林だから仕方がないけど、蝉がうるさい。


 余所見杉という大きな杉の木は、小高い山の中にある。樹齢は七百年くらいあって、そこそこ神聖な木として地元の人には知られている。


 杉の木へ向かう道は適度な傾斜があってそれなりに体力を使うのでジョギングや散歩に使う人もいる。


 僕は今、油絵の道具を持ってその道の入り口の前にいた。


 夏休みの美術の宿題は風景画だ。余所見杉のそばには簡素な展望台もあるから、そこから町の眺めを描くのだ。


 決して他の宿題が進まないから気晴らしを兼ねて外に出てきたわけではないのだ。あくまで美術の宿題のため。


「おや、同志Sじゃないか」


 いざ山へ入ろうとすると後ろから聞き覚えのある声がした。振り向くとそこにはポップなイラストのオバケのお面があった。


「O先輩……」


 O先輩は僕の通う余所見中学校の一つ上の先輩で、なぜかいつも自分や他人をイニシャルで呼び、なぜかいつも一つ目のオバケのお面をつけている女子だ。


 いつもと違うのは制服じゃないこと。今日はブラウスにジーンズ姿でオバケのお面をつけている。


「さすがオカルト否定研究部の一員、同志Sだ。噂を聞きつけたんだね」


 そんなのの一員じゃないし、僕は芯条信一だし、何の噂も聞いてない。


「違います。写生の宿題に来たんです」


 僕が否定すると不意に耳元でか細い声がした。


「美術っすね」


「わ」


 僕は身をひるがえした。見ればすぐそばに、角にリボンをつけたはんにゃのお面の女子がいる。こっちはスカートだ。


「B先輩、いたんですか」


 B先輩はO先輩と同じくオカルト否定研究部の一員だ。かなり近寄っても気配がなく存在に気づきにくい。いつのまにそんな間合いまで来たんだ。


「いたっす」


「……何やってるんですか、二人して」


「わかりきったことを聞かないでほしいな」


 O先輩は言った。


「オカルトを否定しにきたのさ」


 O先輩とB先輩はオカルト否定研究部の一員だ。よくわからないけど、幽霊だとか超常現象だとか非現実的なものの噂を聞きつけては、その存在を否定することを活動内容としている、らしい。そしてお面をつけている理由は、こんな非科学的な存在はいないのだという皮肉の意味、らしい。


