小林さんの夏
わたしはインターホンのボタンを押した。
そばには「
ごめんなさいっ。
意外なんて言ってごめんなさいっ。柿月さんがちんちくりんだからって家もちんちくりんなんてわけないですよね。ああっ、ちんちくりんなんて言ってごめんなさい。
「はい、どちらさまですか?」
スピーカーから若い男の人の声がした。お兄さんだろうか。弟っていう線は考えにくいし……。
って、何勝手に決めつけてんの。ちっちゃいからって末っ子とは限らないじゃない。ああ、わたしは偏見のかたまりです。
「……あのー?」
スピーカーの中から困った様子の声が聞こえてきた。
「ああっ、わたしごときが人様の貴重な時間を奪ってごめんなさいっ!」
「そんなに謝らなくていいけど、どちらさまですか?」
「柿月……
はっ。
「お、教えてあげるなんて上から言ってますが、わたしもほんとはそんなに頭よくないですっ!」
「はあ」
「ああっ、わたし『も』なんて言ってますが、句縁さんの頭が悪いと言ってるわけではないですっ!」
「……あの、小林さん。落ち着いて」
もっともなご意見。
「落ち着きますっ!」
「うん。今、開けるから待ってて」
わたしは言われた通りに待った。
夏休みもあと三日で終わりという今日。わたしはクラスメイトの柿月さんに電話で呼びだされたのだった。
イメージ通りと言ったら失礼だけど、柿月さんは宿題がとどこおっているらしくわたしに助けてほしいとのことだ。
柿月さんとわたしは、学校で特別仲がいいわけじゃない。
違う。こんな教室の床のホコリ以下の価値もあるかどうか疑わしい存在のわたしには特別に仲のいい人なんて誰もいない。
なのに宿題のためとはいえ、わたしを夏休みに自分の家へ招待してくれるなんて。
柿月さん、なんていい子なんだろう。そんな柿月さんのためなら、わたしはどんな宿題だって力になるよ。
それに柿月さんと仲良くなれば、柿月さんと仲の良い芯条くんと仲良くなるチャンスだってあるかも……。
ばかっ!
何を不純な目的で柿月さんに近づこうとしてるの小林。そんなの最低じゃないっ。
いやいやっ!
芯条くんと仲良くするのは別に不純なことじゃないじゃないっ。それを不純だと思う、わたしの心が不純だよ。
じゃあ、やっぱり不純じゃないっ。
……はあ、何考えてんだろ、わたし。落ちつけ。落ち着こう。よし、落ち着いた。
ガチャ。
ドアの向こうから鍵が開く音がした。
柿月さんのお兄さんってどんな人だろう。やっぱりちっちゃくてのんきな顔をしているんだろうか。
わたしがそんな失礼極まりないことを考えていると、ドアが開いて見たことのある顔が出てきた。
芯条くんだった。
「は?」
あまりに突然すぎて、わたしは失礼な声をあげてしまった。
「あ。ごめん、句縁じゃなくて」
謝っている。芯条くんがわたしに謝っている。
なんてこった。謝るのはわたしの仕事だ。
「ち、違うの! 芯条くんが出てくるなんて思わなかったから! ごめんなさいっ」
「いや、全然いいけど」
全然よくない。なんで……。
なんで柿月さんちに芯条くんがいるの???
芯条くんはまるで自分の家のように柿月家の中を案内して、わたしを畳の居間に通してくれた。
促されるままに大きなちゃぶ台の前に座る、わたし。その向かい側に、芯条くん。机の上に、ちっちゃな扇風機。なにこの状況。
「今、句縁ちょうど出ちゃって」
芯条くんはさっきから柿月さんを下の名前で呼んでいる。
「あいつ、ノートも買ってなかったらしいんだ」
あいつ、とさえ言っている。
「だから、お茶でも飲んで待ってて」
なぜ柿月家の茶を芯条くんが出せるのだろう。
「あの、小林さん?」
「ははは、はい」
不意に名前を呼ばれてわたしはどぎまぎした。
「僕の話聞いてる?」
「聞いております!」
ああ、なんだその固い言い回しは。軍か。軍部の人間なのか、わたしは。もっとフランクにしなさい、小林っ。
「あ、あのさ。芯条くん」
よかった。ちゃんと「しんじょう」って発音できた。わたしはとりあえず、根本的な疑問について尋ねることにした。
「どうして柿月さんちに、芯条くんがいるの?」
芯条くんと柿月さんが、昔からの幼馴染だというのは知っている。
でも、だからといって、本人が家にいないときに客人の応対までしているのというのは、同棲でもしていないとさすがに筋が通らない。
どどど、どうせい??
