ゾウリムシ

 理科室。


 黒板の前には白いスクリーンが垂れ下がっていて、プロジェクターから出された映像を写していた。


 スクリーンの中には楕円形の体の中に、丸い模様がごちゃごちゃとひしめきあっている生き物がいる。


 ゾウリムシだ。


 顕微鏡で小さな生物の観察をするのが、今日の理科の授業。


 白衣を着た男の先生が言った。


「えー、顕微鏡ではー、このように平たい形に見えますがー、えー、実際には円い、えー、筒のような形を、えー、していまして――」


 先生が設置した顕微鏡の映像がスクリーンに映写されている。二匹のゾウリムシが並んで立っている、というか、座っている、というか、いた。


〝『いい天気ですね、ゾウたろうさん』〟


 不意に女子の声がした。


 といっても、聞こえるのは僕だけ。


 なぜ僕だけに聞こえるかというと、僕は他人のテレパシーを感じ取ることができる超能力者『テレパス』だからだ。


〝『いい天気だね、リムシちゃん』〟


 ただし、さすがにゾウリムシの思念までは感じ取れない。


 それどころか、普通の人間の考えていることだってわからない。わかるのは、僕と同じようなテレパスがテレパシーとして伝えてきた思考だけだ。


〝『ずっとこんな日が続くといいですね、ゾウたろうさん』〟


 つまり、さっきからこの芝居がかったテレパシーを繰り出しているのは、プロジェクターに映っているゾウリムシではなく、この教室にいるもう一人のテレパス、隣の班のテーブルに座っている女子、沙鳥だ。


〝『そうもいかないよ、リムシちゃん』〟


 沙鳥は二匹のゾウリムシを、勝手にカップルに仕立て上げた。


〝『軍部から、また召集がかかったんだ』〟


 何やら、沙鳥劇場が幕を開けている。


〝『ゾウたろうさん……』〟


 まじめに授業を受けたい僕は、先生の解説に耳を傾けたいのに、どうしても気が散ってしまう。


〝『このリムシをおいて……、また行ってしまうのですね』〟


 どうでもいいけど、なんで『ゾウ』と『リムシ』で分けたんだ。どうせなら『ゾウリ』と『ムシ』だろう。どうでもいいけど。


〝『すまないゾウ』〟


 突如として、ゾウたろうの語尾にわかりやすい個性が生まれた。素のままではキャラが弱いと感じたらしい。


〝『今度の戦争は長引くかもしれないゾウ。次にきみと会えるのはいつになるか』〟


 単細胞生物が誰と戦うんだ。


〝『そんなのリムシは嫌ですゾウ!』〟


 リムシちゃんもその語尾なの?


