真白を捧ぐ夜想曲
深津条太
揺りかごはほどけ、赤子は夜へ
揺りかごはほどけ、赤子は夜へ
毎日の祈りを欠かさない。
それが預言の極意だ。そう聞かされて育ってきた。
「――邪悪な夜を永劫に照らしたまえ」
女神像はいつものように石造りの珠を掲げ、わたしによって捧げられる祈りに黙って耳を傾けている。
生を繋げてゆけ。自分に対する預言はまだ変わらない。だからここで朽ちるような生活を送っている。黒い修道服の裾に着いた汚れをはたいて立ち上がる。扉が呼び込む隙間風は礼拝堂内の埃を巻き上げて吹き払う。
「掃除、しないと」
ため息交じりに呟いて、押した扉が軋む。修理もだと独り言を付け加え、後ろ手に扉を閉めた。
朝露に濡れた庭は森の香りが押し寄せ、朝の太陽が目の前でぱっと弾ける。背の低い若草が輝き、石の敷かれた道を浮き上がらせる。修道院の敷地を囲う植え込みの低木も色の深い葉を茂らせ、心地の良い陽気を待ち惚けている。
飛び石の道を歩きながら、ちびっ子ミリーを思い出す。あの子はいつも石に蹴躓いて転んでいた。けれど、人一倍仕事をして、高い踏み台を抱えて走り回って剪定された庭は絵画のように美しい出来になっていた。いつしか背も伸びて、その不名誉な渾名を振り払ったのも覚えている。高いところの仕事をしつづけたお陰だと当人は自慢げだったことも。
彼女は今、どうしているだろう。数年前に家庭を持ったと噂を耳にしたきりだ。彼女に渾名をつけたロージーもどういう経緯か旅劇団で花形を任されているらしい。
あのころに比べると院内は静かになって、動物達もこれは餌箱だといわんばかりに悠々と畑を荒らしに来る始末だ。女神の加護なのか、生活できるだけの作物だけは残ってはいるが。
その作物を調理するのもわたしがしなくてはいけないことのひとつだ。古い匂いの染み付いた寮のキッチンで、わたしは巨大なパン種をひたすらに捏ね上げる。発酵した生地の芳しい香りは織り込んだ香草と混ざり合う。ぐっと押した生地がテーブルの上に広がる。生地に空いた気泡の大きさはまちまちで、わたしはそれを掌底で押し潰した。
パンを焼くこともすっかり得意になって、いつかの焦げついたパンをこしらえることはもうない。そんな恥な思い出を知っている友人はまだ残っているだろうか。きっと戦火に焼かれ、年月に呑み込まれ、誰ひとりと残ってはいまい。もしかすれば、と思考を繋ぐ。わたしのように「特別」となって生き残っている者がいてくれれば嬉しいなとありもしない希望をなぞる。
もう何十年も同じ姿でこの場所に居座りつづけていた。
何歳なのだと訊かれることは幾度かあった。五だとか十だとか答えられた時期もあった。やがて口ごもるようになり、笑われたり驚かれたりするようになり、やがて数え忘れて答えを持たなくなった。
十八歳。それはわたしが持っている偽りの答えだ。大人過ぎず、子供過ぎない。この答えで通用するのだから、完全に間違ってはいないと思う。神の言葉を聞くようになった代償か恩恵か、わたしは老いることを取り上げられた。それが十八の夏のこと。
大概の不老には不死がセットになっているもので、三度目に首を掻っ切った季節が一巡しようかという春にようやく、わたしの時間が止まり、死にも進めなくなっていたことに気付かされた。
それを慰めてくれた親友も白髪と皺に埋もれて死んでいった。百歳越えの大往生だった。
火の弾ける音にわたしは顔を上げる。
パンの焼き上がる匂いに憂鬱な思い出を振り払う。凛としていたほうが格好いいとはその親友の云いで、ただの不愛想にも意味をくれたことには感謝している。
親友の数少ない形見のほとんどは彼女の家に戻され、わたしに回ってきたのは死の間際に手渡された髪飾りひとつ。老眼の進んだ彼女の手作りで、何千年でも耐えられるようにと頑強な素材で出来ていた。それは神話の中で女神の軍勢を唯一打ち破った竜が背負った赤い月を模したものだと耳打ちしてくれた。それが彼女が犯したたったひとつの罪で、ささやかな背教だった。
