与一郎様、と忠興を呼ぶ声が聞こえた。藤孝の代からの忠臣、家老の米田宗堅である。ひどく気の回る男で、人の心を読むようなところがある。


「何だ?」

「伊也様が、与一郎様に御話があるとおっしゃっています」


 妹の名を出され、忠興は顔をしかめた。歳の近い実妹の伊也を、忠興はかわいいと思ったことがない。長岡の美姫と呼ばれていたが、あれのどこが、と首をかしげてしまう。


 伊也はひとたび嫁いだものの、今は宮津城に出戻っている。なるべくなら顔を合わせたくないが、気の強い伊也のことだ。無視を決め込めば後々いろいろと騒がれ、忠興はかえって面倒な目に遭うだろう。


「伊也はどこに?」

「書院でお待ちです」


 用があるなら、自分のほうが出向いてくればよい。忠興は伊也よりも年上で、男で、しかも先日、父から家督を譲られた長岡家の家長なのだ。が、忠興は一つ嘆息し、書院へと足を向けた。


 書院に鎮座した伊也は、不機嫌を絵に描いたような顔で兄を迎えた。伊也は猫に似ている。気位が高く、見開いた目はまなじりが上がり、微笑むことのない小さな唇はとことん愛想がない。


「御早い御着きですこと。今日は御着物を召しておられたのですね。当然かしら。義姉上様が御一緒ではありませんものね。昼も夜も、さぞお寂しゅうございましょう?」


 微笑むのではないやり方で、伊也は目を細めた。忠興が十七、珠が十五で夫婦になって以来、房事にまで口出しをしてくるという鬱陶しさである。忠興は早々にうんざりとした。


「しばらくの間、珠を味土野から出してやるわけにはいかぬ。御館様亡き今、天下は揺らいでいる。御館様の遺志を継いで天下人となられるのは、羽柴筑前守様か柴田修理亮様か。いずれにせよ、明智の血を引く珠には危険が多い」


「離縁なさるのが筋だったのではありませんの?」

「何を申すか?」


「あら、兄上様は御存じありません? 世間で義姉上様が何と言われておいでか。逆賊の娘が由緒ある長岡家を惑わしている、と面白おかしくはやし立てられておりますのよ」

「くだらぬ噂話はよせ」


「長岡忠興は明智の雌狐にたぶらかされた阿呆だ、ともうかがいました。二十歳にもなって、家を背負う覚悟に欠ける。何とだらしない」

「やかましい。よせと言うておるのだ」


「御自覚はおありなのでしょう? 理屈の通らぬことをしておいでだという御自覚」


 ない、と答えれば、伊也はますます小言を重ねよう。だから忠興は黙った。伊也が何と言おうとも、忠興には忠興の理屈がある。


 伊也は昔から小賢しく、煩わしいほど口が回る。反りが合わないなりに仲良くしてやろうと子供の頃から努力してきたが、そのたびにやりこめられて馬鹿を見るのは忠興ばかりだ。きっと伊也は兄をいじめるのが生き甲斐なのだ。


「兄上様が家督を継いで、間もなく半年。にも関わらず、実際の知行は父上様に任せっきりで、兄上様は暇さえあれば味土野へと通い、義姉上様と会っておられる。夫婦仲がよすぎるのも害悪でござりますね」


 夫婦仲、と吐き捨てた伊也の語調は、これまでに輪をかけて尖っていた。


 伊也の夫だった男は、つい先日、落命している。いまだ子を持たない伊也は、生娘の頃の青さと硬さを保ったままだ。伊也は、よく見れば顔かたちは悪くないのだが、如何せん女としての魅力に乏しい。


 いや、妹もこれから女になるはずだ。次の嫁ぎ先には、心休まる家と男を見繕ってやろう。伊也の先だっての婚姻は、とりあえずの停戦を証明するための儀礼に過ぎなかった。そもそもの初めから、忠興の良縁のようにうまくいくはずがなかったのだ。


