弟子
教室を見渡すと、マスクをしている人が何人かいた。
風邪が流行っているらしい。インフルエンザで欠席したという話もちらほら聞いている。僕の前の席の宇佐美も休んでいる。
まあ、外から屋内に入る時は欠かさず手洗い、うがいをする僕には無縁だ。
僕は風邪より、もっと厄介なものに悩まされている。
それは僕の斜め前の席の女子、沙鳥だ。
僕と沙鳥はいわゆるテレパスであり、声を発さなくても頭の中で念じるだけで言葉のやり取りができる。
そして沙鳥はそれをいいことに、授業中に授業と関係ない話をしたり、関係はあるけど意味はまるでない話をしたりして、僕の学力向上を邪魔する。厄介だ。
でも、今は休み時間。沙鳥は机に突っ伏して眠りについていた。
チャンス。
今なら、授業の遅れを少しは取り返せる。わずかな時間だけど、さっきの復習をしよう。おとなしく休んでる場合じゃない。
「しんいちー」
教科書のページをめくっていると、本来は宇佐美のものである席から、のんきな声がした。これはテレパシーでなく、空気が振動する本当の声だ。
「なあ、しんいちー」
声だけでなく、座っている椅子を揺らして存在を主張しはじめた。
これは、うるさい。
本当は無視して復習したかったけど、これでは気が散る。それに、テレパシーと違って周りにも迷惑がかかる。
僕は仕方なく、返事をした。
「なんだよ、
句縁は、僕の幼馴染。そして、女子でちび。特筆すべき点はそのくらい。
「しんいちー。そうだんがあんだけどよー」
あと、口があまりよろしくない。
「でし、って、なにをさせたらいいんだ?」
あと、そうだ。
こいつには最近、弟子がいる。
去年の、二学期の終わり頃。句縁は後輩の男子にラブレターらしきものをもらって、体育館に呼び出された。
色々あって、僕はその現場を隠れて覗き見ることになり、そして、句縁がその後輩を弟子に取る瞬間を見た。
どういう経緯でそうなったかはよくわからないけど。
「じつはよー。きょねん、いちねんのだんしにもらったてがみ、あってみたらラブレターじゃなくて、でしいりしがんのてがみだったんだけどよー」
そういう経緯だった。
「へえ」
だいたい知ってたけど、初めて聞いた振りをした。さすがに告白の現場を覗いていたとは言えない。
「そんで、かれしだったらめんどくせーけど、でしならいいかとおもって」
そういうもんかな。
「でー、でしにしたんだけどよー」
句縁は眉間に皺を寄せた。
「でも、でしになにさせたらいいかわかんなくてよー。なんせ、いままで、でしとったことねーし」
そりゃそうだろ。
「しんいちは、でしになにさせてる?」
「僕に弟子はいない」
取る気もない。
「句縁は、今は何をさせてるんだ?」
「よくわかんねーから、いまんとこ、ごびに『でし!』ってつけさせてる」
変なキャラがつけられている。
「それは、やめさせてあげたら?」
日常生活に支障が出る。
「そもそも句縁は、その男子の何の師匠なんだ?」
「うーん……」
句縁は目を細めて首を傾げた。
「さどう?」
句縁にそんなおしとやかなイメージはない。
「とうげい?」
句縁がツボ作ってるとこなんか見たことない。
「あんさつじゅつ?」
句縁が要人の命を奪ってるとこなんか見たことない。
「どれも違うと思うけど」
「だよなー」
句縁は深くうなずきながら言った。
「やっぱ、らくごか」
「それが一番ないよ」
こんな言葉の足らない話のヘタなやつに、誰が落語を教わるんだ。
「えー。じゃー、あいつなんのでしなんだよ?」
「それはこっちが知りたいよ」
いや、別に知りたくもないけど。
「そんじゃ、うちがなんのししょうか、きいてみるわ」
かつて誰も聞いたことのない台詞を残すと、句縁は教室を出ていった。
次の休み時間。
「しんいちー」
句縁はまた宇佐美の席で椅子をガタガタと揺らした。
「なあ、しんいちー!」
くっ、宇佐美が休んでいるせいで句縁が居座りやすい状況が生まれている。僕は宇佐美に元気になってほしいと心から願った。
「なんだよ、句縁」
「うちが、あいつのなんのししょうかわかった!」
「……なんだったんだ?」
そこまで興味ないけど、一応聞く。
句縁は、口を結んで難しい顔をすると言った。
「こころのししょう」
「心の師匠……」
……。
……なんだそりゃ。
「けっきょく、よくわかんねーはなしだった」
同感。
「……それで、句縁は弟子に何をさせることにしたんだ?」
「よくわかんねーし、とりあえず、かきづきや・でしぞう、ってなのらせてる」
落語に引っ張られていた。
「それは、やめさせてあげたら?」
また変なキャラが乗ってしまう。
「ちなみに、うちは、たちばなや・くえん」
なんで句縁が柿月屋じゃない。
「……句縁」
僕は従順な後輩くんが気の毒になってきた。
「そいつが句縁の何に惹かれて弟子入りしたか聞けばいいんじゃないか。そうしたら師匠としてどうふるまって、弟子として何をさせたらいいのかもわかるだろ」
