背景
国語の学習で教材とする文章は、おもに二種類ある。一つは小説で、もう一つは小論文だ。
小説はストーリーがあるから、比較的頭に入ってきやすい。なんとなく読んだだけでも、どんな話なのかはわかる。
一方、小論文の方はそうはいかない。がんばって読まないといけない。理解しようと思って、頭に自分から入れなくてはならないのだ。だから、どちらかといえば、小論文よりも小説の方が好きだ。
そして、今日の授業の題材は、どちらかといえば好きじゃない方のやつだ。
ということは、しっかり読み込まなくてはならない。黙読の時間が終われば、先生に当てられる可能性がある。気合を入れて読むとしよう。
〝芯条くん〟
しかし、そういうときに限って、やはりやつが現れるのだった。
僕の斜め前の席に座っている女子、沙鳥。
沙鳥は僕とテレパシーで意思疎通ができるのをいいことに、授業中だろうが構わず話しかけてくるのだ。
〝芯条くん、芯条くん〟
いや、こっちこそ構うものか。無視してしまえば、無音も同じ。今日は、国語の授業に全身全霊を注ぐぞ。
〝ヨー、ヨー、MC芯条くん。ヨー、ヨー〟
ラッパー風に声をかけてきても、決して反応しないぞ。
〝ヨー、ヨー。ヨー、ヨー。焼きそば、りんご飴、ヨー、ヨー〟
〝そっちのヨーヨーかよ〟
祭りの方だった。
〝おや、MC芯条くん。私とフリースタイルでバトルしますか?〟
〝そんなつもりはない〟
〝ラッパーとラッパーが出会ったら、バトルのはじまりです〟
今、ラッパーは一人もいない。
〝大食いバトルのはじまりです〟
〝ラップで戦えよ〟
フリースタイルにもほどがある。
〝では、バトルは食べてからにしましょう。腹が減っては戦ができぬです。何か食べ物持ってますか?〟
〝ありません〟
学校だし、授業中だから。
〝沙鳥。今は国語の授業に集中しようよ〟
〝うーんです。そうしたいところなんですが、国語って、英語よりも難しいじゃないですか〟
日本人のくせに。
〝それは人によるだろ〟
〝だいたい、意味がわからないですよ。ことわざとか〟
〝ことわざ?〟
〝ことわざなんて、日常で誰も使いません〟
〝沙鳥。さっき、腹が減っては戦ができぬって言ったけど〟
〝あれは、私がさっき思いついた言葉です〟
奇跡。
〝……何がわからないの?〟
〝うーんです。例えば、猫に小判とか〟
〝それくらいわかるだろ。猫に小判をあげても、価値がわからないから無意味ってことだろ?〟
〝どうして、わざわざ無意味なことをしたんです?〟
〝どうしてと言われても、そういうものだから〟
〝芯条くん。「そういうものだから」で、納得していたら、何も新しいことなんて生まれませんよ。何しに学校へ来てるんですか〟
〝授業受けに〟
だから邪魔しないでほしい。
〝きっと、猫に小判を出してしまったのには、何か深い理由があるんです〟
〝理由って?〟
〝そうです。たとえば、その猫はもらい猫で、前の飼い主が亡くなって、主人公が引き取ったのです〟
〝主人公?〟
ことわざの?
〝でも、どうしてもなついてくれない。そこで、前の飼い主が大事にしていた小判を持ってきたのです。これがあれば、きっと前のご主人を思い出して、なついてくれるはず……そう、信じて小判を見せたのです……でも……〟
妙に芝居がかる沙鳥。
〝小判では、亡くなった飼い主のかわりにはなりません。小判はただの小判……。猫は相変わらず、なつかない。ああ、やっぱり猫に小判を見せても無意味なんだ……。そして、結局主人公は、小判を盗んだ罪でお縄です〟
〝盗んでたのかよ〟
バッドエンドだった。
〝不思議です。あんなに意味のわからなかった「猫に小判」が、ここまで背景を想像してみたら、初めてわかった気がします〟
沙鳥が少し賢くなった。
〝背景を想像したら、理解できるのかもしれません。芯条くん、ことわざのいい覚え方がわかりました〟
〝そりゃよかったよ〟
それは本当に素晴らしいことだけど。
〝芯条くん。ちょっと他のことわざを何か言ってください。私、背景を想像します〟
〝後にしてくれないかな〟
なぜなら。
〝今、国語の授業中だから〟
〝まさに国語です〟
それはそうだけど。
〝もし、ことわざを言ってくれないのなら、チャイムが鳴るまでMC沙鳥のフリースタイルラップを堪能してもらいますよ〟
それはとても困る。
仕方ない。適当に何かことわざをあげて、早く満足してもらおう。
〝ええっと、じゃあ、猿も木から落ちる〟
〝猿も木から落ちる……。まったくもって意味不明です。あんなに木登りが上手な猿が、なぜ落ちるんでしょう。緊張でもしていて、油断したとしか……〟
まさにそういうことわざなんだけど。
〝なぜ緊張していたのでしょう……。芯条くんは、ぶっちゃけどう思います?〟
〝ぶっちゃけどうでもいいです〟
居もしない猿のことなんて。
〝私はこう思います。得意な木登りさえも失敗してしまう理由……。そう、きっと好きな人にいいところを見せようとしたのです〟
〝猿なのに……?〟
人……?
