長岡家は、もとは細川姓を名乗っていた。足利将軍に仕える名家、細川氏の系譜を引いている。


 忠興が十を出た頃、信長が軍勢を引き連れて上洛し、時の将軍、足利義昭を京都から追放した。内通者がいればこそ、事は速やかに成った。義昭の言動を探っては信長に逐一報じていたのが、忠興の父の藤孝である。


 功績を認められ、藤孝は信長から山城国長岡の知行を許された。以後、藤孝と忠興は信長への恭順を示すべく、長岡の姓を名乗っている。


 忠興の初陣は十五歳の頃である。元服を迎える前のことで、忠興は与一郎という幼名で呼ばれていた。天正五年(一五七七年)、織田軍の紀州征伐に、父、藤孝とともに馳せ参じた。


 忠興は無我夢中で槍を振るった。敵兵の血の海を作った。武功を挙げた。味方はこぞって忠興を称賛した。


 父だけが忠興を称賛しなかった。藤孝は地味な眉目をますます曇らせ、小言めいた口調でつぶやいた。


「血気にはやるばかりで、よろしくない」


 忠興には解せなかった。なぜよろしくないのか。より多くの敵を殺せばよいではないか。父は、顔立ちだけでなく性根まで地味な男だ。つまらない男だ。


 藤孝のことを、忠興は子供の頃から好いていない。自分には長岡家とは別の血が流れているのではないかと、十五歳の忠興は、半ば本気で思う。忠興の顔立ちは両親に似ず、晴れやかに整っており、気性もまた苛烈で勇ましいのだ。


 理想の父として忠興が思い描くのは、織田信長の姿である。かつて忠興は、上洛した信長の晴れ姿を、遠くからではあったが目撃した。おお、と思わず声が漏れた。それほどに衝撃を受けた。


 信長は、忠興の父、藤孝と同年の生まれだ。しかし信長は、皺ぶいて枯れかけた父とはまるで違っていた。


 猛烈な覇気と、あでやかな装い。一挙手一投足はもちろん、まなざしやうなずきの一つに至るまで、武神の舞のごとく力強く且つ華やかだった。信長はただそこにいるだけで、まさしく我こそが天下人となるべき男なのだと、声高に証すかのようだった。


 その信長が、忠興の我武者羅な初陣の様子を耳目に入れたらしい。


「与一郎よ、前髪姿からは及びも付かぬ、勇猛な戦ぶりだったそうではないか。今後に期待しておるぞ」


 信長の言葉を伝え聞いた忠興の胸に誇らしさが燃えた。信長への憧れが募り、忠義という言葉の意味を悟った。御館様のために命を懸けねばならぬ。次の戦いではより大きな武功を挙げねばならぬ。忠興は固く心に決めた。


 果たして、初陣より半年ほど後に参じたさんじょうの戦いでは、信長から直々の感謝状をたまうほどに、忠興は活躍した。忠興の右の額に残る傷も、この戦いでこしらえたほまれである。


 翌年、十六歳の忠興は元服した。忠興の名を使い始めたのもこのときだった。


 「忠」の字は、織田家嫡男、信忠のへんである。信長によって「忠」の字を許され与えられた忠興は、自身が織田家と同化したかのように感じた。信長こそが真の父ではないかと、恋い焦がれるがごとく崇拝し、恭順した。


 信長というはげしい存在に心を奪われた同じ頃、忠興はもう一人、彼が我が父であればと憧れる男に出会った。それが明智光秀である。


 光秀は、忠興の父、藤孝と古くから親交があった。先に信長に仕えたのが藤孝で、光秀は藤孝のあっせんによって信長との面識を得たという。それが永禄八年(一五六八年)のことだから、忠興がほんの幼児だった時分の話だ。


 信長は見るからに鮮烈な存在であるのに対して、光秀の真価を知るためには、対面して言葉を交わす必要があった。初め忠興は、光秀のことを舐めてかかっていた。藤孝の旧友なのだ、どうせあの冴えない父と同程度の男だろうと高をくくっていたのだ。


 忠興の初陣をひっそりと称賛したのが光秀であった。次いで信貴山城の戦いで、忠興は光秀の怜悧な陣頭指揮を目の当たりにし、強く感銘を受けた。


 一人のしょうすいくも自在に兵力を動かし得るものなのか。まるで己の手足のようではないか。光秀は、徹底して効率的に敵軍をせんめつした。聞けば、六年前の比叡山延暦寺の焼打ちで采配を振るったのも光秀であったという。


 光秀は多くを語らない。静かな男である。口下手というわけではない。軍略でも詩歌でも政治でも茶の湯でも、口を開いて論ずべき場面では大いに弁を振るい、それがまた整然として筋道立っている。


