言いたい

 数学の時間。


 方程式の小テストが出され、真面目な生徒である僕の頭の中では、数字とXとYがぐるぐると回っていた。 


〝芯条くん〟


 集中力を乱す声が僕の名前を呼んで、それが僕の頭に響く。耳にではなく、響くのはあくまでも頭にだ。


 なぜなら、その声は誰かの口から発せられたわけではなくて、僕の頭へダイレクトに届いたから。


 声の主は、斜め前の席に座っている女子、沙鳥。僕と沙鳥は、考えるだけで会話をすることができる、いわゆるテレパスなのだ。


〝芯条くん、芯条くん〟


 沙鳥は指にペンを挟んだまま頬杖をついてテスト用紙を眺めている。傍目には計算問題に頭を悩ませているように見える。


〝芯条くん。実は相談があるんです〟


 だが実際には、まったく別のことを考えている不届き者だ。


〝沙鳥……〟


 僕は数学に使うべき頭の一部を割いて、沙鳥に念を送った。


〝その話は、今じゃなきゃだめ?〟


 数学の女の先生はいつもニコニコしているけど、かなり厳しい。試験の結果や授業態度が悪いと説教なり補習なりが待っている。まじめな僕としては、特に真摯に取り組まなければならない授業なのだ。


〝今じゃなきゃだめということはないですが、今がいいです〟


〝だめじゃないなら後にしてほしい〟


 今はテスト中だし。


〝うーん。では先に軽く、相談のタイトルだけお知らせします〟


〝相談にタイトルとかあんの?〟


 沙鳥は楽しそうな念を送ってきた。


〝タイトルはこちら。じゃん! 『こんなセリフ言ってみたいけど、なかなか言う場面がない!』〟


〝絶対、今じゃなくていいよ〟


 僕は正論を伝えた。


〝このあとの休み時間に聞くから〟


〝えー、ですが芯条くん〟


 沙鳥が不服そうな念を返してくる。


〝休み時間の芯条くんって、だいたい教科書とノートとチャクラを開いて勉強してるじゃないですか〟


〝チャクラだけは開いた覚えがないです〟


 他は開いて勉強しているけど。


〝休み時間に聞いたら、勉強のお邪魔じゃないです?〟


 沙鳥が信じられないことを念じだした。


〝いや、あのですね、沙鳥さん……〟


 僕はやんわりと憤る心を抑えて、思考を飛ばした。


〝僕が休み時間にしょっちゅう勉強してるのは、誰かのせいで授業をちゃんと受けられてない分、それを取り返そうとしてるんだけど〟


〝誰か……?〟


 なぜ本人がぴんと来ない。


〝ピーナッツごんすけのことですか?〟


〝誰だそれは〟


〝私の心の友です〟


 じゃあ、僕が知るわけない。


〝……悪いけど、僕の授業の邪魔をしてるのは沙鳥だよ〟


〝なるほどです〟


 わかってもらえましたか。


〝で、相談には今乗ってもらえるんですか?〟


〝話聞いてた、沙鳥?〟


 どこまでもマイペース。それが沙鳥だ。


〝そもそも、沙鳥は問題解けたの?〟


〝いいえ。まだです〟


 堂々だな。


〝そして、この先も解けることはないでしょう〟


〝諦めたんだな〟


〝だから、時間余っちゃったんですよね〟


 斬新な考え方。


〝僕は時間余ってないから。あとにしてくれないかな〟


〝もう、そこまで言うのならしょうがないですね〟


 なぜこの文脈でそっちがやれやれ感を出せるんだ。


 まあ納得はしてくれたようだ。しばらく大人しくしてくれるだろう。


〝では、タイトルに続いて予告編を〟


 僕が甘かった。


〝あの全米が泣いた相談がやってくる……〟


 いちいち、かかわっていたら負けだ。僕は、すでにだいぶ遅れてしまった問題に意識を傾ける。全部で十問あるのに、まだ一問目。えーと、Xが3のときの……。


〝『おい小僧。夜道に気をつけろよ?』〟


 えーと、Xが3のときの……。


〝『もう、お前らの手のひらの上で転がされるのは、まっぴらなんだよ!』〟


 えーと、Xが3……。


〝『それが……それがお前たち人間の、やり方か!』〟


 ……。

 気が散ってしょうがない。


〝などなどですね。人生で一度は言ってみたいと思うセリフっていろいろあるじゃないですか〟


 沙鳥は留まるところを知らず、次々に念を送ってくる。


〝でもです。なかなかそれがポロリとはまる場面に出くわすことって、なかなかないものです〟


 ポロリじゃはまってない。


〝ですから、私の言いたいセリフをばっちり言えるような場面に出くわすにはどうしたらいいか、それを一緒に考えてほしいんです〟


〝沙鳥……。もう予告編じゃなくて、本編なんだけど〟


 相談してるし、もう。


〝あっ、本当ですね。では、この流れで相談しちゃいましょう〟


〝そんな流れはない〟


〝どうしたら、ばっちり言える場面に出くわせると思います?〟


〝……どのセリフを?〟


