むかしばなし
「それでは、次の段落を読んでもらいましょうか。ろんぐたいむあごおのところから」
よくこれで英語教諭になれたな、という発音の女の先生に指名された女子生徒は、静かに席を立った。
「Long time ago,she lived in ……」
今度は流暢な発音の英語が教室に響く。
僕の斜め前の席の女子、沙鳥の声だ。
いつも物静かで休み時間もほとんど誰ともしゃべらない沙鳥。その沙鳥が口を開く数少ない瞬間が、先生に当てられたときだ。
少し高めで濁りがなく、耳に心地よい声。
さらに、英語の発音がやたらいい。
物憂げな眼差しの大人びた雰囲気とあいまって、沙鳥という人間の神秘性を押し上げている一因だろう。
でも僕に言わせれば、これは沙鳥の、一番沙鳥らしくないところだ。
「Her works are very popular all over the world.」
沙鳥は音読を終えた。
「はい。えー、それじゃ次のねくすと。ふぉおえぐざんぷるのところを――」
先生が次の生徒を当てて、沙鳥は静かに席に座った。
〝芯条くん、芯条くん〟
途端に僕の頭の中には声が響いてくる。さっき流暢に英語を読んでいたのと同じ声だけど、今度は僕にしか聞こえない。
〝芯条くん、お待たせです〟
〝待ってないけど〟
僕と沙鳥は、頭の中だけで言葉のやり取りができる、テレパスと呼ばれる超能力者なのだ。そして、
〝私、新しい昔話を考えてきました〟
沙鳥は授業中、こっちの事情なんてちっともお構いなしに、テレパシーを通して話しかけてくるのだ。
〝……新しい昔話?〟
なんか矛盾してる表現だな。
〝さっそく聞きたいですか?〟
〝遠慮します〟
僕は冷ややかに返した。
〝さされるかもしれないしさ〟
〝痴情のもつれですか?〟
〝何の話?〟
〝さされるかもしれないんでしょう? 刃物でひょっこりと〟
〝そっちの刺されるじゃない〟
あと、刃物ならグサリだ。
〝当てられるかもしれないから。音読とか設問とかさ〟
〝ああ。それなら大丈夫です。私はもう当てられたので、今日は回ってくることはないでしょう〟
〝沙鳥。僕も英語の授業受けてるんだけど〟
〝うーん。結局そういう話になりますよね〟
〝わかってはいたんだな〟
〝しょうがないですね。では、芯条くんの安全が確保できるまで、新しい昔話はお預けです〟
〝そんなに心待ちにしてないよ〟
沙鳥はとりあえず黙った。
よし。
これで授業に集中できそうだ。
〝むかーし、むかし……〟
やっぱりできなさそうだ。
いや、反応したら負けだ。ここはスルーを決め込もう。あんまり沙鳥を甘やかしてもしょうがない。
〝はるかむかし。地上波デジタル放送が始まったばかりのころ……〟
そこまではるか昔じゃないけど、反応しないからな。
〝ある、埼玉に〟
埼玉一つしかないけど、反応しないからな。
〝おじいさんと、おばあさんと……。黒服の男がおったそうな……〟
怪しいやつ一人まざってるけど。
〝三人は……、幸せに暮らしましたとさ〟
終わっちゃったけど。
いや、終わってくれていいんだけど。
〝本当に本当に幸せに暮らしましたとさ〟
めでたしめでたし。
〝……地下室の奥に隠した、あの大きなスーツケースのことを除いては……〟
〝犯罪の匂いがするけど〟
僕はたまらず念じてしまった。
〝ちょっと芯条くん。まだ本番に備えての稽古中ですよ。稽古場に入ってこないでくださいよ〟
〝稽古の声が大きすぎて全部もれ聞こえてきてるんだよ〟
〝仕方のないことです。稽古だからって手を抜くなんて、私はできません。いつだって全力です〟
その情熱を授業に注げないのかな。
〝だいたい、なんで急に昔話なんだよ〟
〝実はですね。最近、妊娠したんですよ〟
とんでもない告白。
〝にんしん……?〟
〝あ、親戚のお姉ちゃんがですよ〟
〝だろうな〟
そうでしょうとも。
〝で、それと昔話と何の関係があるの?〟
〝もう、鈍いですね。ニブちんです、芯条くん。ニブのちんです〟
〝それ分けない方がいいよ〟
〝つまりです。親戚のお姉ちゃんに子供ができるということは、今度は私が親戚のお姉ちゃん、ってわけです。親戚のお姉ちゃんたるもの、昔話の一つや二つできないと格好つかないです〟
