野球
黒板には、三角形の上にさかさまの三角形をくっつけたような図形がチョークで作図されている。
この教室にいる人間たちは一人をのぞいて、あの二つの三角形の形と大きさが同じであることを証明する方法を、残った一人から教わらないといけない。
なぜそんな訳のわからないことをしているのかといえば、今が数学の時間だからに他ならなかった。
「ここの角Aと、こっちの角Bは錯角だから同じ角度になるのだよ! なんでかっていうと――」
数学の先生がフランクな口調で解説をしている。
「あー! なるったらなるの! って言いたいところだけど、それだと授業にならないから説明しまーす!」
フランクを通り越してちょっとイライラしているような感じもする。
でも、僕は立派にあの二つの三角形が合同だということを証明できる男になれるように、先生の発する言葉に耳を傾けた。
〝芯条くん〟
耳とは違うところ、頭の中に別の声が聴こえてきた。僕の斜め前の席に座っている女子、沙鳥蔦羽の声だ。
僕と沙鳥は声を出さなくても頭の中だけで会話ができる、テレパスと呼ばれる種類の超能力者なのだ。
〝芯条くん、芯条くん〟
証明のやり方は、しっかり覚えないと本当に訳がわからなくなる。沙鳥もちゃんと授業を聞いた方がいい。ここはスルーだ。
〝今、もしお暇でしたら――〟
暇では絶対にない。
〝――野球しようぜです〟
思わぬ問いかけが来た。
〝沙鳥……〟
無視しようとも思ったけど、僕は沙鳥のために適切な念を返すことにした。
〝嫌だよ〟
〝まさかです。そんなにはっきり断るとは思いませんでした。今日の芯条くんは、ヌーと言える日本人ですね〟
〝ノーと言わせて〟
ヌーはアフリカの草原で食われるやつだ。
〝うーんです。残念です。男の子はみんな野球が好きだと思ったのですが〟
〝だとしても授業中だよ?〟
あと僕はそこまで好きでもない。
〝……急に野球だなんてどうしたんだ?〟
〝きのう、Japan Series が盛り上がってたじゃないですか〟
無駄にいい発音。
〝日本シリーズのこと?〟
〝それです。本シズです〟
そんな略し方は誰もしないけど。
〝なんとなくテレビで見ていたのですが、なんか、おじさんたちのチームが勝ったんですよね?〟
どっちも基本おじさんたちのチームだろう。
〝最後は逆転サヨナラ満塁おじさんホームランが決め手でした〟
おじさんは余計だ。
〝で、がんばったおじさんたちがワーッと集まって、親玉のおじさんをわっしょい攻めにしていたんです〟
わっしょい攻め。
〝……胴上げのこと?〟
〝それです〟
長い戦いを勝ち抜いてようやくつかみ取った日本一を、そんな雑な表現にされるとはおじさんたちも思わなかっただろう。
〝すごくうらやましいなと思いまして。わたしもいつかがんばったおじさんたちにわっしょいされたいのです〟
下はおじさんたちでいいのか。
〝それで、まずは野球について詳しくなろうと思ったのです〟
たぶん間違った努力だ。
〝というわけで芯条くん。野球しようぜです〟
僕を巻き込まないでほしい。
〝いや、証明しようぜ〟
数学の、証明の時間なのだから。
〝わかりました。わたしがいかに野球を愛しているか証明しましょう〟
そうじゃない。
〝わたしはセ・リーグも、ペ・リーグも愛しています〟
いきなりつまづいている。
〝パ・リーグだけど〟
〝惜しいです〟
惜しいとかいう問題じゃない。
〝沙鳥。実は野球全然わかってないだろ〟
〝よく気づいたな。野球小僧め〟
野球小僧ではない。小僧でもない。
〝そうなんです。いまひとつルールがわからないのです〟
それでよく他人を野球に誘えたな。
〝今わかっていることは、あのおじさんたちも、決して全員が女子アナと結婚できるわけではないということです〟
そんな偏った物の見方をするな。
〝まずわからないのは、光とか闇とかいうのはどういうことですか?〟
わからないのはこっちだった。
〝それ野球の話?〟
〝言うじゃないですか。一回の光の攻撃とか。二回の闇の攻撃とか〟
なんだかファンタジーな戦い。
〝沙鳥。それは表と裏だ〟
僕は沙鳥の野球人生のために正しい情報を教えてやることにした。
〝ホームのチームとビジターのチームがあるのはわかってる?〟
〝はい。なんとなくですが〟
なんとなくかい。
〝その球場がふるさとのチームがホームで、よそ者さんの方がビジターです〟
なんとなくだな。
〝まあ、そんなところで合ってる〟
〝わーいです〟
〝野球って攻撃側と守備側が毎回交代するだろ〟
〝スリーアウトでchangeですね〟
〝そう。で、ビジター側が攻撃する時間が表で、ホーム側が攻撃する時間が裏だ〟
