思い出したこと

@pustota

第1話


 その日、介護士は老人から一度も、彼の死んだ妻の名前でも、自分の前に通ってきていた介護士の名前でも呼ばれなかったので、日誌に『きわめて良好』と記した。実際、非常にめずらしいことなのだが、老人はその日一度も介護士のことをほかの誰かと取り違えなかっただけでなく、一日の終わりになってもそのことを確信を持って思い出すことができた。意識が明晰なときの老人は、介護士をほかの名前で呼ばないだけでなく、いかなる名前でも呼ぶことはない。それは介護士に名前が無いからでもあり、人間のように名前を呼んで注意を向けさせなくても、介護士の音声センサーは彼の声を拾って、言いつかった用件を果たしてくれるからでもある。

 とはいえ、そんな良好な状態も長くは続かず、次の日にはもう、老人はまた介護士を死んだ妻の名前で呼び、おむつを二度替えてもらい、昼食を三度要求した。その日の午後三時過ぎ、老人が今日はもう昼食を済ませたかどうか、どうしても思い出せずに悩んでいると、玄関に郵便受けを見に行っていた介護士が、大判の封筒を両手に捧げ持って部屋に戻ってきた。

「郵便が来ています。開封しますか?」介護士が合成音声で訊ねた。

「なにをだ?」

「毎月届いている医学情報誌ですよ」

「ああ、開けてくれ」

「眼鏡を持っていきましょうか」

「いや、かわりに目次を読んでくれ。今日はなんだか目が疲れているのでね。面白そうなものだけあとで読むことにするよ」

 介護士は雑誌を開いて目次をゆっくり読み上げていった。老人はひとつひとつのタイトルについて、ふむ、とか、なるほど、と短い相槌を打った。最後まで読み終わったところで、介護士がもう一度はじめのほうに読んだ項目を繰りかえして言った。

「アルツハイマーの画期的な治療法が確立されたそうですよ」

「そいつはすごい!」だが老人はそう言ったきり忘れてしまった。

 翌日の午前中、ベッドの上で上半身だけを起こして新聞を読んでいた老人は、はたして今朝はもう食事をしたかどうか思い出せず、廊下の掃除をしている介護士に訊こうとして新聞を置き、スリッパを履いてゆっくりと立ち上がった。部屋を横切る途中、どこかに朝食の痕跡が残ってはいまいかと思ってテーブルに目をやると、医学雑誌の目次のページが広げたまま置いてあった。その雑誌が昨日届いたことはおぼろげながら記憶していたが、もう目を通したかどうかは思い出せず、手に取って目次を眺めた。眼鏡を新聞といっしょにベッドの上に置いてきてしまったので、ページに顔を近づけ、一字一字たしかめるように読んでいると、アルツハイマーについての記事のところに線が引いてあるのが目にとまった。

『してみると、昨日のわたしはこれを読んだのだな。そして忘れてしまうことを見越してちゃんと印をつけておいたわけだ』そう考えて、老人は自分の用意周到さに勝ち誇ったような気持ちになった。彼はベッドに戻って腰を下ろすと眼鏡をかけ、記事のページを開いてじっくり読んだ。新しい治療法は、都内のN病院で受けられるということだった。N病院なら、うちから車で四十分ほどだ──老人は考えた──しかもあそこの脳外科の主任の外山は、老人の医学部時代の後輩だった男だ。もしかしたらもう引退しているかもしれないが……そういえば去年か一昨年に、後輩の誰かが亡くなった気がするが、あれは誰だったっけ? 外山じゃないといいんだが。まあ、治療を受けるのに知り合いがいなくても別に不都合はあるまい。病院に電話しようと思い立ったところで、携帯電話は取りあげられてしまったことを思い出した。ただでさえ孤独な老人から外部との繋がりを奪うなんてと思い腹が立ったが、どうせ暇なのだから多少待たされるぐらいなんでもないと考えて、直接出向くことにした。

 老人はベッドから立ち上がって歩きだした。彼は肉体的には健康そのものだった。普段はベッドの上で一日中無為に過ごしているせいで体力は衰えているものの、今こうして目的を得て、外へ向かって歩きはじめると、足腰もしっかり立ち、体の内にまだまだ力がみなぎっているのを感じとった。廊下に出て玄関に向かって歩いていると、掃除をしていた介護士が手を止めて彼のほうを振りかえった。老人は玄関を開けると、ドアを手でおさえて後ろを向き、「良子さん、ちょっと病院に行ってくるよ」と言った。