「一色家の所領も田舎だっただろう? 京都から遠くないのに、丹後は何もない地だ。長岡よりもひどい。伊也も退屈な暮らしに飽いていたのではないか?」

「山海の幸に恵まれた地でござりました。北の海は波が高く、風に唸って恐ろしかったけれど、その厳しさが美しかった。決して嫌ってなどおりませんでした」


「しかし、長岡伊也が骨をうずめる価値があったとは思えぬ」

「兄上様に御判断いただかなくて結構です」

「拾った命を大切にしろ。おぬしも、もうそろそろ若くはないが、余生というには早すぎる。しばし羽を休めたら、新たな居場所を探してやるから、幸せになるとよい」


「白々しい!」


 火を噴くように、伊也は両目から涙をこぼした。伊也は身を乗り出し、ぎらぎらと光る目で忠興を睨み付けた。我知らず、忠興は後ずさった。


「白々しい、とは?」

「私の夫、一色義定を殺したのは、どなたでした? ほかでもない兄上様でございましょう! 家も夫も奪っておいて、どの口が新しい居場所とおっしゃいますの?」


 忠興は呆れ、困惑した。初め、伊也は一色家への輿こしれを泣いて嫌がった。物わかりが悪い子供のような伊也を、父母がなだめすかして北丹後の一色家へ送り出したのは二年前のことだった。


 伊也の輿入れより以前、長岡家は織田家の命を受け、一色家と対立していた。


 もともと丹後国は一色家の所領である。足利将軍家とのゆかりが深い一色家は、新興勢力である織田信長に下るのをよしとせず、再三の交渉にも頑なな態度をとり続け、ついには両者の間に戦端が開かれることとなった。


 丹後の戦陣に在って、忠興は焦れていた。父の軍略はだらだらとして展開が鈍く、対する一色家は地の利を得て粘り強い抵抗を見せる。一進一退の膠着状態が続くうちに、忠興と珠の間に長女の於長が生まれた。さっさと戦を片付けて、娘の顔を見たかった。


 丹後平定が成ったのは、信長に命じられて駆け付けた明智光秀の入れ知恵と助力があったからだ。


 一色家の前当主、義道は八田城の敗戦を負って自害した。家督を継いだ子の義定も、一色家の残党を集めて弓木城に籠っていたのだが、光秀が間に立って説得するや、案外あっさりと平定に同意した。


 平定とはいったものの、北丹後は一色家の取り分として残され、藤孝の知行は南丹後に限られた。分裂した丹後国の緊張をほぐすべく光秀が提案したのが、一色家当主の義定と長岡家の伊也との婚姻だった。


 婚姻が決まったときには駄々をこねた伊也だったが、いざ嫁いでしまうと、おとなしくなった。義定はどうやって伊也を飼い慣らしたのだろうかと、忠興には不思議だった。ともあれ安堵した。一色家との戦が一段落し、妹の厄介払いも叶ったのだ。


 あれから二年の月日が流れ、今である。伊也の両目は激情の涙を宿し、爛々らんらんと光っている。


「私は長岡家と一色家の和議のために一色義定に嫁ぎました。丹後国が南北に分かれつつも平穏を取り戻したのは、つまるところ私の功績でしょう? 丹波亀山城の明智日向守様の下、南の長岡家も北の一色家も、揃って御館様に恭順を示しておりました。あのまま御館様によって天下が統一されれば、何の問題もなかったのに」


 日向守とは、信長に与えられた光秀の呼称である。いずれ九州平定が成った際には日向国を預けようと、天下布武の志を分かつ者としての誉れ高き名だ。明智が逆賊と呼ばれる昨今、日向守などと表で口にする者はいない。


「御館様の天下布武は、道半ばに途絶えた。日向守様のためにな。伊也は日向守様を恨んでいるのか?」

「いいえ。日向守様のことは残念に思っておりますけれど、私が恨んでいるのは別の男、別の家です。おわかりでしょう? 私は兄上様と、この長岡家を恨んでおります。私を物のように一色家に送り付け、ようやく落ち着いてきたと思ったら、今度は私から一色家を奪った。理屈の通らぬこと、この上ない!」


