体操着

 僕には、同じクラスに一人、小さい頃から知っているやつがいる。まあ、向こうはいまだに結構小さいサイズ感ではあるんだけど。


 名前は柿月かきづき句縁くえん

 ちびで口の悪い、せわしなく動くやつ。


 ちなみに女子だ。


 休み時間になると、句縁は僕の前の宇佐美の席を占領して、他愛もない話をしかけてくることがある。


 休み時間なのだから他愛もない話をされても別にいいんだけど、ある事情で休み時間も教科書とノートを机に広げて勉強する必要がある僕としては、なかなか付き合ってもいられなかったりするのだ。


 その句縁がいつものように、宇佐美がトイレに行った隙をついて、前の席に居座りはじめた。


 しょうがないな。


 前の時間に解き損ねた問題を解くために教科書を開いていた僕だったけど、仕方なく閉じた。


 あんまり放っておくと、すねるからな。句縁は。


 僕がいつものように「しんいち、しんいち」と呼ばれる準備を心の中でしていると、句縁はくるりと横を向いた。


 あれ?


 句縁は隣、つまり僕から見て斜め前の席で机に突っ伏している女子に声をかけた。


「さとりさん、さとりさん」


 句縁が珍しく沙鳥に話しかけている。


「なあ、さとりさんて」


 沙鳥は、授業で指されたとき以外ほとんどしゃべらない女子だ。


 その物憂げで伏し目がちな瞳と整った顔立ち、そして寡黙で大人びた雰囲気から、一部の男子からは密かに人気がある。


 ただ、その一部の男子が知らない重要な情報を一つ、僕は知っていた。


〝……え、私ですか……?〟


 沙鳥の声が僕の頭の中にだけ響く。


 沙鳥は僕と同じ、テレパスと呼ばれる能力者。声を出さなくても頭の中だけで会話ができるのだ。


 そして沙鳥はその能力をフル活用して、授業中に僕の思考を乱しまくる。


 結果として僕は授業をまともに聞くことができず、こうして休み時間にまで勉強をする羽目になっている。


 いつか沙鳥信者の一部男子にも、その事実を教えてやりたいものだ。


 それはさておき。


 そんな、傍目には近寄りがたい存在と認識されているはずの沙鳥に、句縁が普通に話しかけている。


 これはちょっとした一大事だ。


「さとりさん、ねてんのかー?」


 いや、そいつ寝てないぞ。


〝……寝てます……〟


 ほら、起きてる。


「ねてんのか。じゃー、しょうがねー。しんいちでいいや」


 句縁は僕の方に向き直った。


「なー、しんいち」


 句縁は椅子を体ごとカタカタと前後に揺らしながら言った。


「きょう、たいそうぎわすれちまってさー」


「今日、体育なかったろ?」


 忘れて当たり前の日だ。


「あのなー。うちは、しんいちとちがって、うんどーぶなんだよ。さんびゃくろうじゅうごにち、たいそうぎいるっちゅーはなしだろ」


「じゃあ、忘れるなよ」


「にんげん、だれにでもあやまちはあんだよー」


 過ちというほどのことか。


「だからさー、しんいち」


 句縁はあっけらかんと言った。


「たいそーぎ、かしてくんねー?」


 ……。


「だめだろ」


「だよな。やっぱ」


 そりゃそうだ。


「サイズてきになー」


 それもあるが。


「倫理的にだよ!」


「やっぱ、そっちかー」


 僕(男)の名前がしっかり書いてある体操着を、句縁(小さいけど女)が当たり前みたいに着てたら大問題だろう。


「せいりてきにうけつけねーか」


「そこまでひどいことは言ってない」


「うちがせいりてきにうけつけねー」


「ひどいこと言うなよ」


「じゃー、やっぱさとりさんにかりねーとな」


「どっちにしろ、サイズ合わないんじゃないのか」


 沙鳥の背は低いほうだけど、それでも句縁とは開きがある。


「しっけいだな。そんなこと言いだしたら、うちとサイズあうやつなんかひとりもいねーよ」


「なんか開き直らせてごめん」


「まあ、ゆるす」


「でも、なんでわざわざ沙鳥に借りるんだ?」


 二人は特別、仲がいいわけでもないはずだ。まともにしゃべったことなんか、たぶんないだろう。


「いや、じつはここだけの話なんだけどよー」


 句縁は僕に耳打ちしてきた。


「なんとなく」


