地獄
理科室の黒板の前に吊られたスクリーンには、ウニの中身みたいな画像が映し出されている。
白衣を着た男の先生は、早口で言った。
「えー、この写真のように、えー、受精卵が細胞分裂していく過程を、えー、卵割と、えー、えー、言います。えー」
生物が発生する時、最初はああいう形をしているらしい。ということは、自分にもあんなウニみたいな頃があったことになる。
全然ぴんと来ない。
でも、理科の時間に堂々と教えているくらいだから、本当なんだろう。この教室にいるみんなも、えーえー言ってる先生も、僕らが普通の人間である以上、全員ウニ時代があったのだ。
なんだか、少し怖い。
〝芯条くん〟
頭の中に、僕の名前を呼ぶ声が響いた。斜め前の席で大人しく座っている女子、沙鳥の声だ。
さっき「僕らは普通の人間」と言ったけど、僕と沙鳥は違う。
僕、芯条信一と沙鳥
〝芯条くん、芯条くん〟
しかし、今はテレパシーで会話をしている場合じゃない。なぜなら、理科の授業中だからだ。沙鳥なんか無視無視。僕は授業に集中したいのだ。
〝授業についての質問があるのですが〟
え。
〝沙鳥……〟
僕は思わず念を返した。
〝いや……本当に、沙鳥?〟
授業について真面目に質問してくるなんて、そんなの沙鳥じゃない。
〝何を言っているんですか。私は正真正銘の沙鳥です。さとりちわー〟
〝そんなオリジナル挨拶ないだろ〟
しかし、そんなことを言ってくるのは紛れもなく沙鳥だ。
〝ちっ、するどい小僧め〟
やっぱり沙鳥だ。
〝授業のことで質問があるの?〟
〝はい〟
どういう風の吹きまわしかわからないし、授業中に割り込んで聞いてくるなら結局邪魔だけど、沙鳥が勉強に興味を持つのはいいことだ。
新学期が始まって、沙鳥も変わろうとしているのか。
〝僕にわかることなら教えるけど、何?〟
〝あのですね〟
沙鳥は念じてきた。
〝地獄ってどんなところですか?〟
僕は沙鳥を信じた自分を恥じた。
〝沙鳥……。それは授業と関係があるの?〟
今は理科の時間。細かく分けるなら、生物の時間だ。地獄なんてファンタジー寄りの単語はどこにも出てきてない。
〝芯条くん。今は生物の時間です〟
知ってる。
〝生きとし生ける全ての命、みないずれは死ぬ定めです〟
急にシビアなこと言いだした。
〝そして、です。生前の行いによって、天国か地獄に行くのです。わたしは、間違いなく天国でしょう〟
大した自信だな。
〝前に「地獄で会おうぜ」とか言ってなかった?〟
年賀状にも書いてたし。
〝あれは社交辞令です〟
大人。
〝ともかく、わたしは地獄に行けませんから、地獄がどんな場所か知ることのないまま、死ぬことになります〟
天国も死んでから知るのでは。
〝でもどんな場所かは興味があるので、知りたいのです〟
〝そう〟
言いたいことはわかった。でも、
〝僕は、生物の発生に集中したいから黙っててくれ〟
僕が念じると、沙鳥は不服そうな念を返してきた。
〝昔のことはいいじゃないですか〟
昔のことって。
〝発生した頃のことなんて、そこまで覚えていませんし〟
〝少しは覚えてるのか〟
脅威の記憶力。
〝芯条くんは、そんなにウニが好きなんですか〟
一応、スクリーンは見ていたらしい。
〝あれはウニじゃない。受精卵だ〟
〝そんなに受精が好きなんですか〟
誤解を招く言い方。
〝地獄がどんなところか教えてくれないなら、芯条くんが受精好きだって学校中に言いふらしてまわります〟
そんなことできないくせに。沙鳥が誰かとしゃべっているところなんて一度も見たことがない。
〝さらにです。Social Networking Serviceで、芯条くんの受精好きを拡散します〟
SNSを丁寧に言った。
〝それは……嫌だ〟
普通に。
〝では、地獄について教えてください〟
仕方ない。芯条、スペース、受精で検索しながらため息を落とす日々は嫌だ。沙鳥の気が済むまで話に付き合おう。
〝でも別に、僕も地獄の専門家じゃないけど〟
〝いずれ地獄へ行くのにですか?〟
〝なんで決まってるんだよ〟
〝芯条くんはいじわるだからです〟
そんなことはまったくないのだけど、沙鳥はそう思っているらしかった。
〝沙鳥は、地獄ってどんなイメージなの?〟
〝過酷でつらいところです〟
地獄だからな。
〝たとえば、ケーキがあまり甘くないです〟
甘かった。
〝沙鳥。まず、地獄でケーキ出ないよ〟
〝……タルトもですか?〟
〝どんなケーキもないよ〟
タルトならセーフとかない。地獄だぞ。
〝それはもう、この世の終わりです〟
〝あの世だよ〟
地獄だから。
〝あの世の終わりです〟
絶望感は伝わった。