「あれ? 句縁から何も聞いてないの?」
芯条くんが不思議そうに言った。
「どど、どうせいのことっ?」
「どうせい?」
「わぁ、なんでもないっ」
ばか。ばか小林。小林ばか。こばかやし。こばかし。
焦るわたしをよそに芯条くんは言った。
「宿題教えてほしいから、僕と小林さんのこと呼んだって句縁に言われたんだけど、小林さんには僕のこと伝えてなかったのかな」
「う、うん……」
ないよ。
くうう、柿月め。芯条くんがいるってことを先に伝えてくれたら、もっとオシャレな服着てきたのに、どうしてくれるのさ。
いいえ、すみません。
オシャレな服なんて、小林の家のクローゼットには入っていないのでした。結果は同じです。見栄を張りました。どうぞ煮るなり焼くなり蒸すなりしてください。
それにしても、とんでもないことになっちゃった……。
柿月さんに宿題を教えにきたら、まさか、芯条くんと部屋で二人っきりになるだなんて。どうしよう。困るよ……。
ううん、きっとこれはチャンスに違いない。
思えばこの夏休み、小林にはろくなことがなかった。
家族で遊びにいったプールで変なクレープを食べてお腹を壊したり、子供の頃から飼ってる猫が逃げたり、出かける前に熱が出てお祭りに行けなかったり……。
でも、そんな不幸も今日のラッキーでチャラだよ。
さぁ、芯条くんと仲良くなるチャンス。何かしゃべらなきゃ。
「ね、ねねねねえ。ししし、芯条くん」
だめだ。意識しすぎるとこうなる。
「芯条くんは、しゅ、宿題終わったの?」
ああ、こんなの愚問だ。他人に教えにきてるくらいなんだから、そんなの完璧に終わってるよ。
「数学だけ、まだ終わってなくて」
終わってないよ。芯条くんは数学苦手なんだから。補習で放課後に残らされちゃうくらいなんだから。
「……そ、そっか」
「うん」
ああ、もう、そっかじゃないでしょ、小林。そこは「じゃあわたしが教えてあげるね」って言うところでしょ。はぁ? 言えるかそんなもんっ。
「わわ、わたしも、全部は、終わってないんだ……」
「そうなんだ」
「うん」
……話が続かない。
聞いてみたいことなんてたくさんあるのにな……。
芯条くん、どこに住んでるんだろう。休みの日、何してるんだろう。ついつい食べちゃうお菓子ってなんだろう。最近はまってることってなんだろう。寝るときどんな服着てるんだろう。お風呂に入ったらどこから洗うんだろう。
なにそのグラビアアイドルにするみたいな質問っ!
ああ、こんなときに私がテレパシーでも使えたらなあ。きっと簡単に仲良くなれるんだろうなあ。
いや、だめだめ。お風呂うんぬんみたいなこと考えてるのがバレたら困るよ。それにいきなり脳に直接話しかけられたら、芯条くんだってひいちゃうよ。
テレパシーなんてなくてよかった。
なんにせよ、気まずい。扇風機の音だけ、むなしくブーンと鳴っている。何か、おもしろい話なかったっけ……。
そうだ。
夏休みに不思議な出来事があった。
ある日、小林家で飼ってる猫のソーリが逃げ出した。理由はわたしがしっぽを思いっきり踏んじゃったこと。つまり、わたしが百パーセント悪い。
わたしは家の近くのソーリがいそうなところをまわって、ひたすら謝った。駐車場、側溝の下、花壇の植え込み、余所見杉の林道……。ソーリは出てこなかった。
でも、奇跡が起きた。
ソーリを見つけたという女の子が、うちに電話をくれたのだ。
その子はたまたま迷い猫を見つけて、すぐにうちの猫だと気づいたらしい。チラシを配ったわけでもないのにうちの猫だとわかったのは少し怖いけど、親切には違いない。
しかも、その子はソーリを捕まえたから届けてくれるという。
ああ、本当によかった。
私はその子が来るのを待った。お礼におばあちゃんの田舎から送ってくれたおっきなスイカをひとたま用意して待っていた。
その子が来た。わたしはドアを開けた。
で、腰を抜かした。
だって、その子はなぜか、はんにゃのお面をつけていたのだ。
ふふん。なかなかこんなおもしろエピソードはないでしょう。この話ならきっと芯条くんも興味を持ってくれるに違いない。
わたしは、芯条くんに声をかけた。
「あ、あ、あのさ、芯条くん」
「うん」
「あの、そ、その……」
「ただいまー」
まぬけな感じの声がして、芯条くんはそちらを向いてしまった。
「句縁」
いつのまにか柿月さんが帰ってきていた。袋にも入れずに買ったばかりのノートを抱えている。
柿月さんはわたしに気づいて言った。
「お、こばやしさん。なんでいんの?」
えー。
「宿題を教えに……」
「ああ! そうだったなー。ごめん、ありがとなー」
「……ううん」
芯条くんに、おもしろエピソードを披露するタイミングを逃してしまった……。
まあ、でも宿題が終わって時間があったら話せばいいか。今日来たのはあくまでも柿月さんの宿題のためだからね。
芯条くんにこうして会えたのも柿月さんのおかげだ、まずは柿月さんの力になってあげなきゃ。恩を忘れて芯条くんに集中しちゃってごめん、柿月さん。
「そうだ。こばやしさん」
柿月さんはわくわくした顔で言った。
「あのはなし、またきかせてよ」
いや、宿題やろうよ。
「何の話?」
「ほら! このまえいってた——」
柿月さんは満面の笑みを浮かべて言った。
「はんにゃのおめんにあったはなし!」
柿月さん……。
先にオチ言ってんじゃねーよっ!
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