「どこか具合が悪いのですか?」介護士が脚のない下半身についたタイヤでのろのろと近寄ってきた。「待ってください。いまスタッフを呼びますから」

「大丈夫、どこも悪くないからひとりで行けるよ」そう言って老人は後ろ手にドアを閉めた。

 外に出ると、穏やかな日差しに老人は元気づけられた。最後に外出したのがいつなのか思い出せないほど久しぶりに外に出たので、家の周りのなんの変哲もない住宅街の風景も、老人にはすべてが新鮮に見えた。通りに出て商店街を歩いていくと、見知った店の多くが無くなったり、大きく様変わりしていることに気付かされた。わたしの知らないうちに、いろいろなことが変わってしまう、と老人は思った。いや、知っていたのに忘れてしまったのか──どちらでもいいが、ともあれ、こんな不確かさで世界を眺めるのも、もしかしたら今が最後かもしれない。なにしろ、痴呆が治るのだから。向こうから歩いてきた中年の女性が、すれ違うときに彼のことをじろじろ見ていたような気がした。もしかしたら誰か顔見知りだったろうか? わたしがこうして出歩いているので驚いたのだろうか。けれども明日には、いや、もしかしたら明後日か、もっと先かもしれないが、いまよりもっと元気になるんだよ。

 バス停に着くと、少し疲れを感じてベンチに腰を下ろした。さきほど頭に浮かんだ、世界の見え方がまるきり変わるのだという考えが彼の心をとらえていた。こんなふうになにもかもが不確かな状態はもう終わるのだ。明日には、いや、もしかしたら、明後日か、もっと先かもしれないが……

 病院行きのバスがやってきて止まったが、老人がベンチに座ったまま動かないので、すぐにドアを閉めて走り去った。あの介護ロボットともお別れだな、と老人はふと思った。あれはなかなかよくできたやつで、非常に行き届いた世話にはなんの不満もないが、なにしろわたしはこの通り健康で、その気になればひとりでなんだってできるのだから……

 次のバスがやってきて、すぐまた走り去った。自転車に乗った警官が通りがかり、ベンチに座りこんで動かない老人に目を留めると、自転車から降りて彼のそばにやって来た。

「おじいさん、大丈夫ですか?」

「大丈夫かって? わたしは見てのとおり元気ですよ」

「そうですか……どちらからいらしたんですか? これからどこへ行くところ?」

「それは難しい問題だ!」そう言うと老人は考えこむように黙ってしまった。警官はしばらくのあいだ、じっと老人を見守っていたが、やが無線に向かって話しはじめた。

「もしもし、例のお年寄りらしい人をバス停で発見しました。ええ、通報にあったとおり、パジャマ姿のままです。ベンチに座りこんでいて、自分がなにをしようとしていたのか思い出せないようです。……」

 老人は警官に連れられて家へ帰った。玄関まで出迎えにきた介護士は警官に礼を述べると、「おかえりなさい、もうすぐお昼ですよ」と言って老人の手を取った。

 翌朝目を覚ましたとき、なにひとつ変わったところが感じられないので、老人ははたして本当に自分が治ったのか確信が持てなかった。病院へ行くために家を出たところまでははっきり思い出せるのだが、その後どうやって病院にたどり着き、どのぐらい待ってどんな治療を受けたのか、どうしても思い出せなかった。

『痴呆が治っても、すでに忘れてしまったことは思い出せないのだな』と老人は思った。『でもまあ、健康になるっていうのは、病人だったときに想像しているほど劇的でも感動的でもなく、いつも呆気ないものなんだ』心の中でそう呟くと、ベッドから立ち上がり、カーテンを開け放って外の光を部屋に入れた。しばらく窓の外を眺めていると、介護士がドアを開けて入ってきた。

