バス

 夏休みの宿題は、夏休みが終わる直前に慌ててやるというイメージがある。


 僕はそんな常識に逆らいたい。夏休みが始まってすぐに瞬殺で終わらせるのだ。そうすれば残りの夏休みは本当に夏を休むだけになる。


 そのことに気づいたのが夏休み三日目なのが悔やまれた。でも、まだ三日目。今から全速力で宿題に取り組めば少なくとも七月中には終わる。


 そんなわけで、僕は午前中から机に数学の問題集とノートを広げていた。


 数学を最初に選んだのには理由がある。先に苦手なものを終わらせれば、そのあとは楽ができる。この完璧な計画に沿って、僕は最高の夏休みを過ごすのだ。


 ところが、机の上に真っ白なノートを開き、問題集を眺めはじめた僕の身に予期せぬ事件が起きた。


 やる気が出ない。


 理由はわからない。でも問題集を眺めてペンを握りしめると、とたんに勉強の意欲がなくなるのだ。


 僕は数学より先に、まずなぜやる気が起きないのかという問題について考えることにした。


 そうだ。きっと数学だからだ。苦手なものから無理に始めるより、できることからやって勢いをつけた方がいいに決まっている。これぞ完璧な計画だ。


 僕は数学の問題集とノートを片づけた。数学など計画の邪魔だ。


 先に国語の読書感想文から片づけよう。僕は課題図書について書かれたプリントをファイルから引っ張り出して眺めた。


 眺めていて、僕は重大なことに気がついた。


 この宿題は、今はできない。


 感想を書くということは本を読む必要がある。そして、本を読むということは本を買うなり借りるなりする必要がある。それは無理だ。


 なぜなら今日は家から出るつもりがない。


 今日は宿題を家でやると決めた日。本屋なり図書館なりに出かける暇があったら、その時間にできる問題集を解いた方がはるかに効率がいい。


 僕は再び数学の問題集を取り出した。学問の基本は数学。数学を解くことによって頭が活性化して他の宿題も取り組みやすくなるはず。これこそが真に完璧な計画だ。


 しかし、計画を崩す音が突如として鳴った。


 メッセージの通知音だった。端末の画面を見ると、クラスメイトの宇佐美の名前が表示されている。


 完璧な計画を邪魔するとはいい度胸だ。ここは文句の一つも言ってやらなければ。僕はメッセージを確認した。


『ね、芯条っち! 今日ヒマ??』


 普段の宇佐美は無駄にものものしい言い回しをする男なのに、こういったメッセージの時はキャラクターがだいぶ違う。


 僕が『ごめん』と文字を打とうすると、送信前に再び宇佐美からメッセージが来た。


『プール行かない? くろさぎ!』


 くろさぎとは、くろさぎ水上公園のことだ。うちの最寄駅からバスで小一時間ほどのところにある。名前とは裏腹に入場料は良心的で中学生の小遣いでも安心。


 宇佐美のやつめ。これからやっと本格的に数学の問題にとりかかろうというのに、こんなメッセージを送ってくるなんて。


 僕は完璧な計画を遂行するべく、適切な返信をした。





 そんなわけで僕はバスの一番後ろの席で、宇佐美とともに揺られている。


「芯条よ。意外だな」


 宇佐美が無駄にものものしく言った。


「真面目な芯条のことだから、てっきり『宿題を先に終わらせたい』などと言って、誘いを断るのではないかと思った」


 甘いな宇佐美。いきなり宿題をやろうとしてもモチベーションなんてあがるわけがない。まずは遊んで普段の生活に疲れた体を休めてから勉強をするのが賢い。


 これこそが完璧な夏休みの計画だ。


「芯条に人間の心があって安心した」


「僕をなんだと思ってるんだよ」


「真面目人間」


「人間じゃんか」


「すまない。真面目妖怪と言おうとしたが、妖怪と表現するには地味すぎた」


 いずれにせよ心外ではある。


「……まあ、人間でよかったよ」


 化け物ではきっとプールに入れてもらえない。人間で良かった。


〝ぐぇへへへへ〟


 化け物じみた奇声が頭の中に聞こえてきた。もっとも声そのものは澄んでいる。


 まさか、この声が聞こえるということは。


「どうした、芯条?」


「……いや。なんでもない」


 不意にきょろきょろしだした僕を宇佐美が不思議がっている。無理もない。先ほどの声は僕だけにしか聞こえていないのだ。


 僕、芯条信一は化け物というほどではないけど、普通の人間とは違う所がある。とある一人の人間とだけテレパシーのやり取りができる、テレパスなのだ。


〝ぐぇへへへへ〟


 再び化け物風の笑い声がする。間違いない。近くに僕と同じテレパスで、いつも教室で僕の邪魔をしてくる女子、沙鳥蔦羽がいる。


「芯条よ。動揺も無理はない。これからプールに向かうのだからな」


 宇佐美が何か言っているけど、今はどうでもいい。沙鳥を警戒しなければ。もしや同じバスに乗っているのか。


「お前の考えはこうだ。もしも水着美女に逆ナンされたらどうしよう」


 まったく的外れなことを言っているけど今はどうでもいい。


〝ぐぇへへへへ〟


 また沙鳥のテレパシーだ。


 同じバスかはわからないけど、とりあえず近くにいるのは確実だ。うっかりこちらの存在を気づかせないように注意しないと。せっかくの夏休みまで、沙鳥の厄介なテレパシーにつきあう義理はない。


