十年後
窓の外の木がラジオ体操をしている人くらいに反っている。春の嵐だとかで、今日は風がとても強い。
閉め切っているおかげで、いたって平和な教室の中では、女の先生の声がいつものように響いていた。
「今回の平均点、あべれえじは七十五点でした」
英語の先生のくせに、英語の発音は相変わらず怪しい。
「高めです。みなさんががんばったのか、わたしの問題がいいじい、らくちんだったかのどちらかですが、学年末、ふぁいなるですので、みなさんががんばったものとしましょう。ぐっどじょぶ」
今は、学年末テストの英語の答案が返ってくる時間だ。三学期もあと数日で終わり。というより、一年生としての一年がもうすぐ終わる。
残り数日といえど、大事な学校生活。気を引き締めて過ごさないと。
〝芯条くん〟
頭の中に、僕の名前を呼ぶ声がする。斜め前の席に座っている女子、沙鳥の声だ。
僕と沙鳥は、声を出さなくても頭の中だけで会話が出来る、テレパスと呼ばれる能力者なのだ。
〝芯条くん〟
沙鳥はいつも授業中、どうでもいいことをテレパシーで送ってきて僕の集中力を乱してくる。
普通の授業ではないけど、これから、さっき返してもらった答案の答え合わせがある。復習は予習より大事。何を間違えたのか、なぜ間違えたのかをきちんと知ることで、学びを深めることができる。
〝芯条くん、芯条くん〟
沙鳥にかかわっている場合ではない。
〝よしです。聞こえていないようです〟
そうです。だから諦めて。
〝今のうちに、なすべきことしてしまいましょう〟
今なすべきことは答えあわせなんだけど。
〝では、あらためて……。……沙鳥さん〟
は?
〝沙鳥さん……沙鳥さん……〟
沙鳥が、なぜか自分自身に呼びかけはじめた。
〝沙鳥さん……。聞こえていますか? 今、あなたの脳に直接話しかけています〟
これは、いよいよ心配だ。
〝……あのー、沙鳥?〟
心配になったので、思わず念を送ってしまった。
〝おや、なんてことです。沙鳥さんから返事が来たのです〟
〝いや、芯条だけど〟
〝なんだ、です。芯条くんですか〟
なんかがっかりされた。
〝沙鳥さんにしては、ずいぶんダミ声だと思ったのです〟
〝ダミ声ではないけど〟
さすがに。
〝……沙鳥。いよいよ大丈夫か?〟
〝経済の話ですか?〟
そんな難しい話はしてない。
〝急に自分にテレパシーを送りだしたから、心配になったんだ〟
〝芯条くん。それは正解半分。不正解四分の一です〟
〝四分の一余ったけど〟
その計算だと。
〝残りの四分の一は、ほどよい酸味です〟
なに言ってんだ。
〝わたしがテレパシーを送っている相手は、十年後のわたしです〟
〝十年後の沙鳥?〟
〝そうです。タイムカプセルに入れる手紙にように、十年後のわたしへ、メッセージを送るのです〟
〝そんなことできるのか?〟
沙鳥は、時間までも超越するテレパシーを会得したのか。
〝十年待ってみればわかるのです〟
〝気の長い賭けだな〟
〝賭けだなんて、いい加減な話ではないのです。ちゃんと十年後の沙鳥さんに届けという気持ちを、それなりに出しながら念じています〟
いい加減だ。
〝沙鳥。結果、僕に届いちゃってるけど〟
〝そのようです。わたしと十年後の沙鳥さんのトークルームに、勝手に入ってこないでください〟
〝勝手に招待されたんだけど〟
〝仕方ないです。ついでに聴いてください〟
ついでに聴く羽目になった。
まあ、僕に話しかけているわけではないから、聴き流しておけばこっちには絡んでこないだろう。先生の解説に集中しなきゃ。
〝十年後の沙鳥さんへ〟
沙鳥は手紙を読むような口調で念じはじめた。
〝こんばんはです〟
夜に届く予定らしい。
〝ふふふです。驚いているようですね、わたしは十四歳の時のあなた、つまり、十年前のあなたですよ。
改名するのか。
〝わかります。若さに嫉妬しているんですね〟
嫌な過去の自分だな。
〝あなたに尋ねたいことは、ゴミの山のようにたくさんあります〟
ゴミじゃなくてもいいだろう。
〝まず、駅前のケーキ屋さんはまだありますか?〟
一番に尋ねることはそれでいいのか。
〝学校のそばのたい焼き屋さんは、4のつく日半額セールをまだやっていますか?〟
それは店に問い合わせろ。
〝街道沿いに、アンティークがお洒落なクロワッサンの美味しいカフェができていたりしませんか?〟
願望まで言い始めた。
〝そうですか。できていますか。良かったです〟
勝手に未来を確定させた。
〝おや、です〟
沙鳥は困ったような声、いや念を出した。
〝質問が出尽くしてしまいましたね〟
早っ。
ゴミの山のようにあるんじゃなかったのか。まだ飲食にまつわることしか尋ねてないけど。
〝雑談でもしましょうか〟
プラン全然なかったんだな。
〝十年前のことを覚えています? フランキスカさん?〟
誰なんだそれは。
〝十年前。まだ人類は、石器と呼ばれる道具を使い、狩猟や採集を行っていました〟
