食客商売5話-4「婿旦那の浮気は成功するのか?」
しばらく日を開け、ドモンは約束した場所で約束した時間に スキュレと落ち合った。
季節は冬まっただ中。陽が落ちると、途端に寒さが増す。着いたばかりのスキュレは、口から白い息を吐いていた。
夕方から雨交じりの雪が降り続けていた。水気の多い雪は地面に積もる事なく、地面に吸われてしまう。
「傘を」
ドモンは持っていた傘をスキュレにさし出す。スキュレは傘も差さず、貫頭衣に付いた頭巾を被っているだけだった。
「ご好意だけ受け取らせて下さい」
「濡れたまま歩く訳にもいかないでしょう」
結局、一つの傘を共有することにした。相合傘。申し訳なさそうにスキュレは何度も頭を下げた。
「参りましょうか」
「ええ。よろしくお願いします」
二人は歩き出した。
スキュレがぬかるむ足元に意識を向 けながら歩く。その隣でドモンは、彼女が転ばないよう注意を払っていた。
「今日で2週間ですか」
徐にドモンが訊く。
「はい。そろそろ、持ち出したお金も底をついているはずです。あの人、この雪の中で凍えていなければいいのだけれど」
「今日、ご主人が見つからなかったら。そのときは、奥さん……」
ドモンは慰めるような目付きで、スキュレを見やった。
「はい」
スキュレはこくりと頷く。彼女の横顔を、ドモンはじっと見つめ続けた
彼女と再会したのは2週間前。彼女がドモンの事を探していたのだ。
夫が家を出て行ったきり、戻って来ない。
青白い顔には青みが増していた。
夫を連れ戻すのに協力してほしいと、彼女は泣きながら懇願してきた。
ドモンはその場で首を縦に振った。
それからというもの、ドモンは時間を見つけては、彼女に同行して夫探しを手伝った。
手当たり次第、心当たりのある飲み屋や売春宿を尋ねてみたが、収穫は乏しかった。
僅かな生活費を持ち出した彼女の夫は、夜な夜な繁華街で酒を飲み歩いている事までは突き止めた。
しかし、肝心の行方は未だつかめない。
「あと探していない場所は、ここ位ですわ」
繁華街の片隅に二人はたどり着く。
寂れた店や宿が、肩を寄せあうように乱立していた。街灯のない路地は、汚い壁やぬかるんだ道のせいで酷く不気味だった。
「ここにはあまり来たくは無かったのですが。仕方ありません。安いお金で借りれる宿が何軒も あります。もしや主人は……」
か細い声を紡ぎだすように言う。
「特に治安の悪い場所だ。入るのは賢明ではありません」
「ですが、探していないのはここだけです」
そして、彼女は言う。
「誰よりもよく知っていますわ、この街で特にひどい所なのは」
二人は〈最悪な通り〉に足を踏み入れた。
人気はない。だが、朽ちた建物の隙間から漏れる灯りが、人の存在を示していた。
雪はまだ降り続く。二人が並んで歩く度に、傘に積もった雪が下へ流れ落ちていく。
「ここに住んでいたのですか?」
ドモンは訊いた。
「珍しい。今までわたしの一切を訊かなかったのに」
スキュレは目を細めて微笑した。
「ええ、そうです。14歳で娼館に売られ るまでね。あの後、両親がどうなったのかは知りません。引っ越したのか、今も住んでいるのか。知りたいとも思いませんが」
彼女の言葉に感情はこもっていなかった。あえて封じていると、ドモンは見抜いた。
「それから主人に出会うまで、あちこちの店で働いていました。あの頃の主人はとても良い人でした。だから信じてしまったんです」
「何を?」
「これからは少しだけ幸せになれるって。今までの辛い日々はこれで終わりなんだって。でも、それは違いました」
スキュレはかぶりを振る。
「……それでもあなたは、夫を探している。なぜ?」
「嘘に聞こえるでしょうが、あんな人でも、わたしにとってはかけがえのない夫です。愛というものでしょうか、それがまだ 、心に残っているんです」
淀みない口調。芯のある物言いだった。
しかし……。
「見え透いた嘘はつかないことだ」
冷たくドモンは一蹴する。スキュレが足を止めた。その数歩前でドモンも止まる。
「この世に存在しない男を追い続けて、あなたに何の得があった?」