〝『……嫌ですわ』〟


 間違えただけだった。


〝『ただでさえ……。戦争などなくたって、こうしてお父様の目を盗んででないと会えない間柄ですのに……』〟


 リムシはどこぞの令嬢らしい。


〝『どうしてリムシから離れようとするのです。ゾウたろうさんは、このリムシがお嫌いなのですか!』〟


 切ないな。


〝『そんなことはないよ!』〟


 あ、キャラ付けやめた。


〝『そんなことはないゾウ!』〟


 忘れてただけだった。


〝『僕はこの国の人たちを守るために生きるって決めたんだゾウ! その誓いをやぶることなんてできないゾウ!』〟


 戦いに生きる男だな。ゾウたろう。


〝『このリムシが、引き止めてもですか?』〟


 それはもちろん引き止めても、だろう。


〝『ま、どうしてもって言うんならやめとくゾウ』〟


〝やめんのかよ〟


 しまった。


 思わずテレパシーを使ってつっこんでしまった。実際の声が出なかっただけまだましだけど……。


〝ちょっと、芯条くん?〟


 沙鳥がゾウリムシのセリフでなく、自分の言葉として僕に念を送ってきた。


〝勝手に入ってこないでください〟


〝いや勝手も何も。ずっと僕の方に念を飛ばしっぱなしにしてたのはそっちだろ〟


 聞かれたくない思考なら、思考力を抑えれば届かない。さっきまでの僕の心の中のつっこみが、向こうに届いていなかったように。


 沙鳥は念じてきた。


〝そりゃ、芯条くんに聞かせてたからですよ〟


〝聞かせてたのかよ〟


〝今は芯条くんが、私によるゾウリムシ劇場を鑑賞する時間ですからね〟


〝いや、理科の時間だけど〟


 紛れもなく。


〝観客がステージに上がってきちゃだめです〟


 そもそも劇場に入った覚えがない。


〝いや、だってほら、その……ゾウたろうがさ〟


 当たり前のようにゾウたろうという単語を使ってしまったことが、少し恥ずかしかった。


〝あっさり戦いから逃げようとするから……〟


〝素晴らしいじゃないですか。争いよりも愛をとる、素敵な選択です〟


〝いや、そこはほら、それでも自分の使命に従って生きるっていうのが、男らしくて格好いいんじゃないの。そういうところをリムシも好きになったんじゃないの?〟


〝顔がタイプだっただけです〟


〝顔って……〟


 ゾウリムシじゃん。


〝だいたい同じ顔だよ〟


 そもそもどこが顔だ、あの体の。


〝ゾウリムシ界では、ゾウたろうさんはイケメンさんですよ?〟


〝そうは見えないけど〟


〝水も滴るいい男です〟


〝基本、水の中にいるからな〟


 僕が指摘すると、沙鳥はやれやれといったふうな念を送ってきた。


〝しょうがないですね。わかりましたよ、芯条くん。そんなにゾウリムシ劇場に参加したかったんですね〟


〝は?〟


〝特別にゾウたろう役を差し上げます〟


 なぜそんな展開に?


〝『ゾウたろうさん、このリムシが引き止めてもだめなのですか?』〟


 ……えっと。


〝『ゾウたろうさん?』〟


 スクリーンのゾウリムシの一匹が、僕に問いかけているように思えてきた。


〝『ゾウたろうさん? もし答えてくれないのなら。次の数学の時間、頭の中で思いつきの般若心経唱えますよ?』〟


 それはすごく嫌だ。というかその脅しは、リムシちゃんじゃなくて沙鳥本人の言葉だろう。


〝『さあ、ゾウたろうさん?』〟


 仕方ない。

 どうせ、周りには聞こえない。沙鳥の小芝居に付き合うか。


〝『……ぼ、僕は、みんなを守るために、た……。戦わないと、いけないんだ』〟


 わー、恥ずかしい。


〝『ゾウたろうさん、語尾はゾウのはずですよ?』〟


 もっと恥ずかしいことを要求されたが、それは無視した。


〝『リムシのそばにはいられない』〟


〝『あ、無視しましたね』〟


 無視しました。


〝『ゾウリムシだけに無視しましたね?』〟


 無視します。


〝『さようなら、リムシ。僕は戦場へ行くよ』〟


 こんな茶番は、さっさと終わらせよう。


〝『ゾウたろうさん……。そんな、ひどいわ……。リムシたち昔、約束したじゃありませんか。大きくなったら一緒に――』〟


 沙鳥は涙ながらの念を送ってきた。


〝『――合体しましょうって』〟


 なんて約束だ。


〝が、合体すんの?〟


〝あれ? ゾウリムシって合体して増えるんじゃないんですか?〟


〝たぶん、……接合? じゃない?〟


〝だいたいあってるじゃないですか〟


 だいたいあってるけど、なんか意味合い違うよ。


〝『……わかりました。ゾウたろうさん。それじゃ、約束してください。もしもこの戦いから無事に帰ってきたら、接合するって約束してください』〟


 ベタな展開にゾウたろうは困った。


〝『その約束は、しない方がいいと思う』〟


〝『ひどい。どうしてですか?』〟


〝『なんか、そういう約束をすると、もう絶対、戦場で帰らぬゾウリムシになって絶対接合できなくなる気がする』〟


〝『なんでですか』〟


〝『なんでって』〟


〝『死亡flagですか』〟


〝『発音いいな』〟


〝『死亡flagがなんです。そんなものは愛の力で叩き割ります』〟


 壷か。


〝『折るものじゃないかな、フラグは』〟


〝『なんでもいいです、約束してください。私のために必ず帰ってくると。帰ってきたら接合式を挙げようって』〟


 面倒になってきたので、フラグを成立させることにした。


〝『……わかった。この戦いが終わったら、絶対接合しよう』〟


〝『約束ですよ?』〟


 不意に、スクリーンからゾウリムシが二匹とも消えた。

 先生が顕微鏡から、スライドガラスを外したのだ。


「――えー、それじゃー、以上のことを踏まえて、えー、各自で観察するように、えー、観察が終わったら、えー、ガラスはー、えー、洗っておくこと……」


 そう言うと、先生は横の流しの蛇口をひねって、勢いよく飛び出してきた水にスライドガラスを当てた。


〝ああっ! ゾウたろうさんっ!〟


 フラグの力は偉大だった。


 さようなら、ゾウたろう。そしてリムシ。きみたちのことは、きっと忘れるだろう。あす、あさって。早ければ次の休み時間にも。


〝ゾウたろうさん……これはまさに……〟


 沙鳥は無念そうに念じてきた。





〝二つの意味で、センジョウに散りましたね……〟





 無視します。

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