それは一万年くらい前だ。
〝スマートフォンの登場によって、石器の文化はすたれてしまいましたね〟
時代考証無茶苦茶。
〝最近はドラマやアニメの影響もあって、空前のつまようじブームが到来中です〟
どんなドラマやアニメでそんなブームが来るんだ。
〝わたしもつまようじ一つで、油田を掘り当てたばかりです〟
どんな嘘だ。
〝さて、問題です。今の話に、本当のことはいくつありましたか?〟
クイズだった。
〝なあんて、です。油田以外は嘘だとわかっていますよね〟
油田が一番嘘だ。
〝嘘ばかりで申し訳ないです。時代を飛び越えて情報を教えると、歴史を改変してしまう可能性がありますから〟
それは過去の人に未来を教える場合だ。この場合は逆。
〝おや、です〟
沙鳥はまた困った様子の念を飛ばした。
〝雑談に飽きたのです〟
早っ。
〝ちょっと、芯条くん〟
急に会話の矛先が飛んでくる。
〝トークルームに参加してるんだから、少しは何か念じるべきです〟
勝手に招待したくせに。
まあ、聞きたいことはある。沙鳥に。
〝……フランキスカって誰だ?〟
何よりもまずそれだ。
〝十年後のわたしです〟
〝改名するのか?〟
〝nicknameです〟
急にネイティブが顔を出す。
〝何があったら、ニックネームがフランキスカになるの?〟
〝その質問はわたしでなく、フランキスカさんにどうぞです〟
めんどくさい。
〝沙鳥。せっかく十年後の自分に質問するなら、自分のことを尋ねた方がいいんじゃないかな〟
駅前のケーキ屋がまだあるかとかじゃなくて。
〝仕事は何をしていますか、とか。どんな家に住んでいますか、とか。結婚はしていますか、とか〟
〝なるほど、です。斬新なアイディアです〟
めちゃくちゃベタだけど。
〝それでは聞いてみましょう〟
沙鳥はまた十年後の自分に念じはじめた。
〝十年後の沙鳥さん。あなたはまだ――テレパシーを使えますか〟
沙鳥は、ここまでの会話を一瞬で覆した。
〝二十四歳のわたし。ひょっとしたら、あなたはもうテレパシーを使えないのかもしれません〟
その可能性はある。
というより、その可能性は高い。古いオカルト雑誌に載っていたテレパスの少年も、高校生の時にはもうその力が無かったと言っていた。
僕らだって、いつまでこんな風に会話していられるかわからない。
〝でも、です。もうテレパシーを使えなかったとしても、きっとこの念だけは受信できると思います。そんな気がします〟
沙鳥は十年後の自分に念じた。
〝あなたにはもうテレパシーは必要ないのかもしれません、でも――〟
〝――こんな風におしゃべりしていた時間があったこと、ときには思いだしてください〟
沙鳥はそれから付け加えた。
〝週五で思いだしてください〟
結構な頻度。
〝さて、それでは十年後の芯条くんにも念を送りましょうか〟
〝僕に?〟
〝今の芯条くんは何の関係もありません〟
関係はあるだろう。
〝それでは送ります〟
それから、沙鳥のテレパシーはしばらく途絶えた。
〝よし、です。これでOKです〟
〝何も念じなかったじゃんか〟
〝今の芯条くんに聞こえてしまわないように、控えめに念じました〟
〝え〟
僕は驚いた。
〝沙鳥って、相手に届かないように念じたりできたの?〟
〝ええ、もちろんです〟
そうだったのか。僕はてっきり、沙鳥は思考を制御するのが下手で、考えていることが僕に筒抜けなんだと思っていた。何も念じてこない時は、何も考えていないと思っていた。
沙鳥の頭の中にも、僕の知らない思いがずっとあったとは。
まあ、全部筒抜けだったところで、結局意味のわからないことばっかり考えているような気もするけど。
〝なんて念じたの?〟
〝ふっふっふ、です。それは、わたしと十年後の芯条くんとの秘密です〟
しょうがない。十年待つか。
十年後、沙鳥からのどうでもいいメッセージが突然頭に聞こえてくると思ったら、ちょっとホラーだな。
〝さて、です。芯条くんも、十年後のわたしに念を送ってください〟
〝なんで僕も?〟
〝わたしだけが、十年後の芯条くん、つまり、芯条三節棍くんに念を送るのでは不公平です〟
〝誰だよ〟
〝十年後の芯条くんのnicknameです〟
なんでマイナーな武器の名前ばかりつける。
〝さあ、どうぞです。わたしは耳をふさいでいますから〟
〝耳は関係ないだろ〟
なぜなら、
――僕らはテレパスだからだ。
僕の斜め前の席には、いつものように白い頬に頬杖をついてぼんやり答案用紙を眺めている振りをしている、沙鳥の姿がある。
十年後の沙鳥。
二十四歳の沙鳥。
大人になった沙鳥。
姿は想像もつかないけど、もしも念が届くのなら、僕は未来の沙鳥にまずこれを聞きたい。
――沙鳥。
駅前のケーキ屋、まだあるかな。
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