第4話

 朝の予想は外れた。屋上に続く階段に、彼女の姿は無かった。まだ来ていないのかもしれないと思い、しばらく座って待つことにする。だが、いくら待っても彼女はやってこない。

「うう……ていうか、なんでこんなに寒いんだ」

 さっきから隙間風が吹き込んできて体が冷える。

 ん?隙間風?

 咄嗟に後ろを振り向く。そこには、屋上へ出るための扉が一つ。

 扉は、微かに開いていた。

「鍵かかってないのかよ!」

 胸がざわついた。立ち上がって勢いよくドアを開く。

 目の間に、一人の少女が立っている。短く切られた髪の毛に、露わになった小さな耳。そしてそこから伸びたコードは、彼女の綺麗な手の中のスマートフォンに繋がれている。

 リンは、傘も差さずにそこに立っていた。華奢な背中が、あまりにも弱々しい。

「リン!」

 気づくと俺は駆けだしていた。駆け寄る最中何度も名前を呼ぶが、一向に気付く気配がない。

 少しばかりの苛立ちを覚えながら彼女のもとに辿り着く。

「リン!!」

 肩を叩きながら呼びかける。リンは、肩をびくっと振るわせてこちらを振り向いた。

 彼女は泣いていた。

 雨かもと思ったが、そうじゃない。彼女は間違いなく、その目を内なる水で濡らしていた。

「何やってんだよお前!」

「シュン……」

 そう言って、リンは床に膝をついた。俺もしゃがみ込み、少し自分の方に抱き寄せて崩れそうな彼女の体を支える。

 一体、彼女の身に何があったというのだ。

「どうしたんだよお前」

「シュン……。私、私ね……」

 イヤホンを取る手が震えていた。綺麗なその手は、生気を失い真っ青だった。

 緊張が走る。

 涙で濡らした目をこちらに向け、言う。

「私…、耳が、


 ■


 重力が、何倍にも膨らんだような感覚に陥る。その言葉は、あまりに重すぎた。

 言葉が出ない。何か声を掛けたいのに、何を言えばいいか分からない。

「私昔から、耳の病気で、いずれ、聞こえなくなるって、言われてたの」

 リンの言葉は僅かに輪郭がぼやけ、その声には辛さがにじみ出ていた。

「でも、音楽聴くのは、すごく好きで。高校に入って、文化祭で、CALLAをやるって、聞いたから、どうしても、聴きたくて」

 去年の、俺たちのライブ……。

「すごく良くて、勝手に録音、しちゃったの。毎日その歌を、聴きたかったから」

「……録音のことは、気にしなくていいよ」

「……本当は、もっと、耳を大切に、するべきだった。大きな音で、演奏するライブは、やっぱり、耳に良くなくて。でも、後悔はしてない。CALLAの曲が、好きだったはずなのに、いつの間にか、アンタの歌う歌が、好きになった。」

 一度言葉を切る。

「アンタの歌を、毎日聴いた。そうして、アンタのことばかり、考えていた。二年になって、クラスが変わって気付いたの。私はアンタに、恋してるんだって」

 雨は、止まない。

「アンタの歌が好きで、アンタが大好きだ。でも、もうほとんど聞こえない。アンタの声も、歌も、聞こえない」

 

 俺はリンのことを、何も知らなかったのだ。


席替えで前の席に変えてもらった理由。声を掛けても、全然気づいてくれなかった理由。

そして、俺の作った曲を、聴きたいといった理由。 


「いつか、聞こえなくなるなら、今、シュンの全てを、聴こうと思った。あなたの音楽は、ちゃんと、心に残るものだから」

 ずっと、探していた。俺が音楽を続ける理由。

 それはとうに、目の前にあった。


「リン」

 再び、彼女の目が俺を見据える。

 俺は、彼女にとっての太陽になれる。砕けることを知らない氷を、溶かしてあげられる。

 雨は、止まない。その雨に溶け出してしまわないように、より強く彼女の肩を抱く。

「俺は、リンのために音楽をやるよ」

 また、涙が零れ落ちる。溶けた氷は、何よりも美しかった。


 彼女と出会い、漠然と始めた音楽にようやく「意味」が生まれた。その「意味」は俺を動かし、確かな感触とともに俺の音楽を生み出す。その音楽は再び「意味」を与えらえれ、再び俺を突き動かす。


 耳が聞こえないのが何だっていうんだ。死ぬまでだって作ってやる。彼女の「氷の心」に、直接届く音楽を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷の彼女は砕けない またたびわさび @takazoo13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