5. 豪雨の降る12月の午前2時、ユートピアという名前の寂れたゲームセンターでキスできなかったことについての話

 ばさっ、とビニール傘を雑に振って水気を飛ばし、そのまま傘立てに突っ込む。何もこんな日に雨なんて降らなくてもいいじゃないか。相変わらず、天気に見放されすぎである。

 経年劣化による曇ったガラス戸を押し開くと、いつもと同じ色とりどりの音が俺を出迎えてくれた。

 息を吸って、吐く。

 ここはゲームセンター・ユートピア。最新のアーケード機体からはだいぶ型落ちした機種しかないし、開店日は店長のやる気が出たとき、開店時間は店長が起きた時間から寝る時間まで、というナメ過ぎな運営をしている、果たしてどの辺りがユートピアなのかと小一時間くらい追求したくなるにも関わらずどうにもここは居心地がよくて、なるほど俺も大概社会不適合なんだなぁ……なんてしみじみ感じてしまう。

 たぶん、どこまでも平等に冷たい優しさがあるからだ。

 ゲームの腕前さえ上がれば三百円くらいで一日潰せるし、ここで飲み物が買える上に昔懐かしいホットスナック自販機まであるのだ。閉店までここから出る必要もない。

 だから、ここには不適合者が集まる。

 学校にうまく行けなかったり、会社から捨てられたり、家庭に馴染めなかったり。

 いつかの自分と未来の自分が交わるこの場所では、誰も他人に対してお節介なんて焼かない。でも、ゲームを通して交流が生まれたりもする。静かで穏やかな楽園ユートピア


 そして、その楽園にも終焉はあるのだ。


(暑い……)

 片手で数えられるくらいしか使ったことのない、黒いネクタイが酷く苦しい。


 楽園の店長が死んだ。


 誰も予想なんてしてなかった。それくらい、殺しても死ななさそうなクソ婆だったのだ。流石というか何というか、老衰だった。やはり殺しても死ななかったらしい。死神もさぞ苦労したことだろう。

(びっちゃびちゃだ)

 水滴を吸ってしっとりとしたジャケットを脱いで、ゲーセンの片隅にある喫煙エリアの椅子に引っかける。喉を締め付けてきて苦しいネクタイも取り去って投げ捨てる。

(……苦しい)

 尻ポケットをぱたぱたと弄って煙草を引っ張り出す。若干湿っているような気がしたけど、火が点けば何も問題はない。冷え切って震える手でライターを操作する。何度目かでようやく立ち上る煙を深く深く吸い込んで、細く吐き出す。


 店長がいなくなったから、楽園も一緒に消えるそうだ。


「……あぁー!!」

「なんだい、若いくせしてヤニ臭いね」

 俺以外誰もいないと思っていた空間から唐突に声が聞こえて、伏せていた顔を上げると、視線の先ではガチャガチャと雑にレバコンを動かす音に合わせて長い黒髪が揺れていた。

 振り向かないその後ろ姿に妙に惹かれて近寄ってみれば、彼女が操作しているキャラクターが相手を叩き伏せたところだった。

 涼しい横顔にドキリとしつつも、楽しげに歪めた口元で揺れる煙草に、「いや、あんたも吸ってんじゃん」と突っ込まざるを得なかった。

「あたしはいいんだよ」

 むちゃくちゃなことを言う美人の全身をぼんやり眺めたら黒いセーラー服に身を包んでいて、思わず噎せる。

「いや、いやいやいやいや! 吸っちゃだめだろ!!」

「いいんだよ、ここは治外法権だから」

「いやここただの場末のゲーセンだろ!」

 久々に声を出したからか、それとも煙草を吸ったせいか、喉がかさついてうまく言葉が出てこない。

「細かいことはどうだっていいじゃないか。ここはゲーセンなんだ、遊んでいきな」

 ちらりと一瞬、本当に一瞬だけこちらを見た瞳に吸い寄せられるように、彼女の向かいにある台に座る。何でかは分からない。ただ、彼女ともう少し交流してみたくなった、たぶんただそれだけ。