「おはようございます。今日はお元気そうですね」

「おはよう。ああ、昨日病院に行ったからね」

「病院へは行きませんでしたよ」朝食の皿と新聞をテーブルに置くと介護士は言った。

「なぜだ?」老人の表情が強張った。

「どこも悪いところは無いと、ご自分でおっしゃっていたからですよ。どこも悪くないなら病院へ行く必要はありませんから」

「言ったが、それは体の調子は悪くないという意味だ。わたしがアルツハイマーなのは知っているだろう」

「ええ。ですからときどき変なことをおっしゃっても悪く思いませんよ」

「そういうことじゃない!」老人はそう叫ぶと、てきぱきと服を脱いで着替えをはじめた。「今日こそは病院に行くからな」

「どこか具合が悪いのですか?」

「そうじゃない、いや、そうだ」

「具合の悪いところをおっしゃってください。どこの病院を受診すればいいのかご案内します」

「だからアルツハイマーだと言っているだろう」

「それはいつもです」

 着替えを済ませた老人は、介護士に勢いよく歩み寄ると、テーブルの上に広げたままになっていた雑誌を手に取って目次のページを突きつけた。

「これを見ろ!」

「見ました。ご興味があるかと思って、おととい目次に印を付けておきました」

「だったら、どうしてわたしが病院へ行こうとするのか分からないのか!」

「申し訳ありません、わたしの言語理解力には限界があります」

 老人は話にならないといったふうに首をふると、部屋から出ていこうとした。

「まだ朝の七時ですから、病院は開いていませんよ」介護士が言った。

 老人は敷居のところで足を止めて振りかえったが、すぐまた無言で出ていこうとした。

「せめて朝食ぐらいは済ませてはいかがですか」

「腹は減っていないぞ。もう食べたのじゃないか」そう言ってすぐ、テーブルの上に並べられた手つかずの朝食の皿を目にして黙りこんだ。

「いま減っていなくても、病院が開くのを待っているうちにお腹が空くでしょう」老人の気まずげな沈黙に気づかず、介護士が追い打ちをかけた。

「わかった、わかったよ。先に食事をしてから出かけることにしよう」老人はばつの悪さを押しのけるように手を突きだして言った。「ただ、病院に行くのを忘れないように、八時半になったら『病院に行く時間です』とわたしに言ってくれ」

「わかりました」

「もしわたしがなんのことかわかっていないようだったら、理解するまで繰りかえし言うんだ。いいな?」

「わかりました」

 老人はしぶしぶといった様子で引き返し、テーブルの前に座った。朝食のトーストは少し冷めていた。それを齧りながら、老人は焦れったさをこらえつつ、壁にかかった時計を何度もちらちらと見た。夕方になってベッドの上で目を覚ましたとき、老人は空が赤くなりはじめているのに気づいて、いったいなにが起こったのか理解できず混乱し、介護士が「病院に行く時間です」と言うのもしばらく耳に入ってこなかった。

「病院に行く時間です」

「そんなわけがあるか! なぜもっと早く言わないんだ」

「言ったのですが、お目覚めにならなかったのです」

「繰りかえし言うように伝えなかった、か?」急に自分の記憶が心もとなくなり、老人の言葉は尻すぼみになった。

「ですから言いつけどおり、理解されるまで繰りかえし言いました」

 老人は頭を抱えた。ほんの少し外へ出て病院に行くだけで良いのに、そのちっぽけな目的のためには自分自身も介護士もまるで役立たずなのだ。誰かに連れて行ってもらうことができればいいのだが、電話は使わせてもらえず、介護士も決められた手順にしたがって必要と判断したときしか外部と連絡を取ることはない。なにをすればいいのかはすっかり分かっているのに、このまま一生それを果たせず、ただときおり思い出してはすぐ忘れることの繰りかえしなのだろうか? 家族はおらず、近所付きあいもない老人には、そうしたことを頼める相手もいなかった。そもそも頼もうと思っても、すぐに忘れてしまうかもしれないのだ……

 そのとき老人の頭に、ひとつの考えが浮かんだ。

「今日は何日だ?」

「十月十四日です」介護士が答えた。

「たしか毎月十五日に、メンテナンスをしてもらっているよな」

「わたしのメンテナンスは十六日の予定です」

 老人は、介護サービスの会社から月に一度、介護士のメンテナンスのためにやって来る若い男のことを思い出していた。といってもあまりよく覚えてはいなかったが、無口な痩せぎすの男だということはなんとなく記憶していた。はたして、ほとんど話したことのない彼が──もしかしたらまったく話したことがないかもしれない──老人を病院に行かせるために自分の職務以上のことをしてくれるかどうか分からなかったが、先日の脱走によって監視の目が厳しくなっているいま、老人が外部の人間と接触する機会はほかに思いつかなかった。

