食客商売5話-3「婿旦那の浮気は成功するのか?」
〇〇〇〇
家に戻ったドモンは 人気のない台所で遅い夕食にありついた。
ロウソクの灯りを頼りに、冷めた雑穀に温め直した出汁をかけ、手早くかき込む。
「食べるか?」
戸口の側にそっと声をかける。
同時に、椀を静かに置き、匙を持った手をテーブルの下へ隠した。
「遠慮する。いっぱい食べたくなるから」
ニトが背中を壁に預けて立っていた。
「ふむん」
「ちょいと。一人で納得しないでおくれ」
ドモンは片方の手で瓶を持ち、食べ終わった椀に茶を注ぐ。もう片手はまだ机の下。
迂闊に近寄れない。間合いに入ったら、匙で目玉をくり抜かれてしまいそうだ。
ニトは口許を綻ばせた。
「旦那は変わらないよね」
ドモンは茶を飲み干してから答えた。
「変われなかった。それだけのことだ」
ふうん。ニトはしげしげと、ドモンの無表情を見つめる。
「てっきり、愛情を向ける先は変えてしまったとばかり思ってたんだけど」
ドモンの眉間がほんの僅かに動く。返す視線は鋭かった。
男の眼光を前にしても、ニトは調子を崩さない。飄々と彼女は尋ねる。
「今日も女と二人でうろついていたって?」
沈黙。しばし後、ドモンは答えた。
「尾行されている気がしたが、そうか。あれはお前か?」
「ちがう。ヴィクだよ」
「あの男が?なるほど、確かに追跡には適任の男だ。二度、見失いかけた」
ヴィクがレミルに頼まれ、尾行をしたと、ニトは正直に打ち明けた。
「レミルには尾行は失敗したと誤魔化したんだって。刺激が強すぎたんだろうねぇ。帰ってきた時は、顔が真っ青だったよ、あいつ。可愛い坊やじゃないか」
へらへら笑う食客とは反対に、婿旦那の表情は硬い。その中にはもちろん、不機嫌が混ざっていた。
「予想以上に噂が広まってる。いずれ女将ちゃんの耳にも入るだろう。ひょっとしたら既にかもだ」
「コッパァだな、面白おかしく話を広めているのは。いや、ヤツ以外にもいる筈だ。心当たりなら充分あるぞ」
ニトは心なしか、ドモンの口調の端々に、心の乱れを感じた。
笑いを堪えて食客は言った。
「友達を選ばないからこうなる。でもさ、同僚の木っ端役人どもが触れ回っているとしてもだ……話 の広まり方が早すぎやしない?」
ニトの目つきが変わった。
のんびり屋の食客から冷たい裏稼業の人間へ。
ドモンをはじめ、ほんの一握りの人間だけが知る、彼女の本性だ。
静かに考えるドモンは、やっと机の下に隠していた匙を椀の上に置いた。
こちらも体に纏う雰囲気が変わっていた。
それは言うなれば、心を凍てつかせてしまう、尖って鋭い冷気だった。
「ひょっとして旦那」
「言いたいことは分かった。ニト、お前の考えは当たっているかもしれん」
○○○○○○○○
あの人に出会うまで、私は何度もこの世を呪った。自分の力ではどうにもできない。理解していても尚、呪わずにはいられない。
それが、シオン・スキュレの日常だった。
来る日も来る日も、シオン・スキュレは夫から暴力を受けていた。
他にどうする事もできない。
やがて泣くのも疲れた彼女は、耐えることしかできなくなっていた。
かつて夫は名の知れた職人だったらしい。
色んな品を作っていたが、特に髪飾りにかけては、右に出るものはいなかったそうだ。
あの頃の夫はとても輝いていた気がする。
もう覚えていない。
シオン・スキュレは夫に関する記憶を殆ど忘れていた。残っている記憶は、どれも今とは段違いに幸せで溢れていて、現実味がなさ過ぎた。これはひょっとしたら、夢なのかもしれない。
だって、現実があんなに輝いている筈ないのだから。
夫は変わってしまった。もしかすると、ずっと昔からこうだったのかもしれない。
仕事は一つも入ってこない。生活は荒み、心は日に日に貧しくなっていく。夫も。怒りのはけ口にされた私自身も。
夫は家の外でも、しょっちゅう暴力を振るっていた。人目のつきづらい場所に連れ込まれて、急に殴られる。
咎める者など誰もいなかった。
あの人以外は。
あの日、あの人は、夫の振り上げた腕を後ろから掴んで止めた。
そして軽々と投げ飛ばし、ねじ伏せて、金輪際、暴力を振るわないと約束させた。
その人の名前はドモン・マギル。
愛しい人。あまりにも愛おし過ぎて、心は焦がれてしまいそう。
会いたい。早く、あの人に。会いたい。
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