夏
無人島
高くのぼった日が教室の窓から射している。温度も湿度も猛威をふるう季節が今年もやってきたのだ。
「暑いな」
教科書に載っている文学作品の感想文を僕たちに書かせていた、国語の先生がつぶやいた。
教室には一応クーラーがあるんだけど、今は機能していない。最高の、というより最悪のタイミングで故障したのだ。普段はあまり無駄口を叩かない国語の先生が思わず暑いと漏らすのも無理はない。
一番後ろの席に座っている僕は教室を見渡した。この非常事態にみんなもれなく汗をかいている。もちろん僕もだ。
〝芯条くん、芯条くん〟
僕の頭の中に、僕の名前を呼ぶ声がする。
それは僕の斜め前の席に座っている沙鳥の声だった。僕とクラスメイトの女子である沙鳥は、声を出さなくても言葉のやりとりができる。
いわゆる、テレパスだ。
〝芯条くん。お気づきかどうかわかりませんが〟
沙鳥は念じてきた。
〝暑いですね〟
この場にいる全員がお気づきだった。
〝これは私への罰でしょうか〟
僕は自己中心的な沙鳥に念を返すことにした。
〝大丈夫だ。みんな暑いから〟
太陽も沙鳥に個人的な罰を与えるほど暇ではない。
〝というか沙鳥〟
僕は斜め前の沙鳥を見て言った。
〝そんなの着てるから余計暑いんだろ〟
沙鳥はこんな状況のなかで冬服の長袖を着ていた。クーラーのきかない部屋では大変なマイナスアイテムだろう。
〝脱げばいいじゃないか〟
〝下着をですか〟
〝なんでだよ〟
沙鳥はたまに、さらりととてつもないことを抜かす。
〝だって、芯条くんってだいたいそういうこと考えてませんか〟
〝そんな覚えはない〟
〝あ、すみません、それは別の芯条くんでした〟
〝僕って他にもいたの?〟
出くわさないように気をつけよう。
〝それより、なんでこんな日に長袖なんだ〟
衣替えが始まってからだいぶ経っている。
〝つい、どっぷりミスで着てきてしまいました〟
〝ミスならうっかりだ〟
うっかりでも着てくるのおかしいけど。
〝脱ぐタイミングを逃したのです〟
〝いつでもいいだろ。今でもいいし〟
〝今、急に脱いだら「いやなんで今だよ!」って教室中から息のあった指摘を受けることになりませんか〟
〝なりません〟
授業中だし。
しかし、よく見てみると長袖なんか着て暑いと言っているわりに、斜め後ろから少しだけ見える沙鳥の白い肌はほとんど汗をかいていない。体質か。
〝沙鳥は感想文もう書けたの?〟
ペンを走らせている様子がないけど。
〝モのチロンです〟
切るところがおかしい。
〝どんなこと書いたんだ?〟
〝『蝶の標本が粉々になって、エーミールはかわいそうだなと思いました』〟
小学生のだめな感想のお手本みたいだ。
〝『この悲しみを忘れないため、私は腕に蝶のタトゥーをいれようと思います』〟
急にぐんと成長した。むしろ成長しすぎている。
でも、絶対に嘘だ。いや、本当でも大問題だけど。
沙鳥はあとで先生に呼ばれるだろう。
〝あ。パクリは禁止ですよ〟
〝安心してくれ〟
パクっても損するだけだ。
〝ときに、芯条くん01〟
〝ナンバリングするな〟
僕はかけがえなのないたった一人の芯条信一だ。たぶん。
〝そろそろ本題に入りますが〟
〝本題は授業だけど〟
長袖を着た沙鳥があまりに異様だったのでつい会話を繰り広げてしまったが、僕は授業に戻って完璧な感想文を仕上げたい。
〝そうですね。じゃあ、副音声だと思って聞いてください〟
〝ミュートしたいんだけど〟
〝芯条くん。ありがちな、べとべとの質問なのですが〟
言葉には汗をかく沙鳥。
〝ベタ、かな〟
〝それです。ベタな質問なのですが、もし無人島に何か――〟
沙鳥は遠慮なく念じてきた。
〝――百個だけ持っていけるとしたら、何を持っていきます?〟
今日もつくづく沙鳥だな。
〝多いだろ〟
百個では『だけ』とはいえない。
〝そうですか? しぼりにしぼっての百個ですよ〟
しぼれないから百個なんだろう。
〝普通は一個で考えるんじゃないかな〟
〝でも一個だけだったら、すごく悩まなきゃいけないじゃないですか。人によって差がものすごく出ます。答える人の物の考え方がさらされてしまいます〟
それがこの質問の意図じゃないのかな。
〝沙鳥の百個の内訳は?〟
〝そんなに知りたいですか〟
〝そんなには知りたくない〟
〝まず一つめはですね〟
沙鳥は僕を無視して続けた。
〝お酢です〟
いきなり疑問符が湧く答え。
〝あ。gentlemanの♂じゃないですよ。vinegarのお酢です〟
