちゃんと食べていきなさいね』とご丁寧に書き置きまで添えてある。
電子レンジで料理を温め直し、席に着いて早速いただくことにする。
「いただきます」
現在望月家は、俺と母親の二人で生活をしている。三年前に父が虚血性心疾患のため他界し、今日まで母が単身で自分のことを育ててきてくれた。両親にはもちろん感謝しているし、将来は自分も父親が勤めていた大手ゲーム会社《イノベーター》に就職したいと考えている。
あっという間に朝食を平らげると食器を流し台に運び、俺は鞄を持って急いで玄関に向かう。首にカシミヤの黒いマフラーを巻いて靴を履き、最後に戸締まりを確認して家を飛び出す。
途端、肌を刺すような寒さが全身を包み込む。空は一切の隙間なくどんよりと曇っており、地面は夜間に降り積もった雪で一面覆い尽くされている。
これから向かう場所は近所にある男女共学の公立高校だ。時期は三月上旬の春休み前で、現在十六才の俺は四月から晴れて二年生に進級する。この一年LAにどっぷりはまり込んでしまったせいで学業のほうは壊滅的なレベルで疎かになってしまったが、留年という最悪な結果だけはどうにか免れることができたのだった。
交通量の少ない田舎丸出しの道路沿いを歩いていると、左手には美しく雪化粧された釧路湿原が果てしなく広がっており、タンチョウやエゾシカなどの野生動物が遠くでちらほらと散見される。
通い慣れた通学路を三十分ほど歩き続けたところで、ようやく学校に到着する。今日はいつもより少し早く家を出たので余裕を持って着くことができた。
登校してきた他の生徒たちに入り交じって正門をくぐり、俺は生徒用の昇降口で上履きに履き替える。階段を上り、校舎の三階にある自分の教室に向かう。まっすぐ廊下を突き進むと、突き当たりにある一年一組の教室に辿り着く。
出入り口のスライドドアを開けば、すでにたくさんの生徒たちが賑やかな雰囲気で集まっていた。一瞬こちらに何人かの視線が集まるが、俺の存在など無かったかのようにすぐに再び会話を始める。
「…………」
俺は特に気にすることもなく窓際の一番後ろの席に座り、一限目の用意を淡々と始める。
悲しいかな、皮肉にもここに友達と呼べる人間は自分には一人もいない。残酷なことに、入学初日の時点でクラスのグループがすでに出来上がってしまい、結局今日までどことも馴染めず仲間外れにされてしまった。
中学時代の時から友達とほとんど遊ばず、家に閉じこもって一人でネットゲームばかりし、彼らとの関係を疎かにしてきた。当然友達は周りからどんどん離れ自分だけが孤立し、いつしか人との付き合い方もわからなくなっていた。
そして案の定、高校生活ではこの惨めな有り様だった。
全ては自分が招いた結果だ。友達より趣味を優先してきたことに後悔はないが、あえて言うなら彼らとの関係をもっと大事にすればよかったと思う。
だが、今となってはもうそんなことはどうでもいい。自分にはLAという新たな世界が、ぽっかり空いた心の隙間を優しく埋めてくれるのだから。
不意に、一限目の開始を告げるチャイムが教室のスピーカーから鳴り響く。
「――おーいお前ら、席に着け」
それを聞いてまばらになっていた生徒たちはそれぞれの席に着くと、今日もいつも通り憂鬱な授業が始まったのだった。
∞
本日から待ちに待った短縮授業のため、午前中で学校は終わった。
俺は手早くバッグに荷物をまとめると、逃げるようにして教室を後にする。足早に昇降口へと向かい、そこで外履きに履き替える。
玄関から外に出ると、いつの間にか雪が深々と降り始めていた。北海道のこの時期では別に珍しいことではない。むしろごく普通のことで、季節的に冬と言っても特に差し支えないだろう。
俺は正門を出て、急ぎ足で帰路に就く。
今朝GMにポータルの不具合を報告したが、あれからちゃんと無事修正されたのだろうか。ただでさえ早く勇者に転生したいというのに、あと一歩のところでこんな足止めを食らわされては余計にしたくなるというものだ。おかげで今日の授業は全然集中できなかったわけだが……。
必死に逸る気持ちを抑えていると、自然と歩みもどんどん速くなってしまう。ああ、一刻も早く家に帰ってゲームがしたい。
川に架かる石橋の中央に差し掛かろうとしたところで、不意に背後から荒々しい車のエンジン音が聞こえてくる。
突然、黒塗りのバンが俺のすぐ横の路傍で急ブレーキをかけて停止する。
勢いよく扉が開放されると、車内から黒ずくめの四人の男たちがぞろぞろと飛び出してくる。正面だけでなく後ろの退路も塞ぐように、俺の周りをぐるりと取り囲む。
「なんだ……?」
見るからに怪しい集団に、俺は鋭く警戒の視線を走らせる。
「望月星、だな?」
目の前の黒いスーツにサングラスをかけたスキンヘッドの大男が、威圧的な態度で確認するように問いかける。
はあ……と俺は白くなった吐息を呆れとともに吐き出す。
「だったらなんだよ……。あんたたちこそ、人に名を訊ねる前にまず自分から名乗るべきなんじゃないのか?」
あくまで警戒心を剥き出しながら、恐れもなくぶっきらぼうに言い返す。
こっちは一秒でも早く家に帰ってゲームがしたいっていうのに……。というか、なぜこいつらは自分の名前を知っているのか。こんな物騒な知り合いは、自分の周りには当然いないわけで……。
俺の要求に素直に応じるはずもなく、なぜか男たちは無言で頷きを交わす。
すると次の瞬間、全員が一斉に動き出しこちらに襲いかかってくる。男たちに後ろから素早く両腕を押さえられると、がっちりと羽交い締めにされる。
「おい、いきなり何するんだ!! 放せ!!」
一切抵抗する間もなく、無理やり車内に押し込まれる。
俺は乱暴にうつぶせにされて男に馬乗りにされると、麻縄で両手両足を拘束されてガムテープで口を塞がれる。さらに黒い布で目隠しをされ、完全に視界が闇に閉ざされる。
思いきり扉の閉まる音がすると、エンジンが唸りを上げて車が急発進。
自分の身に一体何が起きたのか。突然の出来事に俺は頭の中が真っ白になったが、これだけは瞬時に理解できた。
自分はこの男たちに拉致されたのだ、と――。
トライゾン・ヒーロー 〜裏切りの勇者、デスゲームで陰から世界を牛耳る〜 一夢 翔 @hitoyume_sho
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