「……受験勉強はいいんですか?」


 二人は三年生だから受験生だ。夏を制するものが受験を制すると聞く。僕以上にこんなところで油を売っている場合じゃないと思う。


「わかっていないね」


 O先輩は言った。


「先に己の欲求を満たしておいた方が、その後、邪念なく受験勉強に集中できるというものなのだよ。なあ、B」


「完璧な計画っす」


 僕は案外、二人と気があうかもしれない。


「……で、噂ってなんなんです?」


 オカルトを否定したいというのだから、否定したくなるようなオカルトの噂が流れているのだろう。


「よくぞ聞いてくれた。我々が得た情報によれば、最近この余所見杉に行く途中の道で夜になると幽霊の声が聞こえるという噂なのだ」


「若い女の声っす」


「それは『ごめんなさい』と何かを謝っているそうだ」


「加害者っす」


「しかし、幽霊など存在しない。だから我々が調べて否定する」


「以上っす」


 B先輩の補足もあり、事情はよくわかった。でも、


「……えっと、それなら、なんで昼間に来たんですか?」


 今は午後一時すぎだ。こんな明るい時間では出る霊も出ない。


「昼間は幽霊も油断している。その隙をついて否定する」


 言ってることが無茶苦茶だ。


「夜は暗くて怖いっすから」


 B先輩はわりと正直だ。





 というわけで、僕とO先輩とB先輩は木々に囲まれた道を登っていた。


「出てくるがいい幽霊くん。わたしが否定してあげるよ」


 何がしたいのかはよくわからないけど、O先輩はやる気だ。


「さあ、声を聞かせたまえ」


 この蝉のうるささでは、幽霊が相当がんばらないと無理じゃないだろうか。


「O先輩」


 粗く舗装された段差を登りながら僕は気になっていることを聞いた。


「先輩はオカルトが好きなんですか?」


「愚問だね」


 O先輩はお面をつけた顔を反らしながら言った。


「我々はオカルトを否定したいのだ。否定したいものを好むはずないだろう」


「でも、わざわざ探しに来るってことは、幽霊に会いたいんじゃないですか」


「わかっていないな」


 O先輩は言った。


「幽霊だけではない。我々が否定したいのは、超能力、超常現象、妖怪、幻獣、宇宙人……、そういった非科学的で非現実的なものの存在だ」


「はあ」


「おっと、あとUMAもだ」


「で、会いたいんですか?」


「だから、存在しないことを証明したいのだよ。会いたいわけが……」


 不意に、そばの茂みが揺れた。


「む」


 先輩は音のした方にお面の顔を向ける。


「ツチノコか?」


 O先輩がお面の一つ目を輝かせた、ように見えた。


「いえ、猫っす」


 音もなく茂みに近づいたB先輩が、猫をあっさりと抱え上げた。


「そうか……」


 表情こそわからないけど、すごくがっかりしている。猫を見つけただけで大騒ぎする人だっているのに。


 やっぱり、オカルトに会いたいんじゃないか。



 展望台からの町の風景は久しぶりに見た。前に登ったのはいつだっけな。


「ゼェ……ゼェ……」


 ご覧の通り、決して体力のあるタイプではない僕にとって、宿題のためでもない限りあまり足の向く場所ではないのだ。


「出てくるかな。幽霊くん」


 O先輩は元気だ。あんなお面つけてるくせに一切息も乱れていない。


「O先輩……。幽霊は途中の道に出てくるんじゃないんですか」


 そういう話だった。


「わかっていないな、同志Sよ」


 一つ目のファンシーなオバケは得意げに語りだした。


「これは私の仮説だが、若い女の霊とは杉の木の化身ではないかと思うのだ。樹齢七百年程度では、杉の古木としてはまだまだ若いからね」


「はあ」


 納得できるような、できないような。


「つまり、声の正体はこの余所見杉だ。杉の木のそばの方が、きっと声が聞こえる可能性は高い」


 O先輩は余所見杉をお面の目でじっと見つめている。


 先輩は若いと言ったが立派な杉だ。大人が手をつないで幹をぐるりと囲むとしたら十人以上必要だろう。この木から聞こえる声が若い女性のものなら、かなり意外だ。


「……聞こえたらどうするんです?」


「その声が何者かの仕組んだ細工であることを暴く」


 ややこしいことを計画している。


「……まあ、がんばってください」


「同志Sも宿題が終わったら参加してくれていい」


「わかりました」


 なるべくゆっくり宿題をやろう。


「そういえば、B先輩の姿がないですけど」


 現れるときも不意打ちなら、いなくなるのも不意打ちだ。いなくなったことにまったく気づかなかった。


「いつものことだ。気にしなくていい」


 僕からしたら、こっちの方がよっぽど不思議現象なんだけど。


 僕はベンチに座って町を見下ろし、両手の指でフレームを作ってみた。なんとなく絵描きっぽい気分。


「その隙間から気功波を出すのかな」


 隣に座って杉の木の声をひたすら待っているO先輩が言った。


「出しません」


「だろうな。気功波など存在しない」


 構っていたら面倒な話になりそうだ。ここは黙々と宿題に取り組もう。


 鉛筆でおおざっぱに下絵の線を描きながら、僕は杉の木の声のことを考えた。杉の木がしゃべるなんてことは本当にあるのだろうか。


 普通に考えれば、ありえない。でも、僕は実在する不思議なことを一つ知っている。それは何を隠そう僕自身だ。


 僕、芯条信一はクラスメイトの沙鳥蔦羽とテレパシーで会話をすることのできる、テレパスなのだ。


 O先輩。あなたが必死で探し求めるオカルトは、あなたの隣にあります。


 ……。


「同志Sよ、このOのことをなぜじろじろ見る」


「あ、すみません」


 いつの間にかO先輩を見ていた僕は、町の眺めに顔を戻した。


 ふと思ったのだ。否定したいとは言っているけど、O先輩はオカルトが大好きだ。


 じゃあ、僕がテレパスだと知ったら、僕を好きになるのだろうか。


 そこで僕は気がついた。お面のせいで実感が湧いてなかったけど、今、僕は女子の先輩と人気のないベンチで二人きりじゃないか。


 途端に何かむずがゆくなった。この状況を誰かに見られたら……。いや、見られても別に問題はない。昼間の山の中で見るオバケのお面は、滑稽さがすべてに勝つ。


 でもやっぱり、あまり見られたくない気持ちがある。


 なんだこれは。


「声、聞こえたっすか」


「わ」


 また突然声がした。


 振り向くとB先輩がいた。何やら丸いものが入ったスーパーの袋を持っている。大きさから考えて確実にスイカだ。これを持って登ってきたなら大した体力だな。オカルトなんて辞めて二人とも運動部に行くべきなんじゃないか。


「B、霊の声はまだだ。この私の気迫に怖じ気づいたのかもしれない」


 こんなかわいいイラストに気迫も何もない。


「……B先輩。どこに行ってたんですか?」


 突然いなくなって、突然戻ってきた。


「さっきの猫、見覚えのある猫だったんで心当たりのある家に返してきたっす。迷い猫だったっす」


 なんて行動力だ。


「お礼にスイカもらったっす。あと、ついでに余所見杉にまつわる噂も教えてもらったっす」


 意外と社交性もあるらしい。


「興味深いな。霊の正体についてかな」


 O先輩が都合のいい期待を口にした。


「霊とは関係ないっす。でも、別の不思議なことっす」


 角にリボンをつけたはんにゃは言った。


「この杉の木に一緒に登った二人は――」



「――両想いになれるという伝説があるそうっす」



 なんだそりゃ。


 それは、本当だったらまずいじゃないか!


 だって……。


「Bよ。それは困るな」


 O先輩が言う。そうだ。まずいよ。


「だって我々は女同士だぞ。Bよ」


 ……。


 どうやら僕は最初から、O先輩の一つ目の眼中にはないようで良かった。


 いや、良かったのかな。


「大丈夫っす」


 B先輩は蚊のなくような声で言った。





「伝説なんて、存在しないものっすから」

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