 僕はこちらの思念が向こうに伝わらないように注意した。


〝ぐぇへへへへ。ぐぇへへへへ〟


 それにしても、さっきからなんなんだ沙鳥は。


〝ぐぇへ……〟


 急に途切れる化け物の笑い声。


〝……げっほ、げほっ、げほっ〟


 いや、


〝なんで脳内でむせるんだよ〟


 ありえない現象に思わず反応してしまった。


〝げほっ、あれ。その声は、芯条とやらですね〟


 ずいぶん見下されている。


〝ああ、芯条とやらだ〟


〝奇遇ですね、ひょっとして同じ車に乗っています?〟


〝じゃあ、沙鳥もこのバスに?〟


 やはり。


〝私はおうちの車です〟


 違った。


〝……だったら同じ車のわけないだろ〟


〝芯条くんがこっそりうちの車のトランクに忍びこんでいるのかと〟


 怖すぎる。


〝僕はバスに乗ってる〟


〝そうですか。前をバスが走っていますから、きっと芯条くんはあのバスのトランクの中ですね〟


〝いや、普通に乗ってる〟


 なんでトランクに入れたがる。


 僕は窓からちらりと後ろを見た。渋滞ではないけど車の量は多かった。僕の乗っているバスの一つ後ろはこじんまりとした軽自動車で中はよく見えない。きっとあの中に沙鳥がいるんだろう。


 良かった。沙鳥はこのバスにはいない。ひとまず安心、行き先が違うのならこのテレパシーにずっと悩まされることもない。


 いや待てよ。


 平日とはいえ夏休みの外出だ。ひょっとしたら僕らと同じく行き先がくろさぎのプールということも考えられる。となると、さらなる警戒が必要だな。


「――そこで美女はこう言う。『一緒にかき氷食べません?』いわば、告白だ――」


 都合の良すぎる妄想を語る宇佐美をよそに、僕は沙鳥とのテレパシーに集中した。


〝さっきの変な笑い声はなんだったの?〟


 僕が尋ねると、沙鳥は念じてきた。


〝もう、芯条くん。変だなんて心外です。あれは、今日のおでかけの喜びをトロール系の魔物風に表現してみただけです〟


〝じゃあ、変じゃんか〟


〝私は今、とても楽しみなのです。るんるーんです〟


 トロール風からフェアリー調に変わった。


〝どこに行くの?〟


〝……え、なんです?〟


〝沙鳥は、どこに行くんだ?〟


〝……すみません、もう一度……〟


 どうも、テレパシーの通信状態が良くない。


 テレパシーの届く範囲はだいたい同じ教室の中くらいだ。教室ではずっと座っているから途切れるなんてことはないけど、お互い違う車に乗っていて移動中ともなるとこういうことも起きる。


〝沙鳥は! どこに行くんだ!〟


 僕は強めに念を送った。


〝…とり…に…く……? ……鶏肉がどうしたんですか?〟


 どうもしてない。


〝ひょっとしてご馳走してくれるんですか〟


 なんて都合のいい脳だ。


〝そうじゃなくて、沙鳥はどこに行くのか聞いてんの〟


〝ああ。行き先ですか〟


 やっと届いたようだ。


〝芯条くん。人に行き先を尋ねるときは、まずは自分からです〟


 面倒なやつ。


〝僕は、くろさぎ水上公園〟


〝え、なんです?〟


 またか。


〝僕は! くろさぎの! プール!〟


〝くろ……る? クロール? ああ。プールでクロールするんですか〟


 伝わり方はともかく正解にはたどり着いた。


〝そう、プール。で、沙鳥たちは?〟


〝私は……じ……です〟


 今度は沙鳥側の念が途絶えだした。


〝ごめん、何?〟


〝私は……じ…………です〟


〝ごめん、もう一回〟


 そして僕の脳にはこう聞こえた。



〝私は……じ…ご……く……です〟



 ……地獄?


 それきり、沙鳥のテレパシーは途絶えた。ちょうど交差点に差しかかった時だったから、おそらく沙鳥の乗った車は別の方に進んだのだろう。


 夏休みに家族揃って地獄にドライブとは考えにくいから、きっと言葉の一部が聞こえたのに違いない。僕は考えた。


 お『じ』いちゃんの、『ご』うていに、行『く』。


『じ』まんの、『ご』うかきゃ『く』せん。


 い『じ』んの、ま『ご』が運営する、は『く』ぶつ館。


 む『じ』んとうに、『ご』は『く』。


『じ』っくり、『ご』うもん、『く』らぶ。


 マ『ジ』で、す『ご』い、『く』やくしょ。


 だめだ、どれも苦しいな。


 でも、くろさぎのプールではないことは確実だ。大切な夏休みの一日まで、あの面倒な念に付き合わずに済んで良かった。


「そこで俺は溶け残ったかき氷を水着美女の背中に垂らし――」


 友人の妄想が何やら理解に苦しむ方向に進んでいる。でも、今は放っておこう。脳内の安全が保たれた喜びをかみしめよう。


 ぐぇへへへへ。





 それから一時間くらい後。僕はくろさぎのプールで『地獄クレープ』なるメニューの存在を知ることになる。

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