「耳打ちの必要あったか?」


「さとりさん、かしてくれそーなきーしたんだよ」


 そうかなあ。


「句縁……。そもそも、それこそ今日体育なかったんだから、みんな体操着持ってきてないと思うんだけど。僕も持ってないし」


「さとりさんが、うっかりもってきてるかのうせいにかけた」


「なんで沙鳥限定だよ?」


「おんなのかん」


 女らしくないくせに。

 僕は、句縁に気づかれないように沙鳥にテレパシーで話しかけた。


〝沙鳥。話聞いてた?〟


〝……ええ。聞こえてます〟


〝体操着持ってたりしないよな?〟


〝うっかり実はサブバッグにあります〟


 おんなのかん、あなどれない。


 僕は沙鳥に念じた。


〝句縁に貸してやったら?〟


〝うーん。今日は着ないので、別に構わないですが……〟


 机に突っ伏したまま、沙鳥はテレパシーを返してきた。


〝……では、芯条くん。私のサブバッグから私の体操着を出して、柿月さんに渡してあげてください〟


 はい?


〝なんで僕が?〟


〝芯条くん。体操着渡すの、得意でしたよね?〟


 そんなピンポイントな特技はない。


〝あの、沙鳥さん〟


 僕は念じた。


〝僕が突然、沙鳥のサブバッグを開いて、沙鳥の体操着を取り出したら、ものすごく不審だとは思いませんか?〟


 職員会議に発展するレベルの不祥事だ。


〝大丈夫です。私が許可してます〟


〝許可してる事実が周囲に伝わってないんだよ〟


 堂々とした体操着泥棒にしか見えない。


〝今、起きてさ。句縁の話聞いて、直接渡せよ〟


〝うーん、それはちょっと〟


 やや間があって、沙鳥は念じてきた。


〝私……、苦手なんですよね〟


〝何が?〟


〝その……、体操着渡すの〟


 そんなピンポイントの苦手はない。


〝なあ、ひょっとして沙鳥――〟


 僕は思いあたるふしを尋ねた。


〝――句縁が苦手なの?〟


〝ええ。まあ、そんなところです〟


 そうだったのか。


〝別に句縁は悪いやつじゃないけど〟


〝悪い人だとは思ってません。ただ、なんていうか、その――〟


 沙鳥は言いづらそうな感じで念じてきた。


〝――柿月さんって、変なこと言うので〟


 それはむしろ気が合いそうなところじゃないのだろうか。沙鳥だっていつもだいぶ変なことを考えている。


「そっかー。ねてんじゃー、しょーがねーか」


 椅子をカタカタさせながら、沙鳥の寝顔を見つめていた句縁が言った。


「しゃーねー。ぶかつはしたぎでやるか」


 句縁が暴挙に出ようとしている。


〝沙鳥。このままだと句縁が伝説作っちゃうからさ〟


〝……それは問題ですね……。わかりました……〟


 そう僕に念じると沙鳥は、今まで寝ていたとは思えない速さで不意にすっと頭を起こした。


 不自然すぎるだろ。


「あ、おきた」


 句縁が気がつくと、沙鳥はわざとらしい伸びをした。


「なーなー、さとりさん。おねがいがあんだけどよー」


 沙鳥は無言のまま、句縁を見つめた。


「あ……、えっとそのー、うち……」


 沙鳥のまっすぐな視線にたじろぐ句縁。いや、お前も何を急に緊張してんだ。


「……」


 沙鳥は無駄のない動きで机の脇にかけてあったサブバッグを手に取ると、中から体操着を取り出して句縁にすっと差し出した。


 だから不自然だって。


「へ?」


〝使ってください〟


 沙鳥の声が響く。僕の頭にだけ。いや、ちゃんと声にだせ。


「……かりていいの?」


 沙鳥は薄い笑みを浮かべたまま黙ってうなずいた。


「サンクスな!」


 句縁が体操着を受け取ると、沙鳥はおもむろに席を立った。


〝今からどこに行くんだよ、休み時間もう終わるぞ?〟


〝間がもたないので、逃げます〟


〝どんだけ人見知りなんだよ……〟


 沙鳥はクールな表情のまま、颯爽と教室から去っていった。


「しっかし、むごんでわたされるとはなー」


「失礼なやつだな」


「ばか!」


 句縁はきらきらした目で言った。


「めちゃくちゃかっけーだろ」





 句縁も一部男子の仲間だった。

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