秋冬
訓練
数学の先生が黒板に円を描いた。
あのどでかいコンパスを忘れたらしく、フリーハンドだ。うまくいかずお米のような形になってしまい、慌てて消して描き直している。
新学期も始まってしまえば新鮮味がない。九月に入ってから一週間も経っていないのに、死ぬ気で宿題をやり終えたあの八月はもうはるか昔のようだ。
宇佐美が夏休み明けから大胆に変えて明らかに失敗している髪型も、すぐ後ろの席にいる僕は四六時中見ているからもう慣れてしまった。
こうやって、すべては日常になっていくのだろう。
〝訓練、訓練〟
頭の中に女子の声が聞こえてくる日常に。
僕、芯条信一と、斜め前の席の女子、沙鳥蔦羽は、声を出さなくても頭の中で会話をすることができる、テレパスと呼ばれる超能力者だ。
〝訓練、訓練〟
沙鳥は授業中でも構わず僕の脳内にテレパシーを飛ばしてくる。一学期はずっとそんな日常を続けさせられていたけど、二学期もどうやらそうなりそうだ。
〝ただいま、数学科資料室より、火災が発生しました〟
あんまり火災が起きそうな部屋じゃないけど。
〝さらに、美術室、柔道場、多目的教室からも、火災が発生しました〟
燃えやすい素材でできた校舎なのかな。
〝それから、職員室、体育教官室、校長室からも、火災が発生しました〟
そうなるともうテロだな。
〝放送室からも火災が発生しました〟
じゃあ逃げなよ。
〝拷問部屋からも火災が発生しました〟
学校の闇が明らかに。
〝じめじめカビまみれルームからはキノコが発生しました〟
なにその部屋。
〝キノコが発生した上で、火災も発生しました〟
炎が湿気に勝った。
〝生徒のみなさんは、慌てずに落ち着いて、辞世の句を準備してください〟
〝あきらめるなよ〟
最悪の決断を促す脳内放送に、僕は思わずテレパシーで反応してしまった。
〝おや、その声は芯条くんですね〟
そりゃそうだ。他にテレパシーが使えるやつはいない。
〝さすがです。よく今のが放送ではなく、私のテレパシーだと気づきましたね〟
〝わかるよ〟
こんな放送が実際に流れたらパニックになる。
〝それにしても、まだ警報鳴りませんね〟
〝そうだな〟
そうなのだ。今日は朝のホームルームで「どこかで避難訓練があります。りめんばー」と担任の先生が言っていた。
今は四時間目だけど、ここまでまだ放送はない。
〝忘れちゃったんですかね〟
そんなことはないと思う。
〝マッチを持ってくるのを〟
沙鳥が不思議なことを言っている。
〝沙鳥、もしかして本当に火をつけると思ってないか〟
〝違うんですか?〟
〝違うだろ〟
実際に火をつけたら訓練じゃなくなる。
〝なんだです。フィクションだったんですね。残念です〟
〝学校が燃えないことを残念がるなよ〟
〝それもそうですね〟
沙鳥は納得した様子で念じてきた。
〝病気の子供はいなかったんだ、というのと同じですね。炎の力が暴走して制御ができなくなった生徒はいなかったんだ、ということですね〟
〝そんなやつ、もともといないよ〟
沙鳥と何の意味もない会話をテレパシーでしている間も、数学の先生は円を描くことに苦戦していた。理想的なフォルムの円にこだわっているみたいだ。
僕は気づいた。これはおそらくこの時間に訓練の放送があるな。先生はどうせこの授業は無駄になると知っているから、あまり真剣に教える気がないのだ。
〝沙鳥。たぶん、そろそろ警報鳴ると思うよ〟
〝なんでわかるんですか。エスパーですか?〟
〝そうだけど〟
ただしエスパー能力はテレパシーのみで、これはただの勘だ。
〝沙鳥、ちゃんと避難するとき『おかし』守れよ〟
僕は真面目に生きることを信条にしている。当然、避難訓練も全力で避難の訓練をするつもりだし、決まりは守るつもりだ。
〝芯条くん。いくら私でも、学校にお菓子を持ちこんだりしません〟
〝そんな話はしてない〟
沙鳥の思考は基本的に食が優先だ。
〝『おかし』って言うのは、避難するときに守らないといけないことの頭文字をとった言葉だよ〟
〝へー、です。そんなのあるんですね〟
たぶん沙鳥だって小学校で教わったと思うんだけど。まあ、忘れっぽいし、そもそもあまり人の話をちゃんと聞いてないからな。
〝お、か、し、ですか――〟
沙鳥は念じてきた。
〝おっとっと、カール、シゲキックスですね〟
お菓子。
〝だからお菓子じゃなくて、守らないといけないことだって〟
〝カールは貴重です。ストックがあるなら守りたいところです〟
そんな話はしてない。
〝いや、そうじゃなくて、心がけの話だからさ〟
〝うーんです。それでは、『お』はなんです?〟
〝沙鳥はなんだと思う?〟
やや間があって、沙鳥は念じてきた。
〝『落ち着け』〟
たしかに。
〝落ち着いた方がいいけど、この『お』は『押さない』の『お』だ〟
〝自爆スイッチをですか?〟