「いつもメンテナンスに来る若者がいるだろう。彼に伝言を頼めるかな」

「ええ。わたしの不調や故障が疑われるときのために、メンテナンス要員へのメッセージは受けつけております」

「じゃあ彼にこう伝えてくれ。アルツハイマーの治療を受けに行きたいのだが、この介護ロボットはわたしが脱走しないよう監視しているため、電話も使えず家族もいないわたしは病院へ行くことすらもままならない。また、わたしも自身の病気のために、自分でやろうと思ったことをうまくやり遂げることができない。どうにかわたしが病院へ行って治療を受けられるように手立てを考えてくれないだろうか……以上だ」

「わかりました」介護士が答えると、老人はふっと溜息をついた。

「おまえがいま言ったことを本当にわかってくれれば、こんな苦労はしなくて済むんだがな」

「申し訳ありません。わたしの言語理解力には限界があります」

「いいさ。わたしも同じだ」

 数々の失敗によって疑り深くなっていた老人は、目を覚まして自分が病院のベッドの上にいるのを発見しても、すぐに手放しで喜ぶようなことはしなかった。それでも、病室に入ってきた看護師から体調について訊かれ、医師から治療の内容について、一度聞いたはずだが忘れてしまった説明をあらためて受け、今後のことについてあれこれ指示を受けるうち、ようやく自分は無事治療を受けることができたのだと納得するに至った。ただ、ロボットの整備士がどのように自分を病院まで連れてきて、どのような経過をたどって病室のベッドで目覚めたのかは思い出すことができなかった。

『痴呆が治っても、すでに忘れてしまったことは思い出せないのだな』と老人は思った。『でもまあ、健康になるっていうのは、病人だったときに想像しているほど劇的でも感動的でもなく、いつも呆気ないものなんだ』

 それから退院するまでは単調な日々が続いた。日に何度かの検査のほかはほとんどベッドの上で過ごし、見舞い客もないので、こうも退屈だとすぐまたボケてしまいそうだと医者にこぼした。自分が治ったことを実感する機会はこれといって無かったが、医師や看護師と話をするときに、相手が自分のことを責任ある人格として扱っていると感じるのは良い気分だった。

 家へ帰るタクシーの中で、老人は家に残してきた介護士のことを考えていた。どうやって自分が監視の目をすり抜けて病院にたどり着いたのかは謎のままだった。自分を助けてくれたであろう整備士がなにかメモでも残していてくれるといいのだが、さすがにそこまで至れり尽くせりではないだろう。

 何日かぶりの我が家に帰り着き、ドアを開けて玄関に入ると、寝室からなにかが動く物音がして、老人は思わず身を固くした。鍵を手にしたまま老人が立ち尽くしていると、寝室のドアが開いて介護士が廊下に出てきた。

「おかえりなさい、もうすぐお昼ですよ」そう言うと、介護士は続けて寝室の中を振り向き、「隆彦さんが帰ってきましたよ、隆彦さん」と言った。

 状況が飲みこめずに老人が介護士をじっと見つめていると、寝室のドアから、整備士の若い男が姿を現した。

「ああ、どうもおかえりなさい。お邪魔しています」

 寝室のテーブルを囲んで整備士が語ったところのは以下のようなことだった。メンテナンスの日にやって来た彼は、老人が介護士に託しておいた伝言を聞き、まず会社に連絡して指示を仰いだ。介護サービス会社でもアルツハイマーの治療法のことは把握しており、治療を希望する場合に介護ロボットに外出を手伝わせる機能も用意しているが、そのためには本人か家族の同意が必要とのことだった。介護士との会話から、老人に家族がおらず自身で介護サービス会社に連絡することも難しそうだと判断した男は、メンテナンスのために介護士の電源を落とすと、眠っていた老人を起こして病院へ送り届けた。電源が切られたままの状態だとインターネット越しに会社に気付かれてしまうので、彼は一計を案じ、介護士のデータベースに手を加え、自分を老人だと認識させ、老人がいないあいだ、かわりに介護を受けることでうまく目を欺いたのだという。