 伊也の勢いに圧倒されつつ、忠興は口を挟んだ。


「俺と長岡家の理屈は通っている。天下の道理に背いたのは、むしろ一色家のほうだ。一色家は御館様の喪に服すことなく、大山崎の戦の後も羽柴ちくぜんのかみ様に謝罪の一つもしようとしなかった」


「兄上様はいつから御猿さんの手下になりましたの? 南北の丹後国は日向守様の管轄下にありました。日向守様に御助勢することこそ、筋が通っていたのではありません?」

「伊也、口を慎め。筑前守様を猿などと……」


「日向守様は内政の名手で、私が一色家に嫁いでからの短い間にも、幾度となく御助言をくださっていた。たくさんの恩がありました。夫も言っておりましたわ。もし日向守様が応援を求めなさることがあれば必ず馳せ参じよう、と」


 忠興はもとどりに触れた。本能寺の凶事を聞き、光秀からの援軍要請があってすぐに、父に指示されて髻を落とした。つまり、信長の喪に服するとして、格好だけは出家の形をとったのだ。そして光秀への助勢を断った。


 すうすうと心もとない髻は、半年の間にいくぶん伸びたが、まだ十分ではいない。まだ戦には復帰できない。


 伊也よ、と忠興は呼び掛けた。妹を試すような心づもりである。


「本能寺の凶事を為した後、日向守様はどこまで本気で援軍を求めていたのだろうか? むしろ日向守様は、滅びるさだめを自覚しておられたのではないか?」


 伊也は吐き捨てた。


たわけたことをおっしゃいますのね」


 ああ、やはり妹は愚かだ。己の目の前にあるものを信ずることしかできぬのだ。


「俺は戯けてなどおらぬ」

「仮に兄上の阿呆な妄想が事実だとするなら、日向守様に付いた一色家は、ただ踊らされただけということになります」

「まさしくそのとおり」


「大山崎で敗走したことも無駄足、猿の顔色におびえたことも無駄骨だったとは、遺憾ですわ。肩身の狭い思いで過ごす日々でした。そこへ父上様からのねぎらいとお誘いの書状が届きました。どれほど救われた気持ちになったか、兄上様、想像できます?」


 秋の半ばに藤孝は、伊也の夫、義定に、宮津城へ遊びに来ないかと書状を送った。娘の伊也をもらってくれた貴公は儂の息子も同然なのだから、ここは一つ父子対面の宴席を設けようかと思っている。都合はいかがだろうか?


 晩秋に入った頃、義定が百名程度の供回りを連れて宮津を訪れた。と同時に、長岡家の軍勢がひそかに一色家所領に入った。


 饗応の役割を担ったのは忠興だった。愛用の名刀を傍らに据え置いたのは自慢するためではなかったが、美術にいくらか造詣のある義定は、ほうと目を見張った。


「見事で斬新なこしらえだが、どこで手に入れなさった刀か?」

「実はこの拵は自分で設計したのだ」


 忠興は刀に触れようとした。が、細工を凝らした柄がやや遠い。これでは後れを取る。忠興は内心ひやりとした。


 それを察したのが、目端の利く米田宗堅である。忠興の代わりに刀を取ると見せかけ、足を滑らせたふりで台座ごと床に転がした。失礼しましたと口走りながら、宗堅は忠興のすぐそばに刀を置き直した。


 宴もたけなわになった頃である。忠興が刀に手を掛けた。それが合図だった。


 襖が開き、長岡家の家臣たちが抜身の刀を提げて部屋に押し込んだ。油断しきっていた一色家の者たちは、義定を筆頭に皆、瞬く間に血の海に沈んだ。同じ頃、一色家の居城である弓木城にも長岡軍が攻め入り、当主の留守を任された家臣団を降伏させた。


 そのとき伊也は弓木城におり、忠興の臣下に保護されて宮津城へ戻ってきた。おぬしが無事でよかったと型通りの言葉で出迎えた忠興を、伊也は睨み付け、横っ面を張り飛ばした。慌てて止めに入った宗堅は、顔中を引っ掻き傷だらけにされた。