そんな無二の親友のものだった部屋が今のわたしの私室だ。質素な部屋だが、ベッドや机の配置もあのころのままで、アロマも彼女のものに近付けるように調香していた。
手に染みた小麦と香草の匂いは洗っても落ちることなく、ふわりと香ってくる。向こう一週間分のパンを焼き終え、夕食のスープも用意したわたしはベッドに沈んでいた。
空のてっぺんから差し込む日の光は窓辺を白く照らしていた。エンドテーブルに積んだ本をひとつ拾い上げ、椅子を引きずり窓辺に座る。娯楽だけは空いた部屋にいくらでも転がっていた。そして時間も膨大にあった。
たったひとりの修道院にわたしを縛る明確なリズムは最早存在しない。ただ生き、女神の預言を受け取りつづける。それがいつしか得た生きる意味だった。
その預言を伝える者も居なくなり、遥か遠くに見える街の遠景だけで答え合わせをするしか使い道がない。しかし、誰かの役に立たなくてはいけないなどという戒律も存在せず、それを悪だとする女神の断罪は未だない。
予知と決断。きっとそれも女神が司るこの特性に由来するのだろう。彼女はわたし自身に決断させようとしているのだ。彼女の導きでその答えひとつしか残らなかろうとも、わたし自身がそれを選ぶことになる。そうやって破滅した人間をいくらでも目にしてきた。それが彼女なりの罰し方なのだ。
鈍い轟音。重いなにかが地面を抉ったような音。それに気付いて顔を上げると、窓から射す光が青白い月光に変わっていた。
どうやら眠ってしまったか、無駄な問答に熱中し過ぎたらしい。
わたしはカンテラを手に、廊下に躍り出た。音は礼拝堂からだ。音の異質さからして扉の蝶番が外れたわけではなさそうだ。
未知を暴き、世界を拓け。
抽象な一文が脳裏を過ぎった。女神からの預言だ。その言葉はいやにはっきりしていて、頭痛を誘発させる。
礼拝堂の扉はやはり閉じたままで、扉に手を掛けると再びあの音がした。ただし、その音はさっきと比べて何倍も大きい。その轟音の細部に帯びた湿り気を感じることすらできた。
扉を開いて見た光景にわたしは、ああと息を漏らした。がんがんと幾度も床を打ち砕く音が脳裏に響く。何度も何度も繰り返される轟音の中で、わたしは笑っていた。ようやく自分がどうなっているかを知ったからだ。
わたしは笑いながら女神の御前に跪く。口は自然と祈りを唱えていた。夜の闇は女神が祓ってくれる。
鈍い音を伴って大理石の床を真っ二つに叩き割ったのは巨大な球だった。女神像の掲げていた宝珠は彼女の手を離れ、それを砕こうと登ってきた賊を下敷きにして落下した。賊の血で砕けた床がぬめり、灯された蝋燭の炎を映して揺らめいている。
珠はその衝撃で割れてしまっていた。及び腰になっていた生き残りはその内側に輝きを見つけて飛びついた。
「神をそれほどまでに貶めるのですね」
後頭部を掌底で思いきり押す。短い悲鳴と硬いものにぶつかる感触。手が押さえる向こう側で細かななにかが折れていく。頬がむず痒くなる。目蓋を下ろすと睫毛が湿っぽかった。それでも手に加える力は緩めない。ごぽごぽと液体が湧き上がるような粘性のある音が腕を伝う。
くすぐったい顎に手を添える。正面に翳した手の平は濡れていた。それが何故か感慨深くて喉の奥から声が漏れる。
身を乗り出し死体を越えて、珠の中に転がるものを拾い上げる。銀のネックレスに彼女の象徴である宝珠越しの瞳のマークを模した装飾がくっついている。
「これは、ロザリオ?」
酷い既視感を覚えながら手の中で弄ぶ。顔を上げるとそれはすぐにわかった。珠を零した石の左手に引っ掛かっているそれだった。手で揺れるそれに目を落とし、もう一度上を仰いでみて、目の前で死ぬふたりの男達を憐れに思う。