「すみませんが、家にあった食糧をいくらかいただきましたよ。こいつが料理して出してくれるし、外出することもできないもので」若い整備士は言った。

「それは構わないが、何日もここにいて平気だったのかね。仕事のほうは」

「ええ、仕事といってもぼくの場合はお客さんのところでメンテナンスをしたら、あとはメールで会社に報告をするだけなので、いなくなっても誰も気付きません。その後については、ちょうど有休を消化しようと思っていたところなのでね」それから男は介護士を眺めてしみじみ言った。「それにしても、はじめて体験しましたがこいつの世話はなかなか行き届いていますね。細かいところにまで気がつくし、おかげでここ数日はだいぶ怠けた生活を送りましたよ。ぼくも歳をとって体が利かなくなったらお願いしようかな。もっとも、おむつを替えられるのはなかなか恥ずかしかったですが」

「漏らしたのか?」老人はぷっと吹き出した。

 若者は肩をすくめると、ポケットから紙切れを取り出して電話番号を書きつけた。

「ロボットの解約に関してはここに連絡してください。アルツハイマーの治療を受けたという診断書があればスムーズに手続きができるはずです」

「電話は使えないんだ」

「ああ、そうでしたね。それじゃ、ぼくのほうから伝えておきましょう」

「頼むよ」

 整備士が帰ると、老人は介護士と二人残された。介護士は以前と変わらず、あれこれ老人の世話を焼いた。以前は気がつかなかったが、介護士は一日のうちに何度も、現在の時刻や、日々の習慣について老人に思い出させようとした。老人が「ああ、分かっているよ」と何度言っても、介護士はそれをやめようとしなかった。それはかつては実際に必要なことだったのだろう。だがいまとなっては、老人が「もうアルツハイマーは治ったんだよ」と言っても理解できず、同じことを繰りかえす介護士は、ひどく滑稽で哀れに思えた。

「そろそろおむつを取り替えましょうか」昼過ぎになって介護士が言った。

「おむつは穿いていないよ」老人は答えた。

「まあ、それじゃいま穿かせてあげますからね。ベッドに横になってください」

 老人は拒否しようとしたが、なにを言っても通じないので、おとなしく従うことにした。ベッドに横になると、介護士が慣れた手つきで老人の腰を持ち上げて、ズボンと下着を脱がせた。

「あら、今日は下着がきれいですね」

「ああ。だからおむつは必要ないんだ」

「でももしものことがありますからね。さあ、いま穿かせますよ」

「なあ、わたしのアルツハイマーはもう治ったんだよ」介護士に両脚を持ち上げられ、おむつを穿かせてもらいながら、老人は呟いた。「だからもう、そんなにあれこれ世話を焼いてもらう必要なんてないんだ。きみはもうすぐ解約されて、わたしのところからいなくなってしまうんだよ」

「申し訳ありません。わたしの言語理解力には限界があります」

 数日後、介護サービス会社のスタッフがロボットの解約手続きのためにやって来た。例の整備士も一緒だった。彼は軽く微笑を浮かべて老人に会釈すると、そのままロボットのほうへ行って電源を切り、運び出すために黙々と分解しはじめた。スーツ姿のスタッフから説明を受けながら、老人はすらすらと書類に記入し、手続きを済ませた。帰り際、介護会社のスタッフが「またどこか体の具合が悪くなったときのために」と、他の介護ロボットの紹介を申し出た。老人は断ったが、結局押しに負けてカタログだけは受け取った。

 老人は何年かぶりに家でひとりきりになった。不意に寂しさが襲ってきた。妻が死んでから介護を受けるようになるまだのほんの短い期間のほかは、もう長らくひとりで過ごしたことなどなかった。老人の頭に当時のことが浮かんできた。癌で弱りきって死んだ妻の葬式のあと、それまでは心身ともに健康だったのが、一気に痴呆になってしまったのだった。いま感じている虚しさは、あのときのものに似ているという考えが老人の頭をよぎった。老人はテーブルの上に置いてある、スーツ姿の男が置いていったカタログにじっと目を注いだ。

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