振り返ったドモンの顔には、やはり感情はない。怯むスキュレを見定めようと、彼は冷徹な視線を向けていた。
「一緒にいて欲しかった。一緒に、いつまでも、わたしの隣を歩いて欲しかった。それだけで、わたしは幸せ」
スキュレは青白い顔に笑みを作る。
混じり気のない純真な笑顔だった。
「あんな男といた数年より、今までにない幸福を味わえている。こんなこと知ってしまったら、止められるわけ、ないじゃない」
「主人の居場所を問う気はない」
予想はついている。彼女が手を下した。
「噂は知り合いの娼婦達に流させたのか?」
「みんな、おもしろがってやってくれた。だから、想像以上に広がったわ。やはり、人の子ね」
なぜ、という質問をドモンは押し殺す。
代わりに袖の内に手を引っ込めた。
頭巾を脱ぎ、長い髪を雪で濡らすスキュレは、笑顔を絶やさない。彼女は胸をかきむしり、喘ぐように話す。
「わたし、知ってるんです。貴方には奥さんと娘がいると。だから、貴方と一緒にいられる時間は限られてしまうし、いつまでも長続きしない。もし……あらぬ噂がご家族の耳に入ったら……わかりますよね?」
「分からん」
ドモンは短く吐き捨てた。
「どうして? どうして、わたしの事、理解してくれないの?」
「したくもない」
男の口から飛び出る言葉には、悪意も敵意もなかった。
「まったくもって理解できぬ」
素直に分からないと、彼は正直に答えていた。それがどのような事態を引き起こすか、承知の上で。
「そんな。貴方は……あの人じゃないの?貴方は、あの時、わたしを助けてくれたあの人でしょう?だったら、わたしのことを幸せにしてくれるはず。どうして?どうして、わたしを否定するのよ!?」
スキュレは懐から小刀を抜いた。
「貴方は……そうだ、分かった!キサマは、あの人じゃない!それなら……わたしを幸せにしてくれないのならっ!」
足元に溜まる、半透明の雪をぐちゃぐちゃ踏みつけながら、女は男の胸へ飛び込む。
対するドモンは、その場に立ち尽くしたまま、素早く袖に引っ込めていた手を出した。その手には黒い縄鏢が握られていた。
ドモンは腕をしならせて錘を投げた。
小刀に紐が巻きつき、遥か頭上へ弾き飛ばしてしまう。
湿った音が二つ響いた。
小刀が地面に落ちた音と、スキュレが勢い余って転んだ音の二つ。
女は濡れた地面の上でむせび泣く。よそ行きの着物は汚れ、寒さで赤らんだ顔もくしゃくしゃになっていた。
「私はお前の幸せではない」
女にくるりと背を向けてドモンは言う。
「嫌よ。行っちゃ嫌……」
地面に突っ伏したまま、スキュレは呻く。
「逃してなるものですか」
彼女は雪の中に埋まっていた石を掴む。殴って人の頭をへこませるのに充分な大きさの石だった。
甲高い奇声をあげ、女は再びドモンへ襲いかかる。
男は振り向かない。スキュレに、恋に狂う般若に対して、ずっと背中をみせたまま。
縮まる二人の距離。
そこへ水を差すように、銃声が轟いた。
弾丸はどちらにも当たっていない。
外れた?
否、命中した。
二人の頭上。建物の屋根に。
衝撃を受け、雪の塊が屋根からずり落ちる。今から数百年前、遠い異国の学者が発見した<重力>なる力で、雪は地上へ降り注ぐ。
ちょうど真下にいたスキュレは避ける間も無く、落ちてきた雪の下敷きになった。
ドモンは弾が飛んできた方角を眺める。
こちらから狩人の姿は見つけられない。だが、向こうにはしっかり見えているだろう。
人間業とは思えない狙撃をやってのけた
ヴィクへ、ドモンは手を振った。
それから、冷然と女を見下ろした。
「……雨交じりの、柔い雪でなければ、貴様は死んでいたかもしれない」
赤く腫れた顔は、涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃに、着物も泥と水ですっかり汚れてしまっていた。
「ま……待でッ!」
「断る」
ドモンはそれ以上は何も言わず、足早に立ち去る。通りには女の泣き声がこだまして響き渡った。
いつまでも。
ドモンがいなくなっても、ずっと。
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