暗記

 黒板にはアルファベットが並んでおり、教卓の上のいつから使われているかわからない年季の入ったCD再生機からは、流暢な英会話が再生されている。


 世界の共通言語、英語の時間。


 僕の斜め前の席に座っている女子、沙鳥が、自分は英語が得意であるのをいいことに、授業そっちのけで僕に世間話をしかけがちな時間だ。


 声を出さない雑談。


 僕と沙鳥は、頭の中だけで意志の疎通ができる、いわゆるテレパスと呼ばれる超能力者なのだ。


 斜め後ろの席にいる僕と堂々と私語はできないから、必然的にテレパシーを介した会話になる。


 まじめに授業を受けたい僕としては、しょっちゅう『芯条くん、芯条くん』と話しかけれられては大変に困る。


 ところが、今日の英語は珍しく、沙鳥は僕に呼びかけてこなかった。


〝えーっと……。すい、へー〟


 呼びかけてこないからといって授業に集中できるかといえばそうでもない。結局、沙鳥の雑念が洩れ聞こえてくることには変わりがないのだ。


〝りー、べー……〟


 このあとの理科の時間、元素記号の小テストがある。どうも、沙鳥はそれに備えて暗記をしているようだ。


〝えーっと……〟


 沙鳥の思考が止まった。


〝ん? なんでしたっけ?〟


 だいぶ序盤でつまづいてしまっている。さては沙鳥のやつめ。ぜんぜん勉強してきてないな。


〝すい、へー、りー、べー……〟


 沙鳥は、悩んでから結論をだした。


〝どくろぶね?〟


 海賊が来たぞ。


〝ん? たからぶねでしたっけ?〟


 今度は神様が来た。


〝たかせぶね?〟


 罪人が運ばれていく。


〝たいたにっく?〟


 船ならなんでもよくなってきたらしい。


〝しまかぜ?〟


 駆逐艦まで出港した。


 まいったな。沙鳥の暗記ミスが気になってしまい、本来聞かなければならない英会話の教材がちっとも僕の耳に入ってこない。これは指摘しなければ、僕が授業に集中できないじゃないか。