 さっき三個出てきたけど、正直、沙鳥の人生で言うことになるようなセリフは一つもないと思う。そもそも女子のセリフじゃない。


〝あ、今のはサンプルで、本当に言いたいのはまた別です〟


〝まだあるの?〟


〝もちろんです。ちなみにさっきの三つは、以前に言う場面がありましたので〟


 沙鳥の過去に何があったんだ。


〝この先言ってみたいなと思ってるセリフはですね。例えば……ウウン〟


 沙鳥はちょっと低めの声色……。声じゃないけど、低い声の咳払いを律儀に念で送ってから、さらにセリフを伝えてきた。


〝『わかったよ刑事さん。私の負けだ』〟


 沙鳥が逮捕された。


〝『残念。安全装置は解除しておくんだったな』〟


 沙鳥がピストルを奪った。


〝『地獄で会おうぜ、相棒』〟


 沙鳥が滝つぼか溶鉱炉あたりに飛び込む寸前だ。


〝『こんなとこですかね』……。あっ、違いました。こんなとこですかね〟


 沙鳥は低い声色のままで念じてから、気づいて元に戻した。


〝今のセリフを隙あらば言ってやろうと思ってるんですけど、これがちっとも言う場面がないんです〟


 そりゃ、ないだろう。


〝……沙鳥。どれもこれも法に触れてそうな人の言うセリフだけど〟


〝『よく気づいたな小僧』〟


 沙鳥は嬉しそうな念を送ってきた。


〝そこなんです。こういうセリフを言おうと思ったら、もう無法者になるしかないんですよね。ルールをやぶることなんて……私にはできません〟


 僕からすれば、沙鳥はむしろ日課のごとくルールをやぶっている気がするのだけど。


〝せめぎあいですよね。ルールを守りたい気持ちと、セリフを言いたい気持ちのどちらが勝つかの〟


〝いや、せめぎあうなよ〟


 ルールは守れ。


〝法を犯さずにこういうセリフを言える場面って、あります?〟


〝まあ、身近に刑事がいれば、一つ目は言えるんじゃない〟


 熱心に考えることでもないので、僕は適当に答えた。


〝うーん。いないこともないんですが〟


 まじでか。


〝知り合いに刑事がいるの?〟


〝知り合いというか、父がちょっと刑事です〟


 衝撃の事実。


 まさか、こんなに不真面目な女子の父親が警察官だったとは。何やってんだ日本の警察。きちんと子供をしつけなさい。


〝じゃあ、お父さんとゲームでもして、負けたらさっきのセリフ言えば?〟


〝ちょっと芯条くん、変なこと言わないでください。父に勝負事で負けるなんてありえません。負けねーしです〟


 なんで父親に対抗意識むきだしなんだ。


〝でも、さっきのセリフ言いたいんだろ?〟


〝うーん。しょうがないですね。その誘惑には負けますね〟


 セリフの優先順位はかなり高いようだ。


〝では、もし奇跡的に、万が一父に負けるようなことがあったら、そのときは言ってやります〟


 お父さんがんばって。


〝あっ、では二つ目の『安全装置』の方も、父の銃を奪ってしまえば――〟


〝それはまじでだめだろ〟


〝えっ、では赤の他人の銃を?〟


〝それはもっとだめだよ〟


 沙鳥を正しい道に導かなくては。


〝えっと……。安全装置ってたぶんエレベーターとかにもあるだろ。とりあえずそれでも見ながら言えば?〟


〝うーん。でもエレベーターの安全装置が解除されてないことが残念になる場面なんてないですよ。安全装置が解除されてない状況は、むしろ安心です〟


〝そりゃ安全装置だからな〟


 そもそも、そういうものだ。銃だってそうだ。


〝わかりました。ではちょっとだけ変えて、『安心。安全装置は解除されてなかったな』にしましょう。これならいつでも言えます〟


 ちょっとだけというか、それは真逆なのでは。


〝沙鳥がそれでいいんならいいけど……〟


〝では、あとは三つ目の――〟


 そこでチャイムが鳴った。





 鳴ってしまった。





 続いて、先生の声が響く。


「ふぇーい。では後ろからプリントを回収しちゃってねー」


 僕は一問も解けていないプリントを前に回すことになった。沙鳥め……。


「沙鳥さぁーん? 芯条くぅーん?」


 先生に名前を呼ばれた。もちろんテレパシーではなく、声からしてニコニコしている先生の本物の声だ。


「昼休み、職員室に来なさぁーい。ちょっとお話がありますよーん」


 声のトーンとは裏腹に、不穏なフレーズが告げられている。


 しまった。


 問題を解いてるふうの顔をしながら、手がまったく動いてなかったのが先生からまる見えだったようだ。


 まさか呼び出しを食らうとは……。品行方正を第一に心がけるこの芯条信一にとって大いなる屈辱だ。


〝沙鳥。どうしてくれるんだよ……〟


 僕が頭の中で思わずぼやくと、沙鳥は嬉しそうな念を返してきた。





〝『地獄で会おうぜ、相棒』〟

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