ぶぶづけ

 午後の授業は眠くなる。


 いい具合に腹もふくれて、いい具合に気温も上がって、睡魔が仕事のしやすい環境なのだ。


 社会の先生の声はのんびりしていて、それも睡魔に加担していた。むしろ、あの人こそ睡魔そのものなのかもしれない。


 それでも僕は先生の話に耳を傾けながら、教科書に目を走らせていた。


 なぜなら僕は真面目だからだ。


〝芯条くん、芯条くん〟


 女子が僕の名前を呼んでいる声が、頭の中に響いた。


 答えずにいると、声の主である僕の斜め前の席の女子・沙鳥は、こちらに振り向きもせずに話しかけてくる。


〝芯条くん、芯条くんってば〟


 この言葉は僕だけにしか聞こえない。僕と沙鳥は、声を出さなくても念じるだけで言葉のやり取りができる。いわゆる『テレパス』ってやつなのだ。


〝芯条くん、授業中ですよ〟


 言われなくてもわかっている。


〝起きなきゃだめです〟


〝起きてるよ〟


 冤罪もいいところなので、僕はテレパシーで反論した。


〝なんだ、起きてたんですね。おはようです〟


〝おはよう〟


 じゃなかった。


〝いや、違うよ。そもそも起きてたんだ。おはようじゃないよ〟


 僕が指摘すると、沙鳥は返してきた。


〝業界人は、いつだっておはようなんです〟


 ここは何業界でもない。


〝それってよく聞くけど、本当なの?〟


〝それはもう。業界人たるもの、明け方だろうが早朝だろうが午前だろうが、もれなくおはようです〟


〝そりゃ誰でもおはようだろ〟


 日本のあけぼのについて語る先生の方を向いて、すました顔をしている沙鳥の姿は、傍目から見れば優等生だ。


 でも本当は、多少は授業に取り組む気があったのに不可効力で寝てしまった生徒よりも、明確な意志を持って授業から脱線している。


〝そういえば、挨拶の話で思い出したんですが〟


 沙鳥は念じてきた。


〝修学旅行、京都に決まりましたね〟


〝挨拶の話はどこにいった?〟


 沙鳥は、何を考えているのかよくわからない女子だ。


 いやまあ、テレパシーのおかげで何を考えているかは他の誰よりも伝わってきてはいるんだけど、その伝わってきた内容がよくわからないのだ。


〝京都といえば、前にラジオで読んだか本で聴いたんですけど〟


〝ラジオを聴いて、本を読めよ〟


〝京都って、変わった挨拶があるんですよね〟


 一応、挨拶の話ではあったらしい。


〝変わった挨拶って?〟


〝ぶぶづけがどうのっていう〟


〝ああ……。聞いたことあるけど、あれは……挨拶じゃないんじゃないかな〟


〝あれ……。では、なんでしたっけ?〟


〝たしか、人様の家にお邪魔してる時に「ぶぶづけでも食べていかれます?」って聞かれるんじゃなかったっけ?〟


〝そうだ、それです。それで、たしか、そう言われたら――〟


 沙鳥は当たり前のように念じてきた。


〝――豆を投げつける〟


〝違うと思う〟


 京都の人は鬼か。


〝あれ? では、右の頬をさしだすんでしたっけ?〟


〝それも違う思うよ〟


 京都の人は神か。


〝……右のぶぶづけをさしだす?〟


〝右のぶぶづけってなんだよ〟


 まいったな。このままでは、むやみに沙鳥を京都に行かせられない。僕は正しい情報を教えてやることにした。


〝沙鳥〟


〝はい、芯条くん〟


〝ぶぶづけを勧められたら、それは〝そろそろ帰ってほしい〟っていう合図だから、おいとましなきゃいけないんだよ〟


〝来たばかりでも?〟


〝さすがに、来たばっかりだったら言わないんじゃないかな〟


〝うーん。でも変ですね。帰らせたいのに、どうして食べ物を勧めるんです?〟


〝直接「帰ってほしい」って口に出すのも失礼だからだろ。遠まわしに相手に伝えるっていう、京都の人の風流な一面みたいなことじゃない?〟


〝ふーん、です〟


 沙鳥は、不服そうな念を返してきた。


〝京都の人、意地悪ですね〟


〝なんでだよ〟


〝遠まわしの方が、感じ悪い気がしませんか?〟


 たしかに、わからんでもない。


〝それに、あるんなら食わせろですよ。ぶぶづけ〟


〝食い意地が張ってただけなんだな〟