 百円玉が吸い込まれていって、俺は躊躇いなく乱入戦を仕掛けた。


「……少年、弱いね」

「う、うううるさい……このゲームそんな得意じゃないんだよ……」

 嘘である。

 このゲームに限らず、格ゲーは全般的に下手くそなのだった。俺の専門はパズルゲーだ。

「勢い込んで乱入してくるからよっぽど強いのかと思ったよ。あたしも下手だけど、更にその下をいくね、少年は」

「追い打ちかけんの止めてくんない?」

 はぁ、と紫煙を吐き出す。

 黒髪黒セーラー服の美少女と並んで喫煙エリアで煙草を燻らせるのは酷く背徳感があって、背筋がむずむずする。

「なぁ、このゲーセンもうなくなるの、知ってるか?」

「……あぁ、知ってるよ」

 彼女はこちらを見ない。

「最期だから、来たんだ。と言っても、あたしの知ってる連中はみんな帰った後だったみたいだけどね」

「そう」

「……少年以外は。」

「え?」

 不思議な台詞を聞いた気がして彼女を見ると、彼女も俺を見てにやりと笑った。

「少年、最期の一勝負だ。今度は少年が得意なゲームでいい。お前が勝ったら、」

 ふっ、と煙を吐き出して煙草を消しながら、彼女は蠱惑的にウィンクした。

「この美少女が記念に、ちゅーしてやろう」


 男というのは総じて愚かである。

 確実に俺の方が年上だというのに大人げなく躊躇いなくパズルゲーを選択した俺は、本当に愚かだと思う。

 しかし、しかしだ。

 誰にだって、引けない勝負というのはあるだろう!


「大人げないねー。まぁ嫌いじゃないよ、そういうのはね」

 俺が一番得意としている(そしてここに来たとき大抵座っている台)を指さしたとき、彼女は本当に楽しそうに笑った。

「この勝負もらった!」

「馬鹿言いなさんな。蓋を開けてみるまで分からないから、勝負って言うのは面白いんだよ」

 俺が先にちゃりん、と小銭を投入して、後を追うように彼女がちゃりんと小銭を投入する音がかすかに聞こえた。


 接戦だった。手に汗握る名勝負だったと、後にも先にも二度とないくらい善戦したと、そう自負できる、そんな勝負をして、結局負けた。

「うっそだろ、おい……」

「少年はいつもパズルゲームしてたけど、あたしもパズルゲームが一番得意なんだよねぇ」

「うわずるい」

「大人げない選択した少年がどの口でほざくんだい?」

 涼しげな彼女の口元は本当に楽しそうに歪んでいた。美少女からのキスはお預けである。

 自分で美少女って言っちゃうのはどうかと思ったけどそれ言っても嫌みにもならない美少女からのキス……うーん勿体ない。でも、それ以上に楽しい勝負ができたから、なんだかどうでもいい気分になっていた。

 だから、油断していた。

「少年、」

「ん?」

 何? と、言おうとした声が固まってそれ以上こぼれ落ちることはなかった。

 ひやりと、冷え切った唇が頬を掠めて、離れる。

「名勝負のご褒美だ」

「ぅ、え、」

 彼女の唐突な行動にびっくりして、それ以上に目の前の光景にまたびっくりしてそれ以上言葉が出てこない。

 目の前にいたはずの彼女は、透けていた。

「な、え?」

「あぁ、あたしの未練ってこんなことだったのか……どこまでいってもゲーム馬鹿だったんだねぇ、あたしは」

 今更ながら、彼女の顔を真正面からまじまじと見てようやく気付く。

「て、店長……?」

 マジかよあの婆若い頃こんな美人だったの!? いや、今驚くところそこじゃない気がするけど、いや、えっ?

「もう、死にたいとか言って飛び込んでくる場所はないんだから、しっかりしなよ」

 するり、と、冷たい手のひらが俺の頬を撫でて離れる。

「名勝負をありがとう、少年」

「まっ……」

 俺がその腕を掴むより早く、彼女の姿はかき消えた。

 同時に、ずっと俺たちを包んでいたはずの色とりどりの音楽たちも消えて、楽園はしん、と静まりかえっていた。

「……夢?」

 冷え切った室内に、雨の音がかすかなノイズとして響く。


 錆びた灰皿には、俺のものではない吸い殻が一本だけ、残されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

淋しい国のお伽話 行木しずく @ykszk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