〝人のことをときに猿と呼ぶように、猿のこともまた人と呼ぶのですか?〟
僕に聞かれても。
〝ともかく、愛しの猿子さんに見られていたら、木登りの得意なモンキーの助さんだって、手がすべってしまうのですね〟
名前の価値観を統一した方がいい。
〝猿も木から落ちる。わかった気がします〟
〝良かった〟
これでやっと授業に戻れる。
〝次のことわざをお願いします〟
戻れなかった。
〝えーっと、それじゃ、河童の川流れ〟
〝河童の川流れ……。まったくもって意味不明です。あんなに泳ぎの得意なはずの河童さんが、なぜ流されてしまわれたのでしょう〟
猿より河童を敬っているらしい。
〝芯条くんは……いいえ、きっとわからないでしょうね〟
聞かれもしなかった。
いや、聞かれなくていいんだけど。
〝私はこう思います。得意な泳ぎさえ失敗してしまう理由……。そう、きっと好きな人……、いいえ、好きな河童にいいところを見せようとしたのです〟
ちょっと学習した沙鳥。
〝愛しのカパ子さんに見られていたら、泳ぎの得意な七代目カパ村カパ九郎さんだって、腕がつってしまうのですね〟
歌舞伎やってそうな河童。
〝河童の川流れ。わかった気がします〟
〝良かった〟
今度こそ授業に戻してくれ。
〝次のことわざをお願いします〟
だろうな。
〝もういい加減にしてくれよ〟
〝次が最後でいいです。もう、そんなに頭使いたくないので〟
なんて理由だ。
〝えーっと、それじゃ、弘法にも筆の誤り〟
もう全部同じような意味だけどいいや。
〝弘法にも筆の誤り。まったく持って意味不明です。あんなに筆が大好きな弘法さんが、間違った筆を手に取ってしまうなんて、何があったのでしょう〟
なんか違うけどまあいいや。
〝芯条くんも、そろそろわかってきたでしょう?〟
なんで偉そうなんだ。
〝私はこう思います。大好きな筆を間違えてしまう理由……。そう、きっと好きな弘法にいいところを見せようとしたのです〟
〝好きな弘法ってなんだよ〟
〝メスの弘法です〟
弘法をなんだと思っているんだ。
〝沙鳥。弘法って、なんとか坊的な妖怪じゃなくて、偉い人の名前だよ〟
〝なるほどです。つまり、こういうわけですね〟
沙鳥は確信を持って念じてきた。
〝愛しの美人秘書に見られていたら、筆が大好きな弘法ゼネラルマネージャーだって、うっかり不利な吸収合併の契約書にサインしてしまうのです〟
まあ、偉い人ではある。
〝残念です。弘法ホールディングスの快進撃もここまで……〟
〝沙鳥〟
〝なんです?〟
〝弘法って、偉いお坊さんなんだけど〟
ゼネラルマネージャーとかじゃなくて。
〝芯条くん。だから、なんだというのですか〟
だから間違っていると。
〝お坊さんだったら、恋をしてはいけないというのですか〟
〝そんな話はしてない〟
「芯条」
不意に名前を呼ばれた。
テレパシーではなく、きちんとデシベルが計測できる声。国語の先生の発した声だった。
「は、はい」
しまった。沙鳥のことわざ漫談しか聞いていなかったから、今、小論文の内容についての質問をされても、何も答えられない。
「前回のテストにも出たが、三行目にある『岡目八目』は、どういう意味だ?」
良かった。文脈に関係のない、言葉の意味を答えるだけの質問だ。これなら授業を聞いていようがいまいが関係ない。
僕は答えた。
「……わかりません……」
僕が非常にか細い声で言うと、いつもクールな先生は眉を少し寄せ、回答権を次の人へうつした。
〝わかった気がします〟
沙鳥が、ここぞとばかりにテレパシーを再開する。
〝どうして芯条くんは、先生の質問に答えられなかったのでしょうか〟
そんなのはわかりきっている。
〝私はこう思います――〟
〝――復習をきちんとしていないからです〟
そのとおりです。
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