 秋が更け、冬が来て、寒さが増した。部屋に閉じ籠ってばかりの伊也が何を考えているやら、忠興にはわからない。忠興も自分のことで精一杯である。一色家亡き後の丹後国全域をまとめね、寂しい味土野に住まう珠のもとへも見舞ってやらねばならない。


 実は今日か明日にも珠に会いに行こうと思っていたところだ。珠の姿を脳裏に描くと、忠興はそわそわし始めた。伊也のために割く時間などない。


「話は済んだか、伊也?」

「まだでござります」

「ならば、早く話せ」


 伊也は吐き捨てた。


「卑怯者。長岡家との父子の絆を深めよう、伊也のために藤孝の子になってやろうと、夫は決心していた。それなのに御前様は私の夫、私の義定を殺した。もはや御前様など、兄とも思いたくない。長岡藤孝も同じじゃ。あのように卑怯な男、私の父ではない」

「不孝なことを口にするな、伊也。道理をわきまえよ」


「御前様が道理などと、笑わせないでくださいませ。御前様ほど道理の通じぬ人はおりませぬ。一時の情に従って動いてばかり。やること為すこと、意味がわかりませぬ」

「何を申すか?」

「では、私にもわかるようにお答えください。なぜ私の夫を罠にかけ、殺したのです?」


 丹後国の北半分を占める一色家は、目の上にできたこぶだった。目障りでならず、いつかは潰す必要があった。


 時機としてこの秋であったのは、珠のためにほかならない。離れて暮らしている今、珠の身辺の守りは、やはりどうしても手薄である。珠の命を狙うやもしれぬ敵は、いくらでもいる。


 一色家も多分に漏れず、しかも領地が接しており、積年の恨みもあるに違いなく、明智家とのしがらみがどう作用するかも予想できない。考えれば考えるほど、危険であるように感じられた。


 一度ある考えに嵌まり込むと、あとはまっすぐに突き進むのが、忠興の気質である。一色家を滅ぼしたい、と父に告げた。謀殺の作戦を立てたのは父で、当日の御膳立てに奔走したのは家臣筆頭の米田宗堅で、忠興はただ己の理想そのままにちゅうりくの興奮に酔いしれた。


 不意に、ぎらりと光るものがあった。忠興の体は、光の素性に気付かぬうちに動いた。のけぞって、光が走り抜けるのをかわす。が、完全には避け切れなかった。じりりと焼け付く痛みが顔の真ん中に走った。


「あら、残念。一思いに喉を掻き切って差し上げようと思いましたのに」


 伊也が言い放った。手に懐刀がある。切っ先に血が付着していた。忠興は己の小鼻に触れた。ぬるりとする感触がある。痛みが脈打った。


「おぬし、何を……」

「伊也は乱心いたしました。兄上様を斬って捨てるために暴れております」


 言うが早いか、再び刀を振りかぶる。忠興は飛びのいた。書院の外に控えているはずの家臣を呼ぶ。


 米田宗堅を先頭に、数名の男たちが狭い書院に駆け込んできた。あっという間に伊也の刀が取り上げられる。伊也は宗堅に腕を押さえられながら、歯を食いしばって忠興を睨み上げた。乱れた髪が顔に掛かり、両眼は気狂いの猫のように輝いている。


 忠興は不意に、伊也が哀れになった。夫に惚れていたのだろう、と今さらながらに理解した。ならば、夫と一緒に死なせてやればよかった。抱き合った格好の二人を、俺の刀で一息に刺し貫いてやれば、伊也も満足しただろうに。


 夫婦の愛に心を馳せたとき、忠興の胸には珠の艶かしい姿が鮮烈に思い出された。そうだ、ここで暇を食っていてはいけない。味土野へ行かねば。珠が寂しがっているはずだ。


 忠興は宗堅に伊也の世話を言い付け、そそくさと書院を後にした。伊也が金切り声で何かを叫んだが、聞こえないふりをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る