4. 3月の嵐の日に、きれいな水の流れる古い町で寂しくなんてないと嘯くきみの顔をみていたことの話


「何処へでも行ってしまえよ」


 肌を突き刺すような水温にも構わず、彼女はぱしゃりと素足で水を跳ね上げる。

「別にあたしは、君と友人なんかではないんだ、妾の赦しなど、必要ないだろう?」

 一体いつから、彼女の顔をまともに見ていないのだろう。

 ここ最近は、彼女の美しい横顔だけを見つめている気がする。

「何処へでも、行ってしまえ」

 冷え切って青白くなってしまった痛々しい脚を、早く暖めてやらねばならない。

 焚き火のそばへ引き寄せようと右腕を取ると、強く振り払われてその勢いのまま彼女は水路へ倒れこんでいく。

 慌てて私も水路へ飛び込んで、彼女を必死になって引き上げる。

 ここまでくると流石の彼女も大人しく焚き火のそばへとやってきてくれたので、正直助かった。

「……なんで妾のことを助けるんだ」

 下を向いたまま話す彼女の濡れた髪をそっと乾かしていく。だらりと力なく垂らされた腕を動かす気配がないことに、少しほっとする。差し出した手を振り払われるのは、分かっていてもやはり堪えるから。

「妾の代わりに声を奪われる呪いを受けて、妾の代わりにあらゆる人から疎まれて、挙句の果てに妾の代わりに花嫁という名の人質になりに行くって? 馬鹿なのか、妾を馬鹿にしているのか? 君をそんな風に使うために、妾は君に近付いたわけじゃないと言っているのに、君は独りで何処までも何処までも突っ走る!」

 氷のように鋭い冷たさを持った瞳が、私を貫く。

 こんな風に真正面から見てもらえるのは、いつ振りだろうか。私の醜い声が聞こえなくなってからだから、かなり久しぶりであることは確実だ。

 嬉しい、嬉しい、最高の幸せがここにある。

 こんな表情を浮かべてしまってはまた彼女が柳眉を逆立てることくらい分かっているのに、口角が緩むのを抑え切れない。

「君はまたそうやって……!」

 いきり立つ彼女が声を荒げる前にその唇をそっと指で押さえる。真っ赤な柔らかい唇がくにりと歪んで、彼女は実に不服そうに言葉を飲み込んでくれた。


 嗚呼、貴女はいつだって優しい。


 その零れ落ちんばかりに大きな黒い瞳も、烏の濡れ羽色をした深い艶めきを持つ髪も、真っ赤で柔らかな唇も、そしてそれらを神の采配とでも言うべき調和でもって配置された輝くかんばせすら、貴女自身のその優しさという美徳の前では色褪せる。

 冷え切ってしまった白い脚に触れ、そっとその足の甲へ唇を寄せる。

『そう、私と貴女は友ではない。友にはなりようがない。私のこの魂は貴女へ捧げる為に在るというのに、貴女を危険に晒す因子をみすみす放っておけるはずがない』

 彼女が私の唇をじっと見つめて、数刻遅れてまた瞳に冷たい怒りの炎を灯す。

 良かった、私の醜い声が失われていて。ただでさえ醜い言葉を見せてしまっているというのに、これ以上、彼女を汚したくはない。

「……そう、じゃあ何処へでも行くといいよ」

 彼女の冷えた声が私の耳を擽る。

 あぁ、最後に聞こえる音が、彼女の声で良かった。

 ざらざらとしたノイズで、私の耳が塞がっていくのが分かる。呪いは、声を奪うのではなく五感を奪うものだったのだと、彼女が知る必要はない。

「妾は一人でも生きていける。君がいなくたって、寂しくはない」

 一瞬、ほんの一瞬だけ、私の唇が燃え上がるように熱くなった、気がした。


「何処へでも行くと良いよ。……妾を、独り置いて、」


 彼女の黒髪が大きく風にさらわれて、そうして何も見えなくなった。

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