3分くらいで読めるラブコメ風なテキスト集

@Sugra

ヤマアラシのジレンマ

「ヤマアラシのジレンマって知ってる?」

 貴子の問いに、弘毅は、ヤマアラシのジレンマ? と同じ言葉繰り返した。

「なんだそれ、ヤマアラシとハリネズミが混同されるのが嫌だとかそういう話?」

 それを聞いて、貴子はやっぱりこの人は何も知らないなあ、とため息をついた。

 

 貴子が弘毅と付き合うようになったのは高校1年の夏のことだった。貴子と弘毅は同じブラスバンド部の一年生で、弘毅はトロンボーン、貴子は打楽器だった。どこでもそうなのかは知らないが、彼女たちの通う高校のブラスバンド部では演奏や練習をする際、指揮者を中心とした半円に広がるのだが、トロンボーンは一番奥の左半分、打楽器はその隣の左のエッジに座って演奏する。自然トロンボーンと打楽器の間に交流が生まれた。

 貴子はそれまで誰とも付き合ったことがなかった。もっとも付き合おうという気持ちが全くなかったわけではない。誰かと恋人になってみたいと思ったことはあったが、それ以上に自分から行動を起こして誰かと付き合おうとするなど、とても億劫に思われた。なので具体的な行動に移さなかった。あるいは今はまだいいか、そのうちやろう、と延々と先延ばしにして、結局何もしなかった。

 だから、いきなり弘樹が告白してきたときにはとても驚いた。

 恋というものにあこがれがあったし、それになにより「好きだ」と言われるのは本当に嬉しかった。

 それから半年、貴子の中で恋へのあこがれというのは急速にしぼみつつある。

 

「ヤマアラシのジレンマって言うのはこんな話よ」

 貴子は話し始めた。

「ヤマアラシって背中に棘がたくさんあるでしょ? だからヤマアラシ同士で近づいて体を温め合おうとしても、お互いの棘が邪魔であんまり近くに近寄れない。だから泣く泣くお互いの棘が刺さらないぐらいの距離で妥協して、かすかなぬくもりで満足するって話」

「本当かよ?」弘樹が疑わしそうに貴子を見る。弘樹はヤマアラシについて詳しいわけではないが、いくらなんでも馬鹿な生き物がいるとは思えなかった。それにヤマアラシの棘は常に逆立っているわけではない。それくらいのことは弘樹も知っていた。けれど貴子はそんな視線気にも留めずに胸を張った。

「Wikipediaに書いてあったわ!」

「……そうかい」弘樹は呆れた。

「本当よ! それに私、ヤマアラシが泣いてるところ見たことあるんだから」

 絶対嘘だろ、と弘樹は思ったが黙っていた。

 それから貴子は後ろを振り向き、スマホでWikipedia を検索した。ヤマアラシのジレンマ、なるほど、貴子はつぶやいた。

 振り返る。

「それにこの話はこれで終わりじゃないの」貴子が自信満々に続ける。「これは比喩よ。人間の社会をわかりやすく表現するための童話みたいなものよ! 本物のヤマアラシが泣くわけないじゃない!」

 弘樹は突っ込みたかったがぐっとこらえた。

「つまり人もヤマアラシと同じだって言いたいのよ。人は誰かと一緒にいたいと思う。でも、あんまりに近すぎると煩わしいし、傷つけることだってある。だから人と人との間に壁を作って接してる。それが礼儀ってものなのよ!」

 弘樹は

「私と弘樹の間にも壁がある気がする」

「でも全く壁がないってのも嫌だろ? お前だって俺に知られたくないことくらいあるだろうし、俺のこと全部知りたいかって言われると微妙だろ?」

「そりゃそうかもしれないけど、でももう少し何かあってもいいじゃない。そうよせっかく恋人なんだから、もう少しお互いのこと知るべきだって思うのよ」

 だって恋人なんだから、と貴子はいじけたように言った。

 弘樹はため息をついた。

「お前って、なんか教師みたいだよな」

 貴子は傷ついたように弘樹を見た。弘樹は続けた。

「ヤマアラシのジレンマだか何だか知らないけどさ、そんなの答えは一つだと思うんだ」

「なに?」

 貴子が言う。次の瞬間、弘樹は貴子に頭を寄せて言った。

「頭を近づければいいんだろ?」

 間近で拝む弘樹の顔は、貴子には妙に輝いて見えた。

 

「恋ってもう少し素敵なものだと思ってたんだけどなあ」

 貴子が言う。

「でも、まあこういうのもありかもね」

 貴子は笑って弘樹を見た。

「あ、それと今日の帰り、伊勢丹寄りたい」

「お前が行きたいなら付き合うよ」

 弘樹が言う。

「そろそろ合わせるよ……またあんたたち二人でいちゃついて、練習してたんでしょうね?」

 二人を呼びに来た先輩があきれたように言った。二人はそれぞれの楽器を持って立ち上がった。

 

 貴子と弘樹はきっとこのまま結婚するんだろうと周りから信じられている。

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