〝ところで、です。芯条くん。帰ってほしくないときは、なんて言うんです?〟


〝え? そんなの考えたこともないけど……〟


〝帰ってほしいときは、ぶぶづけ食べていきませんかって言うわけです。ということは、残ってほしいときはやっぱり逆なんでしょうか〟


〝逆って?〟


〝お前にぶぶづけはやらん!〟


〝……それ、むしろ「帰れ」って感じだけど〟


 ぶぶづけが娘みたいになっている。


〝帰ってほしくないときは、とくに何も言わないんじゃない?〟


〝それは変です。帰ってほしくない人にこそ、ご馳走をふるまうべきでしょう〟


〝ぶぶづけって、ご馳走なの?〟


〝違うんですか〟


〝違うだろ〟


〝ところで芯条くん。一つ聞きたいんですが〟


〝すでにいくつも聞かれてるけど〟


〝ぶぶづけって、何ですか?〟


 沙鳥は根本的な問いを投げかけてきた。


〝それは――〟


 僕は困った。


 なぜなら、ぶぶづけが何なのか僕にもわかっていなかったのだ。


 盲点だった。言葉の響き的にご馳走ではない、と判定はしたものの、具体的に何なんだか、実は僕も知らない。


〝……つけもの、かな?〟


 言葉の響き的にはそんな感じだ。


〝何のおつけものです?〟


〝……ぶぶ?〟


 言葉の響き的には。


〝ぶぶって何です?〟


〝……かぶ? の……方言?〟


 言葉の響き的には。


〝芯条くん〟


〝はい〟


〝安易です〟


 想像力を一蹴された。


〝すいません〟


〝きっともっと豪華な食べ物です。必死でひた隠しにしているくらいですから〟


〝ひた隠しにしてるわけじゃないと思うけど〟


〝だって、さっきの理論からいくと、今まで誰一人としてぶぶづけを見た人はいないってことになりません?〟


〝なりません〟


〝きっと幻の生き物の肉とか使ってるんですよ。カモノハシとか〟


〝カモノハシいるけど〟


〝ああ、どうしても、ぶぶづけが食べてみたくなっちゃいました〟


 沙鳥は、落胆した様子で念を送ってきた。


〝でもでも、です。そのためには京都のお宅にお邪魔して、「帰れ!」という意味で勧められたとわかっていながら、意地でも帰らない図太さが必要なんですね。私、自信ないです〟


 沙鳥ならできそうだよ、


 という念は、送らないでおいた。テレパスはそういう微調節もできる。なんでもかんでも思考が流れてしまうわけではない。


〝ああ。ぶぶづけさん〟


 沙鳥がぶぶづけを敬称で呼び出した。


〝いったい、どんな風に甘いんですかね〟


〝勝手に甘くするなよ〟


〝きっとスポンジはふわふわなんでしょうね〟


〝名前に反して洋風だな〟


〝ホイップはなめらかで〟


〝スイーツなんだな〟


〝上には大粒のイチゴが〟


〝完全にショートケーキだな〟


〝そして噛みしめるとジューシーな肉汁がじゅわっと〟


〝ショートケーキじゃなかった!〟


〝ああ。トッピングとか選べたりするんですかね?〟


 やはり図太いな、沙鳥。


〝じゅるじゅる〟


〝脳内でよだれ垂らすなよ……〟


〝うう、いつか給食に出ませんかね。ぶぶづけ……〟


〝そんなに気になるなら、ネットで調べたら?〟


 テレパスには、テレパシーがあっても、ぶぶづけがなんなのか即座にわかる能力は持ってない。


 でも僕らには、というか大半の現代人には、テレパシーよりも便利な文明の利器がある。そう、携帯型のスマートなフォンだ。


 社会の先生は自分も寝そうなくらいのリズムでしゃべっている。小型情報端末機器をいじっていたとしても、ばれやしないだろう。


 まあ、真面目な僕はそんなことはしないけど、沙鳥はそんなこと気にするまい。


〝何を言ってるんですか、芯条くん〟


 沙鳥は、たしなめるような念を送ってきた。


〝そんなことできるわけないじゃないですか〟


 沙鳥は幼い子を叱るような調子で念じてきた。





〝授業中に他のことするなんて、悪い子になっちゃいます〟





 だったらもう悪い子だよ。

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