不穏な単語が出た。
〝なんでそんなもん持ってる。人を押すなってこと。焦って前の人を押して倒したりしたらあぶないだろ〟
〝なるほどです。では、自爆スイッチは押してもいいんですね〟
〝だめだろ〟
この世から避難してどうする。
〝それで、次の『か』は――〟
〝あ、待ってください。今度こそ当てます〟
沙鳥はたっぷり間をとってから念じてきた。
〝……『カニ』?〟
なぜ。
〝せめてもうちょっと心がけっぽい答えにしてくれ〟
〝では、『カニになる』〟
なぜ。
〝カニの横歩きのようにのそのそ歩きましょうということです〟
偶然にも正解に近づいた沙鳥。
〝ちょっと惜しい。正解は『かけない』だ。焦って走って転んだりしないようにしましょうってこと〟
〝なるほどです。では、縦に進んでも問題ないですね〟
〝むしろ縦以外に進むな〟
避難訓練の『おかし』の説明ってこんなに時間かかるものだっけ。
〝では残るは『し』ですね〟
〝ああ〟
〝ここまで『押さない』『駆けない』と来ていますからね。次も『ない』攻めでくることはお見通しですよ〟
誰も何も攻めてない。
〝『し』で始まって、『ない』で終わり……〟
たぶん沙鳥は『死なない』とか言うんじゃないだろうか。
〝わかりました〟
沙鳥は自信ありげに念じてきた。
〝『幸せはお金じゃない』〟
いいこと言った。
〝避難と関係ないな〟
〝そんなことないです〟
沙鳥はもっともらしく念じてきた。
〝火事の中、今にも燃え落ちそうな柱の奥に金庫があるとします。取りに戻った方がいいか迷った時にこの言葉を思い出すのです。そうだ。幸せはお金じゃない。今は避難を優先しよう〟
なるほど。
〝まあ、そう言って向かった出口も、もうすでにふさがれているんですけどね〟
〝悲しいな〟
そこは無事脱出させてくれ。
〝というわけで、『おかし』というのは『落ち着け、カニ、幸せはお金じゃない』でよろしいですか?〟
〝全部自分のを採用するなよ〟
なんかカニに説教してるみたいになった。
〝最後の『し』は『しゃべらない』だよ〟
〝『しゃべらない』ですか……。それは困りました〟
困らないだろう。なぜなら、沙鳥が人としゃべっているのを見たことがない。普段から四六時中できていることだ。
〝どうして、しゃべってはいけないんです?〟
〝余計なことをしゃべってたら、危険への注意がおろそかになるからじゃないかな〟
〝では、余計なことでなければいいんですね〟
〝いいんじゃないかな〟
〝売っているのはお野菜なのにどうして八百屋さんと呼ばれているのか、という話ならどうです?〟
〝しゃべらない〟
絶対に余計だ。
ジリリリリリリリリリ……!
耳障りな警報がやかましく鳴りだした。やはり僕の読み通り、避難訓練はこの時間だったのだ。
ほどなくして、校内放送が流れ始めた。
「訓練、訓練、どりる。ただいま、理科室より火災が発生しました、さいえんす・るーむ・ふぁいあ・めらめら。生徒のみなさんは、先生の指示に従って避難してください、ぐっどらっく。繰り返します、わんもあ。訓練――」
放送が終わると、数学の先生は僕らの方を向いて悔しそうに言った。
「うぁー、そっかぁー! 今日、避難訓練かぁー! せっかく、きれいなマルかけたのにぃー! もったいなぁーい!」
僕の読みは外れていた。先生は訓練のことは忘れていて、普通に不器用でうまく円が描けないだけだった。
「ふぇーい、会心の出来だったんだけどなぁー……。しょうがない、ずらかりますかぁ!」
そんな夜逃げみたいに。
「それじゃ、みんな『お・か・し・も』を守って、校庭に避難しましょーう!」
先生がそう言うと生徒たちは席を立ち始めた。
〝芯条くん〟
沙鳥は無言で起立すると、僕に振り向きもせずに念じてきた。
〝『も』はなんですか?〟
〝『も』は、たぶん『もどらない』じゃないかな。他の小学校出身のやつが、自分とこではそう教わったって言ってた気がする〟
〝なるほどです。ローカルルールですね〟
トランプの大富豪感覚。
〝では、私と芯条くんの場合は『て』が必要ですね〟
〝『て』?〟
〝『テレパシーを送らない』です。『しゃべらない』と一緒で、無駄話で気が散ってしまったらあぶないですから〟
〝……そうだな〟
まったくその通りなんだけど、沙鳥には言われたくなかった。テレパシーで気を散らせるのは基本的に沙鳥のすることだからだ。
〝つまり、さっきの『おかし』に『て』を足して――〟
沙鳥は一文字ずつ確認しながら、僕の頭へと念じてきた。
〝――『お、か、し、て』〟
沙鳥は無邪気に続けた。
〝私たちは『おかして』を守りましょう。合言葉は『おかして』です〟
この会話がテレパシーで良かったと、心から思った。
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