沙鳥が脳内でヴィと下唇を噛む。
そして、いずれにせよ謎だった。
〝なんでいきなりお酢なんだよ〟
〝餃子を食べる時にないと、嫌です〟
そこに異論はないけど。
〝無人島で餃子食べるの?〟
〝だめなんですか〟
〝だめだろ。だって無人島だ〟
〝だめなはずがありません。だって無人島です〟
同じ理由なのに別の結論に達したらしい。
〝誰もいない無人島ですよ。決まりなんて一つもありません。餃子を食べちゃいけないなんて決まりももちろんありません〟
それはそうだけど。
〝決まりもないけど、材料も道具もないだろ〟
スタンダードな餃子を作るには少なくとも、材料にひき肉・ニラ・キャベツ・しょうが・にんにく・小麦粉・油、道具にのし棒・フライパン・ひっくり返すアレが要る。
もちろん火を起こす方法も必要だし、食べる時にはラー油とは言わないまでも醤油はほしいところだ。
いずれも無人島でやすやすとは調達できない。
〝ふっふっふです、芯条くん。私には百個の品物を持っていける余裕があることをお忘れですか〟
そうだった。
〝余裕で持ち込めます。おいしい餃子を食べるのに必須の、五十の物を〟
〝多いだろ〟
枠の半分を餃子に割くとは。
〝餃子食べるのにそこまで必要かな〟
〝違います。『おいしい』餃子を食べるのに必要なんです〟
やかましい。
〝特にです。エビ・チーズ・納豆・明太子・ジャガイモ・キムチ・フォアグラ・チョコレート・黒蜜あたりは欠かせませんね〟
なんてことだ。沙鳥はあろうことか、無人島で変わり種餃子を食そうとしている。スイーツ感覚のもはや餃子と言えないものさえも。
〝沙鳥の食い意地についてはよくわかった〟
〝えへへです〟
なぜ照れる。
〝では残りの五十を発表します〟
〝いや、もういいよ〟
さすがにそろそろ感想文を書く頭に戻らなければ、これからさらに五十項目も沙鳥の妄言につきあっている暇はない。
〝僕は感想文に集中するから〟
〝わかりました。では勝手に考えています〟
〝いや、勝手にでも困るんだけど〟
思考がだだ洩れだから。
〝まずはですね〟
沙鳥は僕に構わず念じてくる。
〝菓子折りです〟
指摘したら負けだ。感想文を書かねば。
〝これは無人島の住人へのご挨拶用ですね〟
無人島の定義に根本から反するけど感想文だ。
〝それから、金槌です〟
比較的まともな答えが出てきたけど感想文だ。
〝これは、島に住む金槌丸のみ怪獣チカトーンをおびき寄せる餌ですね〟
ちっともまともじゃなかったけど感想文だ。
〝そして、自転車のサドルです〟
違法性が疑われるけど感想文だ。
〝あ。これは餃子セットの中に入ってましたね〟
何の行程に使うのか気になるけど感想文だ。今や何の文学作品を読んだのかすらおぼろげにしか覚えていないけど、感想を文にしなくては。
〝あとは暇つぶし用の〟
順調にいけばあと四十八項目、耐えろ。
〝いろはかるたです〟
感想文だ。集中集中。主人公がどうして最後に自分の蝶の標本を粉々にしてしまったか自分なりに考えるんだ。
〝四十七枚なので、持っていけるものは残り一つですね〟
急にカウント方法が厳しくなったけど感想文だ。
〝うーん、です。一つだけとなると難しいですね〟
結局、一般的な無人島の質問と同じ状態になったけど感想文だ。
〝授業が終わるまであと三分。私は最後の一つを選べるでしょうか〟
衝撃の情報が沙鳥からもたらされる。
くっ。三分しかないんじゃあんまりこだわった感想は書けない。とりあえず文字を埋めることに集中しよう。
チャイムが鳴って先生の声がした。
「後ろからプリントを回して」
僕は前の席の宇佐美にプリントを渡す。大粒の汗を流しながら集中した結果、僕の感想文はこう締めくくられていた。
『ラスト一ページ、涙が止まりませんでした』
我ながらひどい。正直言って沙鳥と大差ない。小学生のひどい感想から大人のひどい感想になっただけだ。
先生が採点の時に寝ぼけていることを願おう。
〝うーん、です。持っていけるもの、あと一つだけですか〟
僕にひどい作文を書かせた沙鳥は、まだ無人島のことで悩んでいた。
〝持っていきたくないものなら、一つ思い浮かぶのですが〟
〝持っていきたくないもの?〟
あんなに無駄なものをいっぱい持ち込んでいたのに。
〝なんだよ?〟
〝決まっています〟
沙鳥は念じてきた。
〝長袖です〟
でも沙鳥はその日、結局上着を脱がなかった。
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