〝おやおやです。せっかくホームなのに、闇の方なんですか〟
〝裏だよ〟
闇のイニングなんてない。
〝裏の方が有利なんだよ。もし最後の九回の表まで点数で負けてても、裏の攻撃で逆転できる可能性があるだろ〟
〝なるほどです。わかりやすいです。野球小僧から野球太郎に昇格です〟
それは昇格なのか。
〝ではです。たまにバッターにギタリストさんがまざってるのはなぜですか〟
そんな野球は見たことない。
〝ギタリスト?〟
〝だいたいの人は思いっきりバットを振っているのに、たまにギターみたいにバットを構えてコツンとぶつけるおじさんがいるのです〟
なるほど。
〝それはバントだよ〟
〝ギター一人だけの編成なのに?〟
〝バンドの話はしてない〟
ややこしくなった。
〝あれはバントっていう打ち方だよ〟
〝せっかくプロになれるくらい野球が好きなのに、どうしてもっとがむしゃらにバットを振らないんですか?〟
〝いや、あれは別に手を抜いているわけじゃ……〟
〝武道館でライブをする夢があきらめきれないからですか?〟
だからギタリストじゃない。
〝女子アナさんに振られたからですか?〟
いったんその情報は忘れろ。
〝沙鳥。あれはわざとああやってるんだよ。スイングするよりボールに当てやすいし、場合によってはああやって手前にボールを落とされた方が守備側は取りにくい〟
たぶん。
〝でもです。あのコツンをした人はだいたい、その後アウトになります〟
〝それは犠牲バントかな。自分がわざとアウトになるかわりに、前のランナーを先に走らせてるんだよ〟
たしか。
〝「ここは俺がひきつける! お前らは先に行け!」ってやつですか〟
〝まあ……そんなとこかな〟
間違ってはない。
〝なんですか、芯条くん。バントする人、かっこいいじゃないですか〟
沙鳥からのバントの評価が百八十度変わった。
〝さすが元ギタリストです〟
その設定だけは曲げない。
〝なるほどです。芯条くん。野球太郎から、野球次郎に昇格です〟
なんとなく降格した感じがする。
〝ではでは次の質問です〟
〝別にそういう時間じゃないんだけど〟
芯条信一の野球教室って感じになってきた。そんなに詳しくないのに。
〝どうして昨日は、誰もユニフォームを脱いで裸にならなかったんですか?〟
思わぬ質問が来た。
〝どういうこと?〟
〝すみません。もう少し詳しく聞きます。どうして負けたチームのおじさんはユニフォームを脱がなかったんですか?〟
やはりわからなかった。
〝そこが野球の一番の見せ場だと思っていたのですが〟
そんな野球はない。
〝昨日は日本シリーズで、特別仕様だったからですかね〟
〝いや、沙鳥。どんな試合でも誰も裸にならないよ〟
〝そうなんですか。負けたら脱がないといけないものと考えていました〟
まさかそれは――
〝沙鳥。それ、野球拳じゃないかな〟
〝やきゅうけん?〟
〝うん。野球に
〝酔拳とどちらが強いですか?〟
拳法ではない。
〝野球拳は、二人がリズムにあわせてじゃんけんをして、負けた方が服を一枚ずつ脱いでいくゲームだよ〟
〝なるほどです〟
沙鳥は納得した様子で念を返してきた。
〝つまり、野球の服を脱ぐルールを参考にしたから、野球拳と名付けられたわけですね〟
違う。
〝いや、脱ぐのは野球拳のオリジナルだと思う〟
〝おやおやです。それでは野球拳と野球はどういう関係があるんですか?〟
〝それは――〟
なんだろう。まったくわからない。たしかにあの踊りながらじゃんけんをして服を脱ぐ遊びの、どこに野球のテイストがあるのだろう。アウトとかセーフとかいう言葉は出てくるけど……。
〝ごめん。それは知らない〟
考えてもわかることではなかった。
〝むむむです。そうですか〟
沙鳥は残念そうに念を飛ばしてきた。
〝それでは芯条くんは、野球次郎から降格です〟
これは仕方ない。
〝ずぶ濡れの犬に降格です〟
野球を外されたどころか、人ですらなくなってしまうとは。
なんだかわからないけど、すごく心外だ。これは沙鳥をうならせて立派な人間に戻るために、野球と野球拳のルーツについてもっと調べておかなければ――
――じゃなかった。そんなことしてる場合じゃない。
ただでさえ苦手な数学の時間に、まったく関係ない野球のことばかり考えていてはだめだ。授業に集中しよう。
「あー!」
図形の作図がいつも以上にうまくいっていない先生は、まだイライラしている様子で言った。
「あー、もう! くやしい! はぁ……」
先生は嘆きながら言った。
「あそこで逆転サヨナラかぁ……」
今日の授業は、先生も上の空だったらしい。
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