よくわかんねー状態は解除しないと、師匠からどんどん変なキャラをつけられる。
「あー」
句縁は納得した様子で言った。
「そんじゃ、うちのどんなとこにひかれたのか、きいてみるわ」
聞きようによってはすごく恥ずかしい台詞を残すと、句縁は教室を出ていった。
昼休み。
「しんいちー!」
またも句縁がやってきた。
しかし。
「なんだ、うさみ、きてんのか」
そうだ。残念だったな。僕の祈りが届いたのか、体調が良くなった宇佐美は昼休みから登校している。
「柿月よ。今日も柿月だな。いわば、柿月だ」
マスクをつけている以外はいつもの調子でそう言った宇佐美に、句縁は言った。
「どけよ」
病み上がりなのにひどい。
「嫌だと言ったら、どうする? いわば、拒否したら」
宇佐美の問いかけに句縁は答えた。
「うさみ、ほんとにたいちょうよくなったか? ぐあいだいじょうぶか? ほけんしつ、いったほうがいいんじゃねーか?」
宇佐美をどかすため、頭脳戦に持ち込む句縁。
「柿月よ。なぜそんなことを聞く?」
「おんなのかん」
まったく女らしさのない口調で言う句縁。
「むりすんな、うさみ」
宇佐美は、こんな偽りの優しい言葉に惑わされる男じゃない。この昼休みは句縁の相手をしなくて済みそうだ。
「さすがだ。実は、少しばかり熱がある」
え。
「いわば、高熱だ」
どっちなんだ。
「な。たいおん、はかってこい」
「ああ、そうする」
宇佐美は、すっと立ち上がると教室を出て行った。あのスタスタした足取りなら大丈夫そうだけど、病み上がりだとあまり強くも言えない。
「さて、うさみばらいもすんだし」
厄みたいに言うな。
「しんいちおまちかねの、でしのはなしだけどよー」
句縁は宇佐美の椅子に座って揺れはじめた。
「待ちかねてない」
正直なことを言えば、さすがにちょっと気になってはきている。
「うちのなににひかれたのか、でしにといつめてきた」
詰めるまで問うな。
「なんだったんだ?」
「そんざいかん」
「存在感?」
句縁は得意げに答えた。
「あいつ、じみでとくちょーがないのがなやみらしい。だから、うちみたいに、あっとうてきなこせいをみにつけて、そんざいかんのつえー、めだつやつになりたいらしい」
たしかに句縁は目立つ。クラスの人間が三十人並んだ写真を見せられたら、真っ先に目に止まるのは句縁だ。でも、それは――
「――句縁は小さいから目立つだけじゃないかな」
ぶっちゃけ。
「うちもそうおもう」
意外と自分を客観視してた句縁。
「……で、句縁は弟子に何をさせることにしたんだ?」
小さくさせるのは無理だし。
「ちいさくさせてる」
無理なことやってた。
「どうやって?」
「なんでもかんでも、ふあんになってちゅうちょしろっていってある。すぐにびびってあきらめろって」
「気を小さくさせてどうすんだよ」
「こころのししょうだから」
なるほど。
いや、なるほどじゃない。
「からだをちいさくできないいじょう、こころをちいさくさせるしかねー」
「……句縁」
このままでは、句縁のせいで臆病者が育ってしまう。
「句縁に弟子入りしたいなんて思って、実際に行動に移している時点で、じゅうぶん個性あるんじゃないか。そいつ」
普通の人はそんなことしない。
「おー、たしかに」
句縁は納得した様子で頷いた。
「さすが、うちのでし」
弟子になる前に発揮した行動力だけど。
「しかもいまや、ごびに『でし!』とかつけてるから、キャラつえーなあいつ」
間違ってなかった句縁の指導方針。
「じゃー、あいつはもう、うちのおしえはひつよーねーな。うん。じゃー、もう、そつぎょうだ。はもん!」
「破門は卒業じゃないけど」
「とにかく、あいつをでしにとんのはやめた」
「やめるのか?」
なんだかんだ、楽しそうに見えたのに。
「あのな、しんいち。でしとってみてわかったけど」
句縁は言った。
「たぶん、かれしよりもでしのほうが、めんどくせー」
もっともだ。
「しんいちも、つくるなら、かれしにしとけな?」
それは賛同できない。
弟子に破門を言い渡すために句縁が教室を出ていくと、僕の頭の中に澄んだ声が聞こえてきた。
〝――うらやましいです、柿月さん〟
僕の斜め前の席で突っ伏して寝ている、沙鳥の声。いや、テレパシーだ。
〝沙鳥……。話聴いてたのか?〟
〝そです。いわゆる、又聞きです〟
いや、直接聴いてただろう。
〝……うらやましいって、何が?〟
〝わたしも弟子をとってみたいです〟
憧れるような話だったかな。
〝沙鳥は、弟子に何をさせたいんだ?〟
〝それは弟子ですから、やはり――〟
沙鳥は念を返してきた。
〝――わたしのために毎朝、お味噌汁を作ってもらいます〟
弟子と、添い遂げるな。
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