〝わたしは地獄をあなどっていました……。つまり、地獄に行ってしまった人は、もうクロワッサンくらいしか食べられないのですね〟
まだ全然あなどっているみたいだけど、面倒なので黙っておいた。
〝あとは地獄といえば、鬼さんですよね〟
なぜか鬼に敬意を示す沙鳥。
〝でも、謎です。鬼さんって、具体的に地獄で何をしているのでしょうか〟
沙鳥は首をかしげるような口調で念じてきた。
〝クロワッサンの仕込みですか?〟
〝平和だな〟
〝芯条くん。平和なんて言ってますけど、クロワッサンの仕込みは大変です。こねたり冷やしたり伸ばしたり冷やしたり〟
論点がずれてきている。
〝クロワッサンなめんなです〟
沙鳥は地獄をなめんな。
〝沙鳥。鬼は人間の監視とかしてるんだと思うよ〟
〝別室でモニタリングですか?〟
ドッキリか。
〝いや、近くで見張ってて罰を与えたりとか〟
〝ああ、です。そういえば聞いたことがあります〟
沙鳥は得意げに念じてきた。
〝鬼さんは、河原にいるんですよね〟
〝
三途の川の。
〝それです。一緒に石を投げて遊ぶんです〟
〝じゃあ、それじゃない〟
僕は訂正した。
〝賽の河原っていうのは、三途の川のそばで、ひたすら石を積まされるんだよ。たしか、石を高く積んで塔か何か作らされる〟
〝現代アートですね〟
たぶん違う。
〝でも、途中で鬼が崩しちゃうんだよ。出来が悪いから、もう一度やり直せって〟
〝崩すところも含めて作品というわけですね〟
だったら現代アートだな。
〝いや、普通につらい作業を何度もさせられるってだけだけど〟
〝うーん、です。あんまり、ぬぽんと来ないです〟
〝ぴんと来い〟
〝そもそも石を積みあげること自体が楽しくないので、崩されてもまあ別にいいかって思いませんか?〟
三途の川で楽しく過ごそうとするなよ。
〝じゃあ、沙鳥〟
僕は沙鳥にわかりやすく説明することにした。
〝クロワッサンの生地を、今自分で作ってるって想像して〟
〝わかりました。……じゅるる〟
生地の段階からヨダレを垂らしている。
〝沙鳥は生地をこねて冷やして、伸ばして冷やして、何回も繰り返しました〟
〝じゅるる〟
脳内ヨダレで相槌を打つな。
〝ようやくオーブンに入れて、やっと完成しました。沙鳥の前には今、とてもいいにおいのするクロワッサンがあります〟
〝じゅるる……。いただきます〟
〝ってとこで、それを見た鬼が「形が良くない」みたいなクレームをつけて、全部ぐちゃぐちゃに踏みつけてしまいました。クロワッサン作りは最初からやり直しです。……これならぴんと来る?〟
〝ひどすぎます……〟
沙鳥は落胆した様子で念じてきた。
〝そんなの……鬼の所業じゃないですか!〟
〝鬼の所業なんだよ〟
正真正銘の。
〝そんなこと言う芯条くんも鬼です! おに条くんです!〟
改名された。
〝うううです。怖ろしいですね、鬼さん……〟
それでも敬意は揺るがない。
〝わたし、賽の河原には行きたくないです〟
沙鳥は懇願するように念じてきた。
〝今までの行いはあらためます〟
あんなに天国に行く気まんまんだったのに、実は不安だったらしい。
〝おに条くん〟
〝芯条です〟
〝どうすれば、パンの河原へ行かずにすみます?〟
そんな河原は知らないけど。
〝賽の河原は……〟
僕は知っている限りのことを念じた。
〝たしか……親より先に死んだ子供が行かされるんだよ。だから、親より長生きすればいいんじゃないかな〟
〝なるほどです……〟
沙鳥は覚悟を決めた様子で念じてきた。
〝……仕方ありません。いざという時は、父と母をみずからこの手にかけましょう〟
物騒なことを言い出した。
〝な、なんで?〟
〝父も母も元気ですから。でも、わたしの方が長生きしなくてはいけないなら……とどめをささなくてはならないのだとしたら、その時はせめてわたしの……、この、手で……〟
いつからそんなシリアスな話に。
〝うに条君〟
〝芯条です〟
スクリーンが目に入ったらしい。
〝命の発生を学ぶ時間に、奇しくも死について考えることになりましたね〟
なってない。
〝いや、沙鳥。親殺しなんて、もっとひどい地獄に落ちるよ?〟
〝そうなんですか?〟
〝そりゃそうだろ〟
たぶん。
〝いずれにしても、地獄からは逃れられないのですね〟
そうかなあ。
〝でも、いいこともありますね〟
〝地獄が?〟
〝ええ〟
沙鳥は念じてきた。
〝天国から地獄へとなると、さすがに届きそうにないですが――〟
〝――地獄同士なら、近くにいればテレパシーも通じそうです〟
それは、地獄だ。
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