ああ神様、この者達を赦したまえ。膝を折り、彼らの死を悼む。きっと辺鄙な山奥にある小さな修道院で路銀を稼ぐつもりだったのだろう。彼らに女神の形見を奪う気はなかったのだ。それ相応の覚悟が出来ずに死ぬのはいたたまれない。
「うぇ、どうしよう」
祈りを終えて立ち上がると、血を吸った修道服は肌に貼りついていた。幾度か足踏みをしてみる。布地が肌を擦って気持ちが悪い。少し悩んでからわたしは裾を持ち上げ、絞った。握る手の隙間からぱたぱたと音を立てて血が滴っていく。二度程絞ってやると、皺は気になるけれど着心地としては随分と改善された。
少し気分もよくなり、わたしは開きっぱなしの扉に身を滑らせた。
夜の庭も風流なものだ。空高く昇った三日月に、月光を受けて青く煌めく石畳。夜特有の透明な匂いは頭をすっと冴えさせる。この風景を共にした友のことを思い出して懐かしみながら、肥料の山に突き立てたスコップを引き抜く。
礼拝堂の作り出す影の中を走り、裏の畑に跳び込む。夜はわたしの姿を闇に溶かし、彼らの無防備な背中を晒す。
大きな振りからの一撃。浮いた錆びが握り込んだ手に引っ掛かり、細長い痛みをもたらす。ぶちぶちとなにかを千切る衝撃。ひゅうひゅうと空気の漏れる音。悲鳴を上げようとしているのか、喉にめり込んだままのスコップを通して振動が伝わってくる。そのまま鳩尾を蹴り飛ばす。反撃の体力も残っていない賊はその片割れに力なく突っ込んでいく。蹴りの跳ね返りをそのままに踏み込んで、スコップを膝の皿にぶつけてやる。醜い悲鳴。スコップの面に全体重を乗せて踏み抜いた。がこと関節の外れる音。きっと細い骨も何本か巻き添えになっていることだろう。痛みに堪えられなかったのか男は絶叫の途中で気を失った。
「あ」
振り向いて見てしまった光景に、それくらいの反応しかできなかった。
ぱちぱちと火の粉を噴く窓。そこはジュシーの部屋。つまりは今のわたしの部屋だ。ふらりと窓を横断した影を見つける。その瞬間には足が動いていた。
そいつとは階段で鉢合わせした。手にはわずかに装飾のついた燭台やジュシーと秘密で集めたコインを入れた瓶。どれもはした金にしかならないものばかりだ。
「おいお前……なんだそれ」
にたりと笑ったと思えば、眉が寄ってわたしを見る。その視線を辿ると、服にたっぷりと染みた血、腕から滴る血、地面にも点々と血が零れている。掴みっぱなしだったスコップにも粘度のある真っ赤な塊がこびりついていた。
男は後退りしながらわたしを睨む。二段飛ばしで階段を上ったわたしはスコップを叩き込む。しかしそれは火の粉をいくつか弾くに留まる。本命の足払いは綺麗に決まり、そいつは階下まで転げ落ちる。四肢の何箇所かを切ったようだが、一番酷いのは外側に曲がった右足だった。男はわたしを睨めつけるのに忙しくて、気付いていないようだった。
「それ。ほら、足。ぐねんって、いや、ばきってなってますが」
笑っちゃいけない。頭で散々唱えながら指摘する。そいつはわたしを精一杯警戒しながら、自身の下半身に目を落とす。そして表情をゆっくりと歪めた。男はかちかちと歯を打ち合わせ、折れ曲がったそれを触るべきか触れぬべきかを決めあぐねている。
炎でいくらか崩れだした階段を跳ぶ。それからは硬いカボチャを切る感覚だ。刃を垂直に添え、滑らないポイントを探る。
「ほっ」
ひと思いに力を籠める。床板にスコップが刺さる音、そして絶叫。
深く息を吸うと、噎せ返るような焦げた空気が肺を焼く。ようやく世界が現実味を帯びて、わたしに押し寄せ戸惑った。
なんなんだお前はと涎にまみれて喘ぐ男の右足は腿の半分辺りで途切れ、骨の荒い断面を晒している。ぜいぜいと息をする男の眼がじっとわたしを睨む。その珠の奥に美しい光を見た。良心? 恐れ? 諦念? 正体は掴みかねていたが、それはわたしを強く惹きつける。
破裂音。腹への衝撃。
「……あ」