〝気が早いだろ〟
〝いやー、子供ってびっくりするくらい早く成長しますし〟
もうじゅうぶん親戚のお姉ちゃんっぽい。
〝別に新しい昔話作る必要ないんじゃないの? 有名な昔話、いっぱいあるんだしさ〟
〝たしかに作る必要はないですが〟
沙鳥は念じてきた。
〝作りたかったんですもん〟
そんなことだろうとは思った。
〝でも、意外といいお話が思いつかないんですよね〟
〝それはすごく伝わった〟
さっきのやつ。昔話っていうより、ミステリーめいてたもんな。
〝だいたい昔話って、なんで決まっておじいさんとおばあさんなんです?〟
〝たしかに〟
お父さん、お母さんでもいいはずだ。
〝ひいおじいさんと、ひいおばあさんでもいいはずです〟
〝それじゃあんまり変わんないけど〟
〝それに、いいおじいさんと悪いおじいさんが出てきて、悪いおじいさんが痛い目にあったりするじゃないですか〟
〝こぶとりじいさんとか?〟
〝ええ。でも、悪いおじいさんだって、きっといいところあると思うんですよね。みんなが知らないだけで〟
なんか面倒くさいこと言い出したな。
いや、ずっと面倒くさいんだけど。
〝きっと悪いおじいさんだって、段ボールの中に捨てられてる子犬を見て『こいつは俺に似てる』って思ってつれて帰っちゃったりするんですよ〟
〝悪いおじいさんっていうか、不良少年だな〟
〝でも家でこっそり匿ってるのを、一緒に住んでるいいおじいさんに、見つかっちゃうんですよね〟
〝同居してたの?〟
〝いいおじいさんは、悪いおじいさんをとがめます。『ちょっと悪いおじいさん。なんです、その小汚い動物は?』〟
〝その人、本当にいいおじいさんかな〟
〝悪いおじいさんは言います。『だ、だってさ。晴れた日に道でひなたぼっこしてて、かわいそうだったんだもん!』〟
〝あんまり、かわいそうじゃないけど〟
ただのほほえましい風景だ。
〝いいおじいさんは言います。『まあ、なんてけがらわしい! そんな素性の知れないケダモノなんて、もといたところに返してらっしゃいな! しっし!』〟
〝なあ。その人、本当にいいおじいさんなのか〟
というか、おじいさんかどうかも怪しくなってきた。
〝『それから、言ったでしょう? 家では姫じい様とお呼び!』〟
〝どういう世界観なの?〟
〝悪いおじいさんは言います。『ごめんなさい。姫じい様』〟
〝立場弱いな、悪いおじいさん〟
〝『姫じい様。それじゃかわいそうだけど、同じ場所で拾ってきた、子猫の五つ子も元のところに返すね……』〟
〝そんなにかくまってて、よく今までばれなかったな〟
〝いいおじいさんは言います。『やーん、猫ちゃんはいいの!』〟
〝ただの猫派だな〟
〝それから二人は、日本刀で殴りあいのケンカです〟
〝それは殴り合いなのか〟
斬りあいか刺しあいじゃないか。
〝いいおじいさんの放った一撃が、悪いおじいさんにひょっこりです〟
刺しあいだった。
〝そのときにできたのが、あのコブというわけですね〟
〝前日譚だったんだ〟
刃物でなぜコブができる。
〝だから、芯条のおじいさん〟
〝誰だよ〟
〝私はいいおじいさんとか、悪いおじいさんとか、一方的に決めつけてしまうのって、よくないと思うんです〟
沙鳥は悲しげに念じてきた。
〝完全な人間なんていません。いいおじいさんだって、悪いところがある。悪いおじいさんだって、初恋のあの子の思い出は今も胸の中に……〟
何の話だっけ。
〝だから私は、自分で昔話を作るなら――〟
そうだ。
昔話を考える時間だ。
いや待て、それ以前に英語の時間だ。忘れてた。
〝――なんでも決めつけてしまうような、大人の価値観を押しつけたくないんです。未来の子供たちのために〟
〝そうですか……〟
なんかいい話っぽくまとめてきた。
〝ところで、沙鳥さん〟
〝なんです?〟
〝そろそろ授業終わるんだけど、沙鳥のせいで先生の話を聞けなくて英語の学習に支障が出てしまったことについては、どうお考えですか?〟
〝大丈夫です〟
〝どうして?〟
沙鳥は確信をもって念じてきた。
〝芯条くんは将来、英語を使う仕事なんて絶対にしませんから〟
決めつけられた。
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