 僕は沙鳥に助け舟を出すことにした。


〝沙鳥〟


〝なんですか、芯条くん。今、授業中ですよ〟


 英語のな。


〝それは『ぼくのふね』だよ〟


 僕が正解を教えると、沙鳥は驚いたような念を返してきた。


〝え……。しまかぜがですか?〟


〝なんでだよ〟


〝だって今、しまかぜが僕の嫁って〟


 それは船の話ではない。


〝いつそんなこと言ったんだよ。元素の覚え方の話だろ。すい、へー、りー、べー、ぼくのふね〟


〝ああ。なるほど、ぼくのふねですか〟


 沙鳥は納得すると、不意に動揺しはじめた。


〝……って、芯条くん。何を無断で人の頭の中をのぞいてるんですか〟


〝のぞいてない。勝手にだだ漏れてるんだよ〟


〝だめじゃないですか。ちゃんと授業に集中しないと〟


〝沙鳥には言われたくない〟


 誰のせいで気が散っていると。


〝そっちこそ、英語の時間は英語やれよ?〟


〝広い意味でこれも英語です。アルファベットですし〟


 なんて屁理屈だ。


〝沙鳥。せめて、こっちに念が届かないようにしくれよ〟


 テレパスとはいっても、考えていることすべて筒抜けというわけではない。自分だけで考える思考と、テレパシーとして相手に伝える思考は、慣れれば調整ができるのだ。

 小声の独り言は聞こえないが、大きな声で呼びかければ相手に届くといったようなイメージだろうか。


〝えー。だって、きちんと覚えたいんです。はっきり考えないと頭に入らないです〟


〝家でやってきなよ〟


〝わー、心外です。家でも覚えてきた上で、今復習してるんです。あくまでもこれは最終チェックです〟


〝それにしちゃ、ぜんぜん覚えてない気がするけど〟


〝終わりよければすべて良しですよ〟


〝全然意味あってないけど〟


〝本当は声に出して覚えたいですが、みんなへの迷惑を考えて我慢してるんです〟


〝僕への迷惑は?〟


〝それはこの際目をつぶりましょう〟


〝沙鳥がつぶるのかよ〟


 どんな立場なんだ。


 まあでも、教科が違うとはいえ、沙鳥にしては珍しく学習に対して意欲を示している行動だ。あんまりとがめるのもよくない。


〝まあ、ともかく、なるべく洩れないようにしてほしい〟 


〝わかりました。ヨイショします〟


〝……何を?〟


〝間違えました。善処します〟


 どっちにしろ期待できなかった。


 そうこうしてるうちに英会話の再生はいつのまにか終わっており、先生が要点となる表現を振り返っていた。


「あい、うっど、らいく、とうー、ゆー……」


 さっきの教材と同じ英文とは思えない発音だ。どうしてこの人は英語教師になれたのだろうか。


〝すい、へー、りー、べー、ぼくのふね……〟


 そして相変わらず、沙鳥の思考も洩れきこえてくる。


〝『すい』はスイリウムですね〟


 沙鳥は家でどんな勉強法をしたんだろう。


〝『へー』はヘーリウム。『りー』はリーリウム。『べー』は、ベーリウム――〟


 この子は元素をなめている。


〝それから、ボクノリウム、フネリウムですかね?〟


 僕は方針を転換することにした。


〝沙鳥〟


〝なんですか、芯条くん〟


〝やっぱり僕、考えを改めた〟


〝ですよね。あんぱんはやっぱり、つぶあんですよね〟


 いつそんな話したんだ。


〝もともとつぶあん派だけど〟


〝わーいです。仲間ですね〟


 そんなことはどうでもいい。


〝沙鳥。暗記が心配なら、僕が正しい覚え方を教えようか〟


〝え、いいんですか。英語の方は?〟


〝この際目をつぶる〟


 全然つぶりたくない。


 つぶりたくはないけど、このまま間違った暗記を聞かされて、授業の間ずっと頭の中を乱されるのもつらい。


 さっさと沙鳥に覚えてもらって、残りの時間は黙ってもらおう。


〝だから、ちゃんと覚えろよ?〟


〝はあ、わかりました〟


〝まず、スイリウムなんて元素はないから。『すい』は水素〟


〝あー、そっちですか。リウム系じゃなくて素系の方で〟


 そんな勝手な系統で分けてるから覚えられない。


〝では『へー』はへー素で『リー』はりー素です?〟


〝いや『へー』はヘリウムで『リー』はリチウムだな〟


〝うう……。なんで、同じリウム系か素系で統一しないんですかね。そっちの方が覚えやすくないです?〟


〝僕に聞かれても〟


〝では『べー』はべー素ですか?〟


 ことごとく逆を選ぶ沙鳥。


〝『べー』はベリリウム〟


〝なんでリが一個増えるんですか、ズルいですよ!〟


〝誰がだよ〟





 僕は沙鳥に、元素の名前を一つ一つ説明していった。


 正直言って、僕も完全には覚えていない部分があったから、こっそり理科の教科書を確認したりしながら――。


〝――なるほどです。わかりました。すいへーりーべー、ぼくのふね。ななまがりしっぷすくらーくか、ですね。水素、ヘリウム、リチウム……〟


 おかげで、沙鳥もばっちり覚えたらしい。


〝もう絶対忘れませんよ。♪す~いへ~り~べ~、ぼ~くの~ふ~ね~〟


 第九のメロディーにうまく乗ったらしい。


〝芯条くん、ところで〟


〝何?〟


〝この文章って、どういう意味なんです?〟


 すいへーりーべーぼくのふねななまがりしっぷすくらーくか。


〝さあ……?〟


〝復活の呪文ですか?〟


〝違います〟


 そうこうしているうちに、チャイムが鳴った。


 鳴っちゃったよ。


 英語の先生は教科書や資料の類を教卓でトントンと整えながら言った。


「――はい、では次回は、今日やったところから設問を出しますからね、各自復習をしておくように。りぴいとらあん」


 うっ、復習が初見になってしまったじゃないか。


 まあ、おかげで次の理科小テストに関しては磐石になったのだ。それをよしとしておこう。そう思わなければ浮かばれない。


「あ、それから」


 先生は思い出したように言った。



「次の理科は先生が体調を崩して帰られたので、せるふすたでぃ。自習になります。それでは、しーゆー」



 先生はそんな言葉を残して、去った。


〝沙鳥、聴いたか〟


〝自習だなんて、儲けもんですね〟


 いや、苦労が水の泡だ。


〝なあ、次の時間……。今やった英語のところ教えてくれよ〟


 せめてそっちは取り返さなければ。


〝ふふん、しょうがないですね。特別ですよ?〟





 でも沙鳥は次の時間、ずっと寝ていた。

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