一拍遅れて、わたしは事態を飲み込む。酷く変形した足を抱えたそいつが銃を構えていた。つまりは撃たれたらしい。
肩、胸、首、腕。銃声は続き、どくどくと早鐘を打つ心臓は大量の血を吐き出していく。
重い身体を引きずって、突き出した喉仏に獲物を添える。さっきと同じ要領だ。吸って、吐いて、吸って、吐く。
「待て! 止めてくれ! その恰好、シスターだろ? 情けを、なあ慈悲をくれ。聞こえてるだろ! 赦しを――」
わたしは晴れやかな気持ちになって、笑顔を向けた。そして、彼の懺悔を受け入れる。目蓋を下ろし、神へ懇願する。
汝に幸多からんことを。唱えた祈りは声にならず、吐息として口から漏れた。
「シスター! おーいってば、シスター!」
肩を叩かれるまで、わたしが呼ばれているのだと気がつかなかった。振り向くと、片手に荷物を抱えた少女が立っている。
「ああ、旅商人の」
彼女は古地図の街を探していたわたしをこの街まで連れてきてくれた恩人だ。幌馬車で世界を旅していて、寄った街で得た様々なものを使って行商をしているようだ。さっきまでその店番をしたらしく、今はそれを相方に任せて買い物をしていたのだという。
本当はふたりで買い物したいのにさと愚痴を零しながら、あんまり待たせるのも可哀想だからと手を振りながら帰っていった。
そう思ったらくるりと反転、また彼女が戻ってくる。
「忘れてた。占いのこと、もう噂になりはじめてるよ。しばらくはこの街にいるからまた占ってよ」
またねと大袈裟に手を振って彼女は人混みに消えた。
「占い、ね……」
預言なのだという訂正はまたできなかった。けれど、そちらの方が人々への受けはいいようだった。街まで馬車に同乗させてもらった借りを返すべく、わたしは彼らの客寄せとして預言をすることにしたのだ。女神の言葉に狂いはなく、どんな人間の運命ですら当ててみせ、その未来を示唆した。
その日の終わり、ひょんなことから彼らふたりの預言をすることになった。
再びつかんだその手を離すことのなきように。
どちらの預言も締めの言葉は同じだった。それを聞いたふたりは、照れの混じった苦々しい顔で互いの顔を見ていた。預言中、頭に映り込んだビジョンは壮絶なものだった。しかし、わたしはその光景を呑み込んだままだった。
明確な物言いはしない。それが彼らの人生にわたしが巻き込まれない為の暗黙の了解だった。
あの夜を明かしてみて、わたしは修道院からは出ることになった。賊の放った火は木造だった寮をしっかりと焼き落とした。あの場で生き残った人間はひとりといなかった。
宝珠を失った女神像もその日の内に崩壊し、礼拝堂に身体の破片を散乱させた。それと同時に女神の気配も失せ、たったの一夜で神聖さを保っていた聖地はだれひとりと寄せつけぬ隔絶されし土地となってしまった。
煤けた寮の残骸も、女神像の破片も動物達にとってはいい隠れ蓑となり、あの辺りはすっかり獣臭くなってもう住めたものじゃない。
わたしと女神の繋がりはこのロザリオひとつになってしまった。けれど、女神との繋がりは強くなったらしい。預言は前よりはっきりと長く聞こえるようになり、なにかしらの断片を視るようになった。それがこのお陰だと断言まではできないが、わたしは女神を信仰することと同じようにそれを信じている。
夜、宿の部屋でも祈りは欠かさない。視界に差し込まれるビジョンは暗いものがほとんどだ。それほど世界には闇が横たわっているということだ。だからきっとわたしひとりの祈りでは足りないのだろう。まごうことなくそれは無力なのだ。
だからこそ、女神像が崩壊する直前、あの瞬間に降りてきた神託を信じた。
だからこそ――わたしは祈りを欠かさない。
真白を捧ぐ夜想曲 深津条太 @jota_hukadu
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