 彼もまたはげしい男だと、忠興は感じた。光秀は、信長とは違った烈しさを胸に秘めている。信長の烈しさが炎であるなら、光秀の烈しさは氷である。


 日向守様が俺の父なら、と忠興は光秀当人の前で口走ったことがある。どういった場面だったか、しかとは覚えていない。ただ、光秀の形良く禿げ上がった額が酒精のためにつやつやと赤らんでいた。そういう席ではあった。


 藤孝との旧交を懐かしげに語る光秀に、忠興は、俺は父と似ていないし父を好いてもいないのだ、と漏らした。光秀は忠興の言葉に、そのときは静かに微笑んだだけだった。


 思うに、光秀は忠興の発言を気に留めてくれたのではないか。なぜなら、信貴山城の戦いの翌年、忠興が十七歳のとき、光秀が忠興の「父」になったのである。


 忠興は、光秀の三女である珠と夫婦となった。長岡家と明智家の縁組を仲介したのは、忠興が敬愛してやまない信長だった。


 無論、忠興はただならぬ感銘を受けた。この縁は大切にせねばならないと、これ以上ないほど用心した。恐れたと言ってもよい。


 が、嫁いできた珠の顔をいちべつするなり、用心など不要だったと悟った。いわゆる一目惚れである。珠は美しかった。その美しさは、単なる姿かたちの優良さにとどまらず、むしろ内面からあふれ出るはげしさによって冴え渡る種類のものだった。


 忠興は、珠ほど手ごわい目をした女を知らなかった。忠興は興奮し、また慄然ぞっとした。珠の全てを手に入れるための戦を、これから珠に挑まねばならない。女の体を落とすことはできよう。ただ、珠の心を奪い支配することはきっと、てつもなく難しい。


 珠は聡明だった。男の忠興に並ぶほどに、あるいはそれ以上に学問に通じ、知識に富み、弁が立ち、とりわけ人々のしがらみが織りなす綾を読むことに長けていた。


 といっても、珠は表舞台に立ちたがるでもない。淡々として世の動きを見据えては、夫の忠興を前に容赦のない言葉を吐く。


「御前様は狂うておられますね。しいたげられる長岡の民が気の毒です」


 珠が輿こしれをした先が、山城国長岡の勝竜寺城だった。輿入れから二年ほどを勝竜寺城で過ごし、藤孝の転封に伴って、忠興と珠も丹後国宮津へと居を移した。珠がねぎらいと憐れみを向ける相手も、宮津の民へと変わった。


 忠興には、珠の言い草が不満である。忠興は民を虐げたことなどない。藤孝は、内政だの治水だのといった方面には評価が高い。そのやり方を真似るだけでよいのだから、知行の補佐など簡単なことだ。長岡でも宮津でも、大きな問題など起こっていない。


 問題があるとすれば、ただ一点、珠に対する下民らの無礼である。不届きな民が後を絶たぬのだ。


 下男も庭師も僧侶も、珠の姿が視界に入るや、ねっとりと絡み付く目をする。あれは珠を視姦する目だ。色づいた唇やしなやかな首筋に見とれては、小袖の下の柔肌を、甘く喘ぐ吐息を、熱く濡れた女陰を、あえかに果てる姿を、彼奴らは思い描いている。


 例えそれが下民の妄想の中であっても、珠がほかの男にけがされる姿がこの世に存在することに、忠興は耐えられない。珠を見つめ珠に触れ珠を抱いてよいのは、忠興ただひとりなのだ。


 ある日、食事中、庭師が珠を見ていた。それに気付いた瞬間、忠興の腹の底に猛烈な熱が生まれた。無礼者、と怒鳴った。炎のごとく燃える怒りに呑まれ、興奮に身を預けると、時が飛んだ。


 両腕に快い手応えがあった。紅色が噴き上がった。


 忠興は抜身の刀を提げ、返り血を浴びて立っている。足元には手打ちにした不届き者の死骸が転がっている。首を巡らせれば、かすかに眉をひそめた珠が冷ややかなまなざしをこちらへ寄越している。


 ひぃっ、と下女が悲鳴をあげた。たまたま給仕のために来たところ、忠興が庭師を斬るところを目撃したらしい。忠興は死骸を片付けさせようとした。珠がそれを制した。


「目に入れずともよい。行きなさい」


 下女は這う這うの体で逃げ出した。転がされた首は、忠興が異臭に耐えられなくなるまで、そのままだった。珠は平然としていた。蛇のような女だと言ったら、鬼のように狂うた夫には蛇くらいがちょうどよいと返された。珠ははげしい女